第10話 魔法少女化計画②
何故こんなことになったのか。
私は今、妹の手を引いて、商店街を全力で逃げている。
右手には想楽。左手には何もない。できればこのまま、魔法少女のステッキとも、契約書とも、世界征服とも一生無縁でいたい。
いや、世界征服はもう手遅れかもしれない。バイト先がそれなので。
「お姉ちゃん、走るの?」
「走るよ。今走らないと、お姉ちゃんの人生に変身バンクが追加される」
「変身……ばんく?」
「知らなくていいやつ!」
想楽は不思議そうに首を傾げながらも、ちゃんと私の手についてくる。小四女子の足に合わせているので、全力疾走というより早歩きと小走りの中間くらいだ。それでも私の心拍数は十分に上がっている。
主に恐怖で。
始まりは数分前。
世界征服玩具店の奥で、店長が妙に真面目な顔をして、分厚い紙束を机に置いた。
『魔法少女化計画・協力同意書』
表紙には、そう書かれていた。
同意書。
魔法少女と同意書。
並べてはいけない二つの単語が、同じ紙面に仲良く並んでいた。
「白山くん、まずは説明を聞きたまえ」
「聞いたら負けな気がするので帰ります」
「まだ何も言っていないぞ」
「何も言ってないのにもう不穏なんですよ!」
店長の横では、シータがにこにこしていた。デルタは腕を組み、妙に冷静な顔をしている。想楽は、机の上に置かれたピンク色のステッキをじっと見ていた。
「お姉ちゃん、やっぱり魔法少女になる?」
「ならないよ?」
「かわいいのに」
妹の純粋な一言が、胸の真ん中に刺さる。
やめて。
そういう方向から攻めるのはやめて。
シータがふわふわした声で追撃してくる。
「ユズちゃん、きっと似合うよ〜」
「似合う似合わないの問題じゃないんです」
「安全性も考慮されている」
デルタが補足する。
「防刃、防火、防水、衝撃吸収、通信補助、簡易シールド。装備としては悪くねぇ」
「魔法少女の説明で、防刃から入らないでください」
店長は鼻の頭まで下がった眼鏡を指で押し上げ、胸を張った。
「現代の魔法少女に必要なのは、夢と希望だけではない。安全管理と労働契約だ」
「現実を混ぜすぎなんですよ!」
これはまずい。
このまま話を聞いたら、どこかで「まあ試すだけなら」と言わされる。私は自分の意志の弱さをよく知っている。特別手当とか、変身危険手当とか、そういう単語を出されたら一瞬だけ耳が傾く自信もある。
だから私は、想楽の手を取った。
「帰るよ、想楽」
「え、もう?」
「うん。今帰らないと、お姉ちゃんが商店街の平和を守る羽目になる」
「いいことじゃないの?」
「いいことっぽいから余計に危険なの!」
私は店の入口へ向かって歩き出した。背後で博士が「白山くん、待ちたまえ!」と叫んだが、待つ理由がない。
店を飛び出す。
商店街のアーケードには、いつもの昼下がりの空気が流れていた。八百屋のおじさんが段ボールを運び、惣菜屋のおばちゃんが店先に揚げ物を並べている。平和だ。とても平和だ。
だからこそ、ここで魔法少女になるわけにはいかない。
「ユズちゃん、今日は早いねえ」
惣菜屋のおばちゃんが声をかけてくる。
「ちょっと非現実から逃げてます!」
「あら、若いねえ」
「受け止め方が大きい!」
私は想楽の手を引いたまま、商店街の出口へ向かう。
その時、曲がり角の鉢植えの陰から、小さなピンクブラウンのクマが顔を出した。
「こっちだよ〜」
小さいシータだった。
手のひらより少し大きいくらいの、小さなシータ。売り物のぬいぐるみのようにも見えるが、目が合った瞬間に理解する。これはただのぬいぐるみではない。俗に言う子機だ。
完全に待ち伏せである。
「出た!」
「シータちゃん?」
想楽が目を丸くする。
「かわいい」
「かわいいけど、今は敵側!」
「敵なの?」
「少なくとも今のお姉ちゃんにとっては!」
私は反対側の通路へ曲がろうとした。すると、そちらのベンチの上に、今度はブルーブラウンの小さなクマが座っていた。
デルタ子機である。
「そっちは人通りが多い。走るな」
「安全に追い詰めてくるのやめてください!」
私は足を止めた。
右にはシータ子機。左にはデルタ子機。正面には商店街の出口が見える。けれど、その出口付近にも、店先のワゴンの上で小さなシータが手を振っている。
数は多くない。目立たない。一般のお客さんから見れば、店のキャラクターぬいぐるみが飾られているくらいにしか見えないだろう。
でも私には分かる。
これ、包囲されてる。
「お姉ちゃん、クマさんいっぱい」
「うん。かわいいね。かわいい包囲網だね」
かわいい包囲網という言葉の不穏さに、自分で言っていて頭が痛くなった。
私は出口を諦め、商店街の脇道へ入る。そこは店と店の間にある細い通路で、普段は従業員や搬入業者くらいしか使わない。ここを抜ければ、裏の道へ出られるはずだ。
そう思った。
思っただけだった。
通路の奥に、シータ子機がいた。
「ユズちゃん、そっちは行き止まりだよ〜」
「じゃあ先に言ってください!」
「だから待ってたんだよ〜」
「待ち方が悪の組織!」
私は踵を返す。想楽は息を切らしながらも、まだ楽しそうだった。
「お姉ちゃん、鬼ごっこ?」
「鬼ごっこならまだ良かったかな!」
「鬼は誰?」
「たぶん店長!」
その瞬間、頭上から声がした。
『私を鬼扱いするとは失敬な!』
見上げると、アーケードの上部に設置されたスピーカーから店長の声が流れていた。
商店街の人たちは、ちらっと上を見るだけで大して驚かない。慣れすぎである。
「商店街放送を私物化しないでくださいよ!」
『これは緊急連絡だ』
「こっちの声聞こえてるの!?」
『白山くん。君は今、魔法少女適性検査の重要な段階にいる』
「勝手に検査を開始しないで!」
私は叫び返しながら、別の角を曲がる。
そこは昔ながらの玩具屋や駄菓子屋が並ぶ一角で、世界征服玩具店ほどではないが、子供の姿もちらほら見える。ここで派手に騒ぐわけにはいかない。
少し速度を落とす。
想楽が転んだらまずい。どれだけ逃げたくても、そこだけは絶対に譲れない。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫。お姉ちゃんは魔法少女にはならないけど、体力はそこそこある」
「魔法少女になったらもっと走れる?」
「ならないって言ってるでしょ」
自分の声が商店街に響いた。近くのおじさんが「元気だねえ」と笑う。
違う。元気ではない。追い詰められているだけだ。
私は角を曲がり、古いシャッターの前で足を止める。
妙に静かだった。
さっきまで、どこかしらにシータかデルタの子機がいたのに、ここだけ何もない。
逃げ切った?
そんな甘い考えが、頭をよぎった。
次の瞬間、空気が揺れた。
目の前の景色が、ぬるりと剥がれる。透明な布のようなものが持ち上がり、その下からデルタが現れた。
でかい。
知っているのに、いきなり出てこられると心臓に悪い。
「悪いな、嬢ちゃん」
「デルタ本体まで!?」
「仕事だ」
「バイト相手に使う言葉じゃない!」
さらに、デルタの横でもう一枚、透明なマントがめくれた。
そこから橘隼くんが飛び出してくる。
「見つけたぞ、お義姉さん!」
「透明状態でその呼び方するの怖すぎる!」
「ステルス部隊だ!」
「小四をステルス部隊に入れないでください!」
隼くんは得意げに胸を張っている。想楽はぱちぱちと瞬きをした。
「隼くん、消えてた」
「光学迷彩マント! ガングーに貸してもらった!」
「かっこいい」
「だろ!」
「想楽に刺さってるのが腹立つ!」
私は思わず声を上げた。
隼くんは完全に遊びの顔だ。悪気はない。むしろ楽しそうだ。だからこそ厄介である。
デルタが少し身を屈め、想楽を見る。
「想楽、怖くねぇか?」
「平気」
「ならいい」
「よくないですよ。私の精神が平気じゃない」
デルタは私の方を見る。
「抵抗すんな。想楽が転ぶ」
「……それ言われると弱い」
ずるい。
正論で追い詰めるのは本当にずるい。
私は想楽の手を握ったまま、ため息をついた。
「で、どこへ連れていく気ですか」
「地下だ」
「知ってましたけど聞きたくなかった!」
デルタがシャッター横の壁に手を当てる。すると、何もなかった壁の一部が静かに奥へ引っ込んだ。中には細い通路があり、その奥に小さなエレベーターの扉が見える。
商店街の店と店の隙間に、隠しエレベーター。
もう驚かないと言いたい。言いたいけど、普通に驚く。
「ここにもあるんですか!?」
「商店街なら、どこでもだな」
「商店街の地下、どうなってるんですか!」
「秘密基地っぽくてかっけー!」
隼くんが目を輝かせる。
エレベーターの扉が開いた。
中から、小さなシータ子機がぴょこっと顔を出す。
「ごあんな〜い」
「案内じゃなくて連行ですよね!?」
私はそう言いながらも、もう抵抗しなかった。想楽がいる。デルタもそこは分かっている。乱暴なことはしない。
ただ、逃げ道はない。
世界征服玩具店、本当に逃げ場がない。
エレベーターが地下へ降りていく。
想楽は少しわくわくした顔で、隼くんと光学迷彩マントの話をしている。隼くんは「これで敵の背後に回れる」とか言っている。小四男子に与える玩具ではない。
私は壁にもたれ、深く息を吐いた。
「お姉ちゃん、疲れた?」
「うん。主に社会的に」
「大丈夫、わたしはお姉ちゃんを見捨てないよ?」
「想楽……」
泣きそう。
エレベーターが止まる。
扉が開くと、そこはいつもの決戦闘技場ではなかった。
薄暗い部屋。
壁一面に並ぶ、大量のモニター。
商店街の通路、世界征服玩具店の入口、さっき私たちが通った脇道。いくつもの映像がずらりと映し出されている。
その中央の椅子に、シータが座っていた。
ピンクブラウンの大きなクマは、足をぷらぷら揺らしながら、こちらを振り返る。
「ンフフ〜。逃げられないよ〜」
「怖い! 可愛い声で言う台詞じゃない!」
シータはにこにこしている。いつものふわふわした顔なのに、背後のモニター群のせいで妙な迫力がある。
私はモニターを指差した。
「そのモニターで監視してたんですか!?」
「私はモニター使う必要ないけどね〜」
「じゃあ何のためのモニター!?」
「雰囲気?」
「情報統制担当が雰囲気で監視室を作らないでくださいよ!」
奥の方から、店長……地下だから博士か、が満足げに現れた。
白衣を翻し、鼻の頭まで下がった眼鏡を光らせている。いや、光ってはいない。本人が光らせているつもりの顔をしているだけだ。
「悪の組織には監視室が必要だろう」
「なんてテンプレな!」
「白山くん」
博士は真面目な声になった。
「見事な逃走だった」
「褒められても嬉しくないです」
「想楽くんを守りながら、危険な道を避け、混雑を避け、最後まで手を離さなかった。判断力、体力、状況把握、保護対象への意識。どれも高い」
私は言い返そうとして、少しだけ詰まった。
そんなところを見られていたのか。
いや、見られていたのは分かっている。モニターがあるし。モニターがなくてもシータには必要ないらしいし。
でも、博士の言葉はふざけているようで、そこだけは妙に真面目だった。
「魔法少女に必要なのは、敵を倒す力だけではない。誰かを連れて逃げる力も必要だ」
博士がそう言うと、想楽が私の手をぎゅっと握った。
「お姉ちゃん、かっこよかった」
やめて。
その一言はずるい。
「……でも、追いかけ回した事実は消えませんからね」
「無論だ」
「認めるんですか」
「今回は魔法少女適性検査、逃走および誘導耐性試験である」
「勝手に名前をつけないでください!」
シータがモニターの前で手を振る。
「ユズちゃん、ツッコミ持久力もすごかったよ〜」
「その項目いらないですよね!?」
デルタが横でぼそっと言う。
「息切れしても声は出てたな」
「分析しないでください!」
隼くんが親指を立てる。
「お義姉さん、すげー!」
「義を付けるな!」
私の声が監視室に響いた。
博士は満足そうに頷く。
「やはり白山くんには適性がある」
「ありません」
「想楽くんはどう思う?」
博士が想楽を見る。
想楽は少し考え、それから私を見上げた。
「お姉ちゃん、魔法少女じゃなくてもすごい」
「想楽……」
「でも、ステッキはかわいい」
「そこに戻るの!?」
博士が机の上に、例のピンク色のステッキを置いた。
逃げてきたはずなのに、結局ここにある。
先端の透明な宝石パーツが、やけに可愛く光っている。悔しい。ちょっと可愛いのが本当に悔しい。
「では、白山くん。説明を聞こうか」
「聞いたら負けな気がするんですけど」
「逃げてもここに来た」
「連れてこられたんです!」
シータが楽しそうに笑う。
「ンフフ〜」
私は目の前のステッキを見た。
魔法少女になる気はない。
絶対にない。
でも、想楽は少し期待した顔をしている。隼くんは完全に面白がっている。シータは逃がす気がない。デルタは安全確認の顔をしている。博士はもう次の実験のことを考えている。
私は深く息を吸った。
「……説明だけですからね」
博士の顔が輝いた。
「うむ!」
「サインはしません」
「まずは説明だ」
「変身もしません」
「まずは説明だ」
「変身バンクも流しません」
「……まずは説明だ」
「今ちょっと間がありましたよね?」
ステッキが小さく光った。
私はその光から、そっと目を逸らした。
今日の教訓。
世界征服玩具店から逃げる時は、商店街の地図ではなく、地下の構造図が必要である。




