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イトウ・スチール・カムパニー  作者: あくまでもフィクションです。石を投げないで。
12/18

異世界みたいなアメリカの探偵社

 1910年2月1日、火曜日。午前7時半。


 肌を焼くように乾燥した冷気が漂うのは、ロサンゼルス。リトル東京。


 目を覚ましたばかりの街を行き交う、荷馬車の馬と人の吐き出す息の白さを縫うようにして、オフホワイト (Buick White)のビュイック・モデル10・ツーリングが滑り込んできた。


 南向きに構えた三階建て『モレッティ・ブロック』の正面口で、差し込む低い朝日を背に受けた車体は、寒風の中で温かなクリーム色に膨らみ、熟練の職人が手描きした金色のピンストライプが誇らしげに光る。


 東南東の光に洗われたラジエーターやライトの真鍮 (ブラス)は、水底(みなそこ)に沈む砂金のようだ。


 直列四気筒のエンジンの鼓動は、どこか遠い水の中を通した大型ボートのアイドリング――。


 それは早鐘の鳴る胸に耳を当てたように、先進的なOHV方式(Valve-in-Head)の一発ずつの爆発を律動として伝えていた。


 ガソリンと焼けたオイルの匂いだけが、冬の朝の現実感を伴っていた。



 右から二番目のアコーディオン式金網 (ボストウィック・ゲート)の内側に立つキャラハンが、ビュイックに合図を送ると、ドアのない助手席から、私服の護衛アーサー・"アート"・ヘイワードが車道に飛び出して周囲の警戒を始めた。


 ビュイックは大きく開かれたゲートへ、吸い込まれるようにバックで進入していく。


 当時、ホイールベース (前後の車軸間隔)が短いビュイックは、この界隈の狭い路地 (alley)でも驚くほど小回りがきいた。


 運転席のウィリアム・エドワーズは慣れた手つきで右ハンドルを切り返し、天井を支える唯一の角柱――10インチ (25センチ)角のダグラスファー (米松)を目印に、車体後部を東へ向けて停車させた。


 エドワーズが、ステアリング・コラムにある真鍮のレバーを操って、点火タイミングを調整する。


 すると、エンジンの拍動がゆっくりと落ち着いていき、最後はピストンが重力と圧縮に抗うような「グ、グ、ン……」という余韻を残して消えた。


 熱を帯びた金属が冷えていく「キン」という微かな音だけが、半屋外の空間に溶けていく。



「――着きました、イトウさん」


 ネイビーブルーの制帽を正したエドワーズが、高い座席から軽やかに飛び降りた。彼は後部座席 (トノー)へ歩み寄ると、真鍮のノブを回し、肘掛けほどの高さの小さなドアを外側へ開いた。


 「アメリカのスコットランドヤード」を任じるウィリアム・J・バーンズの設立した探偵社だ。その制服に遺漏のあるはずはない。


「ありがとう」


 新調したばかりのダークグレーの外套に身を包んだイチタロウが、赤黒い本革のボタン留めシートから、一歩、外へと踏み出した。



 「おはようございます。イトウさん」


 「おはようございます。キャラハンさん」


 挨拶を返したイチタロウは、空気の入れ替えのため大きく開けられた観音開きの扉を(くぐ)り、東南の角に設けられている応接セットへと向かう。


 南の入口から足元へ流れ込む冷気は、北の二つの跳ね上げ式の窓 (Awning window)を抜けて室内の澱んだ空気を完全に押し流していた。


 観音扉の正面にある窓と鉄格子に、ドアからの直線的な風が抜けてゆき、勢いのある高い口笛のような音を立てる一方で、東側の壁を回り込んできた風は、低く籠もった唸りを上げて、その右にある窓を少し遅れて抜けていく。


 この二つの『笛』は、「ヴォン、フォン、ヴォン……」と、高低の波が不規則に入れ替わる干渉音 (ビート)を伴っていた。二重奏というよりは、空気が悲鳴を上げているような不協和音の繰り返しだ。


 それは、どこか海の中を流れる二つの川のようでもあった。



 そして、内陸のサンガブリエル山脈から海へ向かって吹く風に逆らって、ビュイックの排気ガスに混じり、馬糞や乾いた土――薪や炭や石炭の燃える煙が入り込む。


 サード街を通る荷馬車や、イエローカーの「ウエスト・ファースト・アンド・イースト・サード・ストリート線 (West First and East Third Street Line)」のキーキーという軋み音。労働者たちの話し声。


 キャラハンとエドワーズ、ヘイワードが情報を共有する声も聞こえてくる。


 リトル東京、サード街 (E 3rd St)の朝が始まろうとしていた。




 時計回りに観音扉と窓を閉め終えたヘイワードが帽子を掛けると、イチタロウは短く「ありがとうございます」と声をかけた。


 不用意に窓に近づくことを禁じられている立場としての、形ばかりではない感謝だった。


「どういたしまして」


 ヘイワードは、新聞を広げていたイチタロウの斜め前に腰を下ろした。その視線が、膝の上の黒人新聞『シカゴ・ディフェンダー』に落ちる。


 ソファーテーブルの上には、『ロサンゼルス・タイムズ』『ロサンゼルス・ヘラルド』『ロサンゼルス・エグザミナー』に混じって、日系新聞『羅府新報』『新世界』『日米新聞 』。黒人新聞『ザ・リベレーター』などが並んでいた。


 数日遅れの『シカゴ・ディフェンダー』は、鉄道のプルマン・ポーター (寝台車の黒人係員)たちが、シカゴで積み込んだ新聞を西海岸へ運び、各地の理髪店やレストラン、ニューススタンドへと非公式に流通させていた。


 それらは、隣の黒人経営の新聞販売店から購読しているものだ。



 車掌からポーター、メイドに至るまで、一貫したサービス・システムを支える「プルマン・クルー」たち。彼らは、その名を冠した豪華車両を製造するプルマン社の、巨大な歯車の一部だ。


 1880年代、創業者ジョージ・プルマンは、そんな従業員のための理想郷「プルマンタウン」を建設した。


 シカゴ南端、カルメット湖畔の湿地帯を切り拓いて作られたそのカンパニー・タウン (Company Town)は、1889年にシカゴ市へ編入されるまで、工場の煙突が支配する独立国家のごとき威容を誇っていた。


 しかし、その栄光は一変する。


 市場での失敗により倒産寸前まで追い込まれたプルマンは、損失を補填するため、従業員の賃金を四分の一もカットするという暴挙に出た。


 熟練の白人労働者たちは一斉に職場を去り、代わって投入されたのが、激務に耐えうる移民や黒人たちだった。


 しかし、その過酷な環境には移民たちさえも蜂起した。



 1894年、探偵社の暴力でも抑えきれなくなった工場ストライキの際、会社側は自作自演の放火によって混乱を煽り、それを大義名分として合衆国正規軍を介入させ、無慈悲なストライキ・ブレイキング (スト破り)を断行した。


 このストライキの四年後のイリノイ州最高裁判決により、プルマン社は「町を所有・経営すること」を禁じられることになる。


 鉄道事業という本来の目的(Ultra Vires)を超えて、町(不動産・商店・公共施設)を所有・経営することは企業の権限外であると見なされた。


 住宅や商店などはシカゴ市や民間へ売却されて、シカゴ市の一区画、プルマン地区となっていた。


 黒人のポーターやメイドにとっても、乗車勤務は二十四時間労働に等しく、乏しい賃金を補うためのチップ獲得競争は過酷を極めた。


 『シカゴ・ディフェンダー』が危険視されるのは、彼らの労働運動を支持するだけでなく、人種平等という名の「進歩的思想」を全米に振りまいていたからに他ならない。


 (イトウさん、そんな新聞 (ディフェンダー)を熱心に読んでいると、ピンカートンの「犯罪者名簿 (Rogues' Gallery)」にリストアップされますよ)


 ヘイワードは深くソファに腰掛けた。



 マサチューセッツ州ボストン出身の彼は、元ボストン市警の私服刑事だった。


 バーンズが直々にスカウトした精鋭の一人で、下士官 (NCO)級の正規探偵 (Operative)ではなく、数少ない将校 (Officer)級の探偵員 (Agent)だった。


 そんな彼の探偵社でのバッジ番号は『106』。


 100番台の若番は、設立初期の本部付き探偵員である証だ。


 彼ら探偵員は、潜入捜査や警護のみならず、計画立案や巨大資本 (トラスト)との交渉さえ担う探偵社の「虎の子」である。


 そんな虎の子が、十六歳から十八歳までの女性従業員が七人だけという、まだ青二才と呼べる個人事業主の警護に当たっている――。


 それは、当時の常識に照らせば、あまりにも「異常」な光景だった。




 先月24日、最初の質疑応答の時間。


 タングステン光のシャンデリアが輝くアレクサンドリア・ホテル、グリーン・バンケット・ルームに、乾いた失笑が漏れた。


 イチタロウが通信販売 (メールオーダー)大手五社の全権委任者たちに対し、ウィリアム・J・バーンズ探偵社 (William J. Burns National Detective Agency)への仲介を求めた、その瞬間だった。


 財務省のシークレットサービスを去り、フリーランスとして数年。バーンズが自身の名を冠した探偵社を立ち上げたのは、わずか二ヶ月前、前年十一月のことに過ぎない。


 秘密主義のピンカートン探偵社 (Pinkerton's National Detective Agency)とは対照的に、フリーランスの彼は自らを紙面の主役 (ヒーロー)に仕立て上げる術を心得ていた。


 オレゴン州の土地詐欺、サンフランシスコの汚職調査――「政治腐敗 (Political machine)」を断つ正義の執行者として、彼はすでに全米にその名を轟かせていた。


 だが、真に衝撃的だったのは、その設立直後に起きた「簒奪」である。


 十五年にわたりピンカートンが絶対的権益として独占してきた『ABA (全米銀行家協会)』の警備契約を、バーンズは一夜にして奪い取ってみせたのだ。


 加盟銀行一万一千行。全米を網羅する金融ネットワークと、その警備という巨大利権。それらを一手に握り、巨人に比肩する二大勢力の一角へと躍り出た新興の探偵社は、今や時代の寵児であった。



 対するピンカートン探偵社は、二千名の探偵員・正規探偵と三万名の志願兵 (Volunteer)級の予備員 (Reserve)を擁する巨人だ。


 かつては合衆国正規軍をも凌駕する動員数を誇り、ガトリング銃さえ備えたその私兵集団は「ピンカートン・アーミー」と称され、国家の枠組みを超えた世界最大の法執行機関として君臨していた。


 1908年、司法省内に設立された捜査局 (Bureau of Investigation)の捜査官はわずか三十名。全米を統べる警察権力としては、あまりにも小さく、無力だった。


 ピンカートンやシカゴのティール、ニューヨークのムーニー・アンド・ボーランドといった巨大探偵社だけが、膨大な犯罪者写真 (マグショット)や身体計測データ、指紋を独自の「犯罪者名簿」として独占し、地方自治体に代わって法を執行していたのである。


 だが、その『犯罪者名簿』の真に恐るべき側面は、労働組合員や運動関係者、あるいは「進歩主義者」たちを凶悪犯と同列に扱い、一括して『排除すべき対象』として管理していた点に集約されていた。


 どの探偵社を選択し、いかなる依頼を下すのか――。


 それは、その背後に控える巨大資本、すなわち依頼主の社会的立場と「力の大きさ」を剥き出しにする鏡に他ならなかった。



 そんな巨人、ピンカートン探偵社の後ろ盾は盤石だった。


 世界最大の鉄道網を誇るペンシルベニア鉄道、世界最大の鋼鉄の帝国USスチール、そして全米最強の金融巨大資本 (マネー・トラスト)、J.P.モルガン。


 彼ら「モルガン・グループ」の尖兵として、ピンカートンは各地で「モルガナイゼーション」――巨大資本による強引な業界再編――を突き進めてきた。


 ペンシルベニア鉄道の拡張や、カーネギー鉄鋼の買収劇の裏側で、ABA (全米銀行家協会)は、ピンカートンがモルガンのための「産業スパイ」として機能していることに強い疑念を抱いていたのである。


 かつての鉄道王や鉄鋼王たちが、他人の金を預かっただけの「銀行家」に飲み込まれてゆく中、石油王ジョン・D・ロックフェラーだけは、スタンダード・オイルを通じて無限の「現金 (キャッシュ)」を保持する、最後にして最強の「産業界の王」として君臨していた。


 「ロックフェラー」という名は、もはや単なる富豪の名ではない。


 それはJ.P.モルガンという巨大な重力に屈しない独立資本の象徴であり、強欲な金融独占を嫌う地方銀行家たちにとって、最後の希望でもあったのだ。


 このモルガン支配への抵抗勢力として、ロックフェラーやクーン・ローブ商会を背景に持つABAが白羽の矢を立てたのが、絶賛売り出し中のウィリアム・J・バーンズであった。


 彼らは文字通り、バーンズを探偵業界における「対抗馬」として担ぎ上げ、不落を誇ったピンカートンの牙城を、内側から崩しにかかったのである。



 ABAの加盟行の中には、この対立構造すら疑う冷徹な声もあった。


 イギリス・ロスチャイルドの代理人であるJ.P.モルガンと、ドイツ・ロスチャイルド系のクーン・ローブによる争いは、水面下ではロスチャイルド家によるアメリカ市場の「両建て (ヘッジ)」に過ぎないのではないか、と。


 ――もっとも、そのロックフェラーとて、ロスチャイルドの別動隊に過ぎないという噂は絶えなかったが。


 ロックフェラーの台頭を支えた資金源も、実はアウグスト・ベルモントやナショナル・シティ・バンクなどを通じてロスチャイルドが供給していたのではないか、と。


 このような、アメリカの中央銀行設立を巡る三極の混沌――設立そのものに反対する地方勢力、中央銀行は望むがモルガンの独裁を嫌う反主流派、そしてJ.P.モルガン自身。


 この火薬庫のような情勢下で、イチタロウがバーンズ探偵社を指名したことは、明白な「反モルガン・反モルガナイゼーション」の宣誓に等しい。


 それゆえに、英仏独の通信販売大手五社の全権委任者たちは、ボストンやレイモンドといった居並ぶ「J.P.モルガン関係者」を横目に、失笑を漏らしたのである。






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