甘く残された余韻
私は重くなった瞼を上げることができず、ただ彼の指先が頬を撫でる感触に身を任せていた。寝るのはもったいない。もっと今の言葉を噛みしめていたいのに、眠気が思考を侵食していく。
「ふふっ、くすぐったいです」
「…すみません…つい」
その時、静かな部屋に遠慮がちなノックの音が響いた。
「失礼するよ。」
部屋に入ってきたのは、ラインハルト殿下だった。背後には、まだどこか落ち着かない様子ながらも、覚悟を決めたような表情のマレーナ様が続いている。
私は慌てて体を起こそうとしたが、ズキリとした痛みに思わず顔を顰める。
「ノーラ様、無理に動かないで」
アルト様が素早く私の背を支え、ソファに留まらせる。
殿下は私の様子を見ると口元に微かな笑みを浮かべた。多分…殿下は知っているから。アルト様がこのチョーカーを贈り物として買った事を…。
しかし、すぐにその瞳は一国の王子としての顔に戻っていた。
「これからマレーナを連れて、国王陛下の元へ向かう。『聖女』が見つかったとなれば、悪い事を考える輩がどう動くか分かったものではないからね。直ちに私の側で保護し、陛下へ挨拶を済ませてしまうつもりだ」
殿下の言葉に、マレーナ様が少し呆れたようにため息を吐く。
「本当に、気が早いわ。荷造りもさせてくれないんだもの」
「君の身の安全以上に優先すべき荷物などないさ。必要なものは、手続きが済めばいつでも取りに戻れる。それに、こちらで君のために何でも揃えよう」
殿下の凄まじい決断力と行動力。そしてマレーナ様へ向ける、隠しもしない愛情。
マレーナ様が私の元へ歩み寄り、ポケットから古い銀の鍵を取り出した。そして、それを私の手にそっと握らせる。
「さっきの本音を聞いて、貴方が悪い子じゃないのは十分に理解しているわ。だから、この部屋は落ち着くまで自由に使って構わない。ジェマにこの場を任せておくから。……少し、眠っておきなさい。」
「マレーナ様……」
思わず、私まで「ママ!」と言いたくなった。マレーナ様の包容力は心に染みて温かくする何かがある。そして、少し渋い表情で殿下を見る。
「私は、貴方の気持ちを利用してでも子供達により良い環境を与えたいと思っている。もしかすると、ラインハルト殿下の愛に応えられないかもしれないわ…。貴方もやっぱり無しは出来なくなる。それでも、今すぐ挨拶に向かうの?」
そう言うマレーナ様に、殿下は手を取り微笑む。
「心変わりなどあり得ない。それに、私がその気持ちを利用して妃にしたいと願っているとしたら?どっちもどっちではないか」
そう言うラインハルト殿下に、驚いたように目を丸くしたマレーナ様。そして静かに微笑み返した。
「なら、遠慮はいらないのね」
「ああ、私に遠慮などしなくていい。貴女の全ての心を知りたいと思っているのだから。…さあ…アルト、行くよ。君も来てくれ」
殿下の呼びかけに、彼は私の瞳をじっと見つめ、何かを言いかけるけれど自分の立場を噛みしめるように、唇を引いた。私は、彼の袖を少しだけ掴み、すぐに指先から力を抜く。
「だいぶ落ち着きましたから、行って大丈夫です。……我が儘を言って、お手を煩わせてしまい、申し訳ございませんでした」
精一杯の微笑みを作ってそう伝えると、アルト様は眉を下げ、今度は困ったような顔をした。
「……我が儘なんて、思っていません。本当は、貴女が眠り、目覚めるまで隣にいたいんすけど……」
彼は膝をつき、私の手を一度だけ強く握りしめた。
「しっかり休んでください。さっさと終わらせて、具体的な話ができるよう時間を作ります。」
「大きく事が動く事態を『さっさと終わらせる』とは、頼もしい限りだ。」
そうした少しの会話の後、私は皆さんの背中を見送った。
バタン、と重厚なドアが閉まる音がして、キッチンには再び静寂が訪れる。
手の中に残る、鍵の冷たさとアルト様の余韻。
私は再びソファに横たわるまま、首元のチョーカーの小鳥をそっと指先でなぞった。




