一生の恩(アルト視点)
最悪だ。
ソファの端を握りしめ、そのままズルズルと床に膝をついた。
頭の中では、学園での自分の姿が最悪の形で再生されている。
「最低だ……俺は、最低です。彼女を支えるどころか、彼女の人生の選択肢を奪うような、ただのケダモノじゃないっすか……」
絶望に打ちひしがれ、項垂れる。
そんな俺の落ち込みようを、殿下は止めるでもなく、しばらくの間、無言で楽しそうに眺めていた。
「……ひとしきり反省したようだな」
不意に、殿下の声が頭上から降ってきた。顔を上げると、殿下は懐から一通の封筒を取り出し、ひらひらと俺の目の前で振ってみせた。
「アルト。今回のマレーナの件、君の献身的な働きには心から感謝している。その上で、今回の騒動は、私の我儘に付き合わせ、ろくに睡眠も取らず、城内のみならず各方面へ説明に向かい走り回り、極限状態だった結果だ。」
「それはそうですけど……何すか。これ」
力なく受け取り、中身を引き出す。
そこには俺とエレオノーラ様との婚約がとっくに成立していることを認める文書だ。
「……は!? 婚約、成立……っ!?」
「公式発表はまだだが、水面下では既に婚約の合意が成されていた……という体裁に整えた書類だ。」
「つまり……俺たちは本当は婚約していた……という事になると?」
俺は立ち上がり、書類を割れ物を扱うように大切に懐へ仕舞い込んだ。
「……殿下。……この御恩、一生忘れません」
この書類のお陰で、俺は「侯爵令嬢の唇を無断で奪い、傷物にした上で自分の妻に迎える紳士の風上にも置けない男」という不名誉な存在ではなく「婚約者への愛情表現が少し行き過ぎた男」とまだマシな世間の見解になる。
「まだ、やることは多い。エレオノーラ嬢と話をしたらすぐに戻ってきて働いてもらうよ」
「任せてください!」
殿下の笑い声を背中に浴びながら、俺は一目散に部屋を飛び出した。
今すぐ彼女に会わなければならない。
そうして勢いよく部屋を飛び出したものの、学園に着いたあたりで、俺の足取りは次第に重くなっていった。
「……待てよ」
俺は立ち止まり、深く、冷たい吐息を吐き出した。
この書類が意味するのは…
「これでは、ただの『強制』じゃないか……」
もし、あの学園での一件で、彼女が俺に心底愛想を尽かしていたら?
あんな強引で、淑女の誇りを傷つけるような真似をする男を、怖い、あるいは不潔だと感じていたら?
そんな彼女のもとへ、この書類を振りかざして「俺たちは実は婚約していたんですよ」と笑って会いに行くのか。それは彼女にとって、救いでも何でもない。拒否権すら奪われた、地獄への入り口を無理やり開かされるようなものではないのか。
俺の不祥事を揉み消すために、彼女の人生を犠牲にする。
その構図に気づいてしまった瞬間、それが恐ろしく感じられた。
(……それでも、行かなければ。謝罪がまず必要だ)
逃げることは許されない。
俺がしでかしたことの責任は、この書類で誤魔化すのではなく、俺自身の言葉で、彼女の瞳を見て伝えなければならないのだ。
重い足取りのまま、ノーラ様を探して回る。
すると、周囲の生徒たちの視線が一斉に俺に突き刺さる。
自分のやらかした事で胃を痛くしながら彼女を探し、視線を彷徨わせていると、通りすがりの男子生徒が、親指で中庭を指しながら声をかけてきた。
「エレオノーラ様なら中庭にいましたよ。」
「そうっすか…あ、ありがとう」
まるで「公認の仲」を冷やかすような、爽やかな言い方。「早く行ってあげてください☆」とウインクでもされそうな勢いがある。やはり、あの日の強行突破は、既に全校生徒の常識として定着してしまっているのだ。
また胃がキリキリと痛む。
言われた方へと歩いていくと、木々の隙間から、陽光を浴びて輝く彼女の姿が見えた。
サティーナ嬢や他の友人たちに囲まれ、彼女は楽しそうに、屈託のない笑顔で談笑している。
その横顔があまりにも美しく、そして平穏で…。
声をかける事を躊躇してしまった…。




