異世界みたいなアメリカの冬の雨
1910年2月5日土曜日、午前5時59分。
炊きあがりの白米から立ちのぼる、火傷しそうな湯気に待ちきれずしゃもじを突っ込む。
どんぶりによそわれた米は、冷えた陶器の中でも炎のように揺らめいている。
その熱を逃さぬよう箸で窪みを作ると、琥珀色の輝きを放つ新鮮な生卵を落とす。
かき混ぜた瞬間に、艶やかな白いランジェリードレスを脱ぎ捨てて、向日葵色のハウスドレスでくるくると回り始める。
清洌な泡が生まれゆく様は「春のヴィーナス」の誕生だ。
そこへ生醤油を回しかけ、間髪入れずかき混ぜると、今度は淡い夕闇色のイブニングドレスへとまた早変化する。
鼻腔を抜けてゆく生醤油の芳醇な香りに理性が震え、その卵かけご飯を掬い上げようとした瞬間――。
イチタロウは、現実へと引き戻された。
ハンマーが金属のベルを叩く「リリリリリ!」という連続打突音を鳴り響かせている。
ベランダへと続く窓の外では、冬の猛り狂う雨が叩きつけていた。カーテンの隙間を裂くように、鋭い稲光が走る。
直後、交差点の対角に聳え立つムーンライトタワーのアーク灯が、カーテンの縁をなぞるように青白い光を溢れさせた。
枕元のテーブルでは、午前6時の目覚まし時計がその任務を遂行していた。
「……せめて一口、飲み込んでからにしてくれ。……いや、夢で味を知るほうが、かえって惨めになるか」
最近見る夢は、決まって2026年の飽食の記憶だった。
かつていた異世界の食事も、いま立っているこの1910年の現実も、彼にとっては等しく「飢餓」に近かった。
「……『一匙飯』なんて不吉な真似をしたから、食べられなかったのかもな」
茶碗にしゃもじ一掬いだけで飯をよそうことは、継子扱いされる、あるいは親の死に目に会えないといった不吉な禁忌として、かつての日本では厳しく遠ざけられていた。
夢の中の自分にさえ、染み付いたこの時代のしつけがそっぽを向いたのかもしれない。
イチタロウにとって、リトル東京の白米は耐え難いほど不味かった。だが、それはこの街の落ち度というより、時代の限界そのものだった。
最大の問題は、米の品種そのものにある。当時、ハワイやカリフォルニアの同胞たちが「故郷の味」として縋っていたのは、天下の銘柄米と謳われた「亀の尾」や、多収性だけが取り柄の「神力」だ。
安めし屋で出されるのは、中国産の長粒種や、南部テキサス・ルイジアナ産の「神力」「九州」といった短・中粒種の混用米だ。
それは、当時の全米を席巻していた外食の覇者、『チョップ・スエイ (チャプスイ)』のための米だった。
ニューヨークからロサンゼルスまで、雨後の筍のように乱立した中国料理店『チャプスイ・ハウス』。
そこでは、米を大量の水でボイルして粘りを洗い流し、「一粒一粒が完全に独立 (セパレート)している」ことこそが、洗練された条件として絶賛されていた。
ソースを吸わせるための、味気ないバラバラとした土台。
そんな品種の貧しさに、未熟な精米技術が追い打ちをかける。乾燥過程で生じた『割れ米』からは澱粉が漏れ出し、不完全な精米が残した糠の脂分は、酸化して不快な臭気を放つ。
リトル東京の安めし屋ともなれば、歩留まりを優先して研ぎも疎かだ。炊き上がりの湯気から漂うのは、食欲をそそる甘い香りではなく、どこか酸っぱく、埃っぽい匂いだけだ。
そして決定打は、ロサンゼルス市の水道水だった。
高い石灰分を含んだ硬水は、質の低い米の艶を奪い、炊き上がりを灰色や濁った黄色に澱ませる。その水で淹れた茶の表面には、不純物が固まった忌々しい膜さえ浮く。
水道水をそのまま、あるいは申し訳程度に煮沸して使うのがこの時代の「普通」だった。
少し格上の店や、味にこだわる喫茶店だけが、巨大な寸胴で大量の湯を沸かし、一晩置いて石灰分を底に沈殿させる。
そうして得た上澄みに木炭を放り込み、不純物を吸着させるという「水の浄化」に縋らざるを得ないのが、この時代の現実だった。
そこまでして炊き上げた「米」を口に運んだとき、脳が受け取る信号は、白米のそれとは程遠い。
例えるならば、それは炊きたての飯というより、安物のビスケットを無理やり湯でふやかしたような代物だった。
鼻腔を突き抜けるのは、未来の米が持つ淡く甘い抱擁のような香りではない。
精米しきれない糠や、焦げた胚芽の生々しい「穀物臭」だ。それは、まるでオーツ麦や未精製の小麦をそのまま噛み潰したときのような、野卑で剥き出しの植物の匂いだった。
未来の米が持つ、あの弾力に満ちた瑞々しい膨らみなど微塵もない。口内に広がるのは、米の粘りではなく、ボロボロと組織が崩れていく「穀物クッキー」のような、酷く脆く、頼りない食感だ。
噛みしめるほどに重たく、舌の上でバラバラと砂のように居座るその塊は、いわば「パンのなり損ない」を無理やり米の形に押し込めただけの、無骨な穀物の礫に過ぎなかった。
当時の天下の銘柄米「亀の尾」でさえ、前世の基準に照らせば、粘りが致命的に欠落していた。
一粒一粒がバラバラに口の中で自己主張し、噛めば噛むほど素朴な味は出るものの、2026年の洗練された甘みに慣れた舌には、あまりに淡白で頼りない。
これで握られた「寿司」は、もはや別の料理だった。元の世界の二、三倍はある巨大なシャリに、赤酢が猛烈に効かされている。
ネタも醤油にどっぷりと浸かったマグロや、極限まで酢で締めたコハダといった、強烈な調味で米の欠点を技術でねじ伏せる「保存食」の延長線上としか思えなかった。
さらに、その白米は冷めれば即座に石のように硬化する。
自らの重みで崩落するおにぎりを喉に通すのは苦痛でしかなく、チャーハンの油でコーティングするか、出汁でふやかしたおじやに作り替えなければ、胃が受け付けない。
普及米の「神力」に至っては、粒が不自然に大きく、そのパサつきは絶望的だ。茶漬けや深川飯といった「ぶっかけ飯」の具として、辛うじて体裁を保てる程度でしかない。
イチタロウにとっては、白米そのものを愛でるなどという贅沢は、この時代には存在し得なかった。
――当時の日本料理が世界から低く評価されていたのは、当然の帰結だ。
米という土台が、あまりに脆弱すぎたのだから。
午前6時38分。
窓の外では、季節外れの小規模な嵐が荒れ狂っていた。
美景荘305号室は、急勾配の屋根がそのまま天井となった、圧迫感が強いドーマー (屋根窓)のある屋根裏部屋だ。月7ドルの家賃に、簡素な朝晩二食が付いて合計12ドル。
夏は暑くて冬は寒い。二階の住人の半額で済む代わり、洗濯はすべて自前という条件だった。
入居の決め手は、広島県人会の強い斡旋だ。大家のミツが同郷の西条出身だったことが、異国での身元保証代わりとなった。
彼の通う南カリフォルニア大学 (USC)法学部は、同じダウンタウン内のコップ・ブロック三、四階。ブロードウェイ街218番地に拠点を置いていた。
レン・ナカムラは大学二年生。当時の法学部は、実学を重視した三年制のコースだった。
まだ成長途中にある新興私立大学のUSCは、「来る者は拒まず」という進取の気性に富んでいた。
特に法学部は、実務家養成を重視していたため、学力試験よりも「学ぶ意欲と授業料」があれば受け入れる柔軟さがあった。
USCが日本人に選ばれたのには、三つの理由がある。
一つ目は、働きながら学べる夜間学部があること。これが最大の理由だった。日中は白人家庭での「スクールボーイ (苦学生)」で、家事手伝いや庭仕事をして稼ぎ、夜に大学へ通っていた。
二つ目は、リトル東京から歩いて通えること。日本食が手に入る、日本語が通じる、同じ境遇の仲間がいるという安心感は、排日運動が激しかった当時のカリフォルニアで生き抜くための生命線だった。
そして三つ目は、日本の「旧制中学校」や「専門学校」の卒業生に対し、一部の試験を免除したり、科目履修生としての入学を認めたりする柔軟な対応を取っていたこと。
ラテン語や高度な英文学の単位を取得した日本人留学生など、官費留学生でもいない時代だ。
Cal (カリフォルニア大学バークレー校)工学部に合格したイチタロウが、どれだけ日系人社会の期待の星だったかがわかる。
美景荘からコップ・ブロックへは、西へ向かってセカンド街を直進し、ブロードウェイ街をわずかに南下する。距離にして約0.6マイル (約1キロ弱)。時間にすれば10分少々の道のりだ。
往復10セントの路面電車代を惜しんだのは、単なる節約のためだけではない。
リトル東京の境界であるロサンゼルス街を抜け、メイン街、小路のセンター街、そして華やかな目抜通りのスプリング街を経て、ブロードウェイ街へと至る。
その道すがら、移り変わる街の肌触りを確認するのが好きだった。
道中、排外的な視線や罵声に晒され、胸が疼くことも少なくない。
だが、その痛みさえも、いま自分がアメリカという巨大なうねりの中に立ち、法学という武器を手にしようとしている実感を、より確かなものにしていた。
風に煽られ、今日ばかりは窓枠が絶え間なく悲鳴を上げている。
その軋みを聞きながら、ナカムラは「今日はマッキントッシュ・ハット (ゴム引き帽子)だけで凌ごう」と心に決めた。
フードを取りつけたマッキントッシュ (ゴム引きコート)の下には、スクールバッグを斜めがけにして、靴の上からガロッシュ (ゴム製オーバーシューズ)を履いている。続いてゴム引きの傘を手にしたナカムラは自室の真鍮の鍵を回した。
ガロッシュは、乾いた床でも粘つくような特有の音を立てる。回り階段で二階へと降りていくと、重くなった足が振り子のように下へ下へと落ちてゆく。
一階、南壁の手摺の影に隠れたステンドグラスを通り過ぎた。
かつてここが邸宅だった頃、優雅な踊り場を備えたU字階段があった名残りだという。だが今のレンには、それが開かずの間を隠す狩野派の金屏風のように見えた。
歳月に曇り、細かな気泡を孕んだガラスに描かれているのは、十九世紀に流行した『黄昏の女神』の寓意画だ。暗い光を通した女神の足元に広がる金色の百合の紋様は、階段と手摺に複雑な影を投げかけていた。
居間に置かれた十人がけの大型ダイニングテーブル。その奥では、201号室の住人、イチタロウが一人で食後のコーヒーを啜っていた。
土日祝日は、白人二名による護衛シフトが敷かれている。
若い一人は玄関の内側、北側の壁際で彫像のように立番をしていた。もう一人は、北西角の205号室の住人、ハリス・ウォーカーとパーラーテーブルを挟んで雑談に興じている。
東の壁を背にしていた護衛の男が、一瞬、ナカムラに鋭い視線を走らせた。
それは単なる値踏みではない。白人街を歩くときに感じるひどく冷徹な眼光だった。
(……ああ、嫌な目だ)
ナカムラの背筋を冷たいものが走る。
「おはようございます。ナカムラさん、これから大学ですか? 学期末試験、健闘を祈りますよ」
「……おはようございます。行ってきます」
イチタロウの視線からも逃げるように、ナカムラは玄関の重い扉を押し開けた。
ドアが閉まる寸前、背後から「幸運を (good luck)」という、若い護衛の人間味のある声が追いかけてきた。
外は、傘をさすのをためらうほどの風が吹いていた。二月にしては、西条の三寒四温を思わせるような春めいた雨だ。
吹き荒れる風を可視化するように、ムーンライトタワーの光が夜をかき消している。その眩い光の中で、雨粒が幾万幾十万もの星となって降り注いでいた。
ナカムラは少し空を見上げてから、傘をステッキ代わりにして歩き出した。
ナカムラの出身は、広島県賀茂郡西条。当時、広島はハワイや北米へ膨大な数の人間を送り出した『移民県』の筆頭だったが、彼の実家は、決して食い詰めて海を渡った困窮層ではない。
1890年代の山陽鉄道開通とともに、西条は『酒蔵の街』として急速な近代化の波に乗った。
ナカムラの生家はその地で酒造業と地主を兼ね、地域の産業を牽引する、いわゆる『富農・知識層』の系譜に連なっていた。
1880年代の苛烈な松方デフレを不屈の精神で耐え抜き、周辺の山林や水田を集約。さらに1894年の日清戦争、1904年の日露戦争における莫大な『軍用酒』の需要が追い風となった。この十五年で、実家の資産は文字通り倍増していたのである。
父、トクサブロウは西条でも指折りの有力者だった。村会議員を歴任する傍ら、新しいものには目がなく、息子の留学先にUSCを選んだのも、多分に彼らしい先見の明と『外聞』へのこだわりからだった。
『これからの日本は、アメリカの法律と経済を知らねば生き残れん』
そんな父の、野心と見栄が綯い交ぜになった期待を背負い、ナカムラはこの霧雨の街に立っていた。
授業料と書籍代として年間約100ドルを要したが、それとは別に、250ドルの仕送りがあった。月20ドルの送金は、実家で言えば『米四石 (八俵)分の大金』に相当した。
そんな父の期待に応えるため、ナカムラは三年間ブロードウェイ街までの坂を登ることになる。
あの時の郷里の長男、大五郎からの冷ややかな視線を意識しながら。
リトル東京の南端、セカンド街とセントラル・アベニュー (S. Central Ave)が交わる南東の角。そこに、ミツの奮闘する「美景荘」が佇んでいた。
西側の高台に君臨する高級住宅地バンカーヒルから、東を流れるロサンゼルス川へと向かって、街は緩やかな傾斜を描いている。
一帯は川の旧氾濫原に近く、周囲よりわずかに窪んだ「ボウル状」の微地形を成していた。
晴天時には気づかぬそのわずかな高低差が、雨の日には如実になる。西の丘から流れ落ちる奔流は、逃げ場を失ってこのエリアに集中し、リトル東京を巨大な泥沼へと変えてしまうのだ。
当時のロサンゼルスは、雨水と汚水を同一の管で流す「合流式下水道」が主流だった。しかし、1900年の約十万人から1910年の約三十二万人という、人口爆発にインフラ整備が追いつくはずもない。
大雨が降れば、管の許容量は瞬く間に限界を超えた。地下で溢れ出した汚水は、地上の雨水と混じり合い、低い方へ、低い方へと這い寄ってくる。
かつては白人銀行家の優雅な邸宅だったこの建物も、路面電車の騒音と、何よりこの「下水の逆流」という致命的な欠陥によって価値が暴落した。
そこを、大家のミツが亡夫の保険金を投げ打ち、格安で買い叩いたのだ。
だが、事態は年々悪化の一途を辿っていた。夏場の熱気や大雨のたびに、低地に澱む下水の悪臭。
それは単なる不快な匂いを超え、排日主義者たちが「日本人は不潔で疫病を撒き散らす」と指弾するための、格好の口実として利用されていた。
低地に淀むセントラル・アベニュー街から、ナカムラはブロードウェイ街を目指し、緩やかな坂を登り始める。
リトル東京と、西に聳えるバンカーヒルの高低差はわずか98フィート(約30メートル)。
だがそのわずかな傾斜こそが、この街の過酷な階級境界線だった。
ブロードウェイの先には、路面電車さえ拒む急勾配をケーブルで引き揚げる傾斜鉄道が、サード街から特権階級をバンカーヒルへと引き上げていく。
勾配33度。傾斜走行距離315フィート (96メートル)、高低差96フィート (29メートル)。片道1セントの「エンジェル・フライト」は、「世界で最も短い鉄道」でもある。
ロサンゼルスに降る雨は、高台の富裕層が排したあらゆる「穢れ」を掻き集め、このリトル東京へと流し込んでいるかのようだ。
通りには逃げ場のない下水の悪臭が充満し、水洗トイレが設置された階段室の前を通るたび、ナカムラは肺が焼けるような錯覚を覚えて息を止める。
その臭気は、故郷の管理された肥溜めなど比較にならないほど、文明の綻びを感じさせる禍々しいものだった。
ベント (通気)の不備ゆえか、下水管から逆流した硫化水素ガスがS字トラップの封水を突き破り、時折、凄まじい勢いで汚水を噴き上げている。
足元の泥濘には、馬車や稀に通る自動車の轍が深く刻まれ、跳ね上がる泥水は洪水のたびにその流れを変える小川のようだった。
馬の屎尿をたっぷりと含んだ濁水を被るまいと、誰もが道の端へ寄ろうとするが、考えることは皆同じだ。
ナカムラは、肩をすぼめて行き交う人々の群れと、容赦なく降り注ぐ季節外れの嵐の間を、ひたすら西へと突き進んでいった。
サンペドロ街に差し掛かる直前、厚手のダブルブレストを纏った工場主に率いられた、十人ほどの日本人少女たちとすれ違った。
幼さを残すその顔立ちは、尋常小学校を終えたばかりの年齢を思わせる。その顔と目は、誇りで輝いていた。
彼女たちの身を包んでいるのは、帆布に油を染み込ませたテカテカと光る黄色や黒のスリッカー (合羽)だ。漁師や肉体労働者の象徴ともいえるその粗末な雨具の下には、ロングスカートとブラウス、そしてエプロンが隠されていた。
不慣れな洋装を強いられているのは、激しさを増す反日感情の火に油を注がぬための、同化の試みだった。
この冬の嵐だ、行き先は農場ではあるまい。おそらくはダウンタウンの縫製工場か、さもなくばパッキングハウスだろう。彼女たちはそこで、日に十時間という労働に身を投じる。
日本での十二時間労働よりは、これでもまだ「マシ」なのだという出稼ぎ労働者の喜びが、この異国の地では常態化していた。
彼女たちの手にする日給は、わずか1ドル。熟練を重ねても、歩合制で1.5ドルに届けば御の字だ。
しかし、その月給の半分以上にあたる10ドルから20ドルの送金が、日本の家族にとっては文字通りの「救い」となる。
1ドル2円の換算で、20円から40円。日本の警察官の初任給が10円、中学校教師ですら15円ほどという時代において、彼女たちが送るドルは、貧しい農村で「金の卵」として崇められた。
親の借金のために身売り同然で海を渡ったとしても、数年この労働を耐え抜けば、故郷の債務は霧消する。孝行娘として故郷に錦を飾れた。
アメリカから送られるこの莫大な外貨こそが、個人の家計のみならず、日本という国家の背骨をも支えている。
そんな日本経済の脆弱さを、ナカムラは彼女たちの泥に汚れたスリッカーの裾に見出していた。
ロサンゼルス街、メイン街と境界を越えるにつれ、行く手を照らす電気街灯. (エレクトロリア)の数が増え、街の輪郭が鮮明になってくる。
まだ点灯している二連グローブ (ガラスカバー)の街灯が、嵐の飛沫を白く照らし出していた。日の出まであと十分もないはずだが、重い雲のせいで、夜の底を歩いているような錯覚に陥る。
足元のガロッシュが、泥を噛む鈍い音から、舗装路を捉える「キュキュ」という乾いた摩擦音へと変わった。濡れたゴムが滑らないよう注意して歩かねばならなかった。
それは、この街の「文明」の内側に足を踏み入れた合図でもあった。
小路のセンター街を抜け、銀行や劇場が軒を連ねる目抜通りのスプリング街を横切る。そしてブロードウェイ街を南下すれば、そこはロサンゼルスの心臓部だ。
四番街の角には、値切り交渉 (ハグリング)を排した「固定価格」と「返品保証」を掲げる中級百貨店『ザ・ブロードウェイ』が。七番街には、洗練されたサービスで富裕層を惹きつける『ブロックス』が聳え立っている。
さらに八番街へと目を向ければ、1908年に誕生した巨大百貨店『ハンバーガーズ』が、十五エーカーもの床面積を誇って街を圧していた。
ミシシッピ川以西で初めて設置されたエスカレーターを一目見ようと、かつては大行列ができたという。
大家のミツに連れられて初めて訪れた際、ナカムラもまた、その魔法のような階段を何度も上り下りしたものだ。郵便局から歯科、果ては公立図書館の分館までを飲み込んだその巨大な器は、もはや単なる店ではなく、一つの「都市」としての威厳を放っていた。
ニューヨークやシカゴを席巻した百貨店文化の波が、いま、この西海岸の急成長都市にも押し寄せている。
ナカムラが身に纏う5ドルのマッキントッシュ・ボックスコートは、この百花繚乱の繁華街を歩くための、ささやかな「鎧」だった。
広島高等学校を卒業し、地主の息子として「選ばれし者」の矜持を持っていた彼にとって、アメリカでの理不尽な人種差別は、精神を摩耗させる絶え間ない気疲れ以外の何物でもなかったからだ。
パロアルトの私立スタンフォード、イチタロウの在籍する公立のCal、そしてナカムラの通う私立USC。
これら西海岸の三大学には、東部のハーバードやイェール、プリンストンといった保守的な男子大学 (メンズ・カレッジ)とは決定的に異なる空気——「共学制」という進歩的な文化が根付いていた。
スタンフォードでは創設以来の「女子学生五百名制限」によりその比率は二割強に留まっていたが、入学制限のないCalでは四割を超え、USCでも三割から四割の女子学生がキャンパスを彩っていた。
だが、制度上の「男女平等」の実態は、いまだ「紳士淑女としての厳格な区別」の域を出ない。法学部のような男の世界に身を置く彼女たちは、教授からも学生からも常に「レディ」として扱われた。
それは対等な知の競争相手というよりは、殺伐とした教室に添えられた「知的な装飾」に近い扱いだった。
校舎内には「女子専用休憩室 (ウィメンズ・パーラー)」が厳然と存在し、講義の合間に男子学生と公然と談笑することは、淑女の嗜みに反する不作法として忌避されていた。制度は開かれていても、見えない壁がそこかしこに張り巡らされている。
そして、このカリフォルニアを代表する三つの学び舎もまた、それぞれに異なる色を帯び、独自の選民意識を育てていた。
州民であれば学費が無料の公立Calや、広大なキャンパスを誇る私立スタンフォードには、三、四年生になるとボロボロの服を纏い、薄汚れたシルクハットのジュニア・プラグ・ハットやシニア・ソンブレロを被る奇妙な特権意識があった。
その帽子には、卒業予定年次や校舎の名称、不吉な髑髏のマークなどが誇らしげに描き込まれている。
講義後になると、Calではテレグラフ通りのアイスクリーム・パーラーやダイナーに集い、若さゆえの放埓を謳歌していた。
対して、夜間学部の存在で知られる私立USCの昼間学部は、より露骨な富の象徴に彩られていた。
キャンパスでは明るい色調のジャケットやストライプ柄のブレザーを纏った良家の子弟が闊歩し、最新鋭のキャデラックやパッカードを駆ってデートへと繰り出すのが流行の最先端だった。
彼らと対をなすご令嬢たちの社交場は、ダウンタウンに鎮座する「アレクサンドリア・ホテル」の壮麗なロビーやサロンだ。大理石の柱と豪勢なシャンデリアの下、彼女たちは時代の最先端を享受していた。
USCには、サンフランシスコの二大学に見られるような先鋭化した日本人差別こそ少なかったが、その代わりに、埋めようのない絶望的なまでの「貧富の格差」が横たわっていた。
だが、そんな桁違いの富豪たちが集う学び舎にあっても、イチタロウのように白人の運転手と武装した護衛を従えて通学する学生など、ただの一人も存在しなかった。
イチタロウが美景荘に現れたのは、1月5日のことだった。
急逝した両親が遺した土地を二束三文で叩き売り、二階の一室に転がり込んできたかと思えば、瞬く間に正体不明の会社を立ち上げ、いまや純白の「ビュイック・モデル10」の後部座席に悠然と身を沈めている。
大学を休学中とは思えぬその優雅な暮らしぶりは、リトル東京の同胞たちの間で、羨望と蔑みが入り混じった毀誉褒貶を巻き起こしていた。
だが、ナカムラには確信があった。イチタロウがこのまま学業を棄てるはずがない。
当時のCal工学部の学位は、日本の東京帝国大学や京都帝国大学のそれに勝るとも劣らぬ重みを持っていた。博士号まで漕ぎ着ければ、帰国後に帝大の教授席さえ約束される輝かしい金看板だ。
たとえ高等文官試験で帝大卒の後塵を拝したとしても、三菱や三井といった財閥であれば、彼を東大・京大卒と同等の破格の待遇で迎えるに違いない。それほどまでに、彼の持つ「学歴」は巨大な資本そのものだった。
渡米後の生活やカリフォルニアの情勢、あるいはバークレーでの学生生活について語るイチタロウは、決して悪人ではないことをナカムラも知っている。
しかし、それでも——朝な夕な、頑なに白米を避け、無機質なパン食にのみ執着するイチタロウの姿を見るにつけ、ナカムラの胸には拭い去れぬ嫌悪が澱のように溜まっていった。
それは単なる好みの違いではない。
自らのルーツを切り刻むような男への、生理的な拒絶反応だった。
そして、そんな自分を厭うてもいた。




