溢れる気持
通された部屋は、先ほどまで誰かがいた名残か、ふわりと香ばしい珈琲の香りに満たされていた。
清潔に磨かれたキッチン、そして生活感のある大きなテーブル。
ジェマさんが「座れ、横になってもいい」と促す声に導かれるまま、私はソファに腰を沈めた。クッションが体を受け止める瞬間、ふっと力が抜ける。
扉が閉まる音が遠く響き、部屋に静寂が戻った。
アルト様はソファに座る私の前に跪き、まだ泣き続ける私を心配そうに覗き込んでくる。あまり顔を見ないで欲しい。絶対酷い顔をしているから。
「大丈夫ですか?」
声にならなくて、コクコクと頷く。
そして、肩に添えられた手が温かくて愛しくて。嬉しくてたまらない。
「ぅ、うう、アルト様、ごめんなさい、余計な手間を…」
「気にしなくて大丈夫ですから。」
情けない姿を見せれば嫌われるかもしれない。そんな不安を置き去りにして、私は彼の首に縋りつき、その肩に顔を埋めた。困惑しながらも、私の背を大きな手が優しく撫でてくれる。
「嫌いに、っならないで下さい」
「今、貴女を嫌いになる要素なんてないでしょう?あの部屋にいた人の効果なんですから。」
その言葉に一旦安堵する。
「アルト様は…こう、ならないのですね」
「多分…俺は、王家にとって何が最善か…必死で考えてたからだと思います。そこに俺の感情は無いので」
「ぐすん、なる、ほど」
感情で考えるとそれが増幅される…ということか。考えていると、また別の感情が私に押し寄せてくる。これはダメだ。何もかも言ってしまいたくなる。
「アルト様、私は大丈夫、ですので、…部屋を出て頂けませんか?」
「それは無理です。貴女に何かあればすぐに対応しなければなりません」
「でも、でもですね?…っ、気持ちが…溢れて、余計な事を言ってしまいそうなんです…きっと気分のいい言葉だけでは済みません」
「余計なこと?」
アルト様は私の肩を支えたまま、ほんの少しだけ身体を引いた。
けれどその距離は、むしろ危険なほど近い。
「それは、貴女の本心なのですよね?」
互いの吐息がかすかに触れ合う。まるで、今にも唇が重なりそうな距離で私の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「それなら俺にとって都合がいい。エレオノーラ様、何で…婚約を保留にしているのか教えて下さい」
「ひゃぁ」
なんだか気持ちが昂ぶって変な声が漏れる。そしてあろうことか、考えていることまで言葉が溢れてしまう。
「こ、れは。この距離はキスしちゃうやつです。まだ心の準備が…」
「しませんよ!俺は真面目に聞いてるんすけど!」
私は手遅れながらも咄嗟に口を押さえた。これ以上、考えが言葉となって溢れないように。
しかし、アルト様は私の両腕をガッチリと掴むと、口から離していく。
さすが男性…力では勝てない。
「やめて下さい、ダダ漏れです!」
「いいんです、ダダ漏れで。理由…知りたいんです。貴女を支えられるのは俺しかいないと思ってます。支える自信もある」
「そうですね。貴方と…でしたら…何の不安もありませんもの」
「じゃあ…なんでですか?」
圧が凄い。
口から出てしまう。
愛してほしいと言う要求が。
それは相手に求めて、アルト様が善処なさって、無理して上辺だけの言葉を口にするようになってしまったら。
それは…違う…
考えていると、言葉を出さないように唇を噛んだ。その仕草を彼は見逃さなかった。
「ちゃんと言ってくれないなら…本当にキスしちゃいますよ?そうしたら終わりです。俺としか結婚できなくなります。」
「は、…ぃ、え、まぁ」
「密室に俺達2人だけ。密室のこの状況は、貴族社会を知らないジェマによるものではありますが…状況的に貴女を追い詰めていると分かっているでしょう?早く言ってしまえばここから無事に出られます」
ここは、本音を言わないと出られない部屋か何かなのだろうか?むしろ、無事で帰りたくない。
「嫌だったら言ってください本心を。俺に何が足りないんですか?何があれば、貴女と婚約できるんすか?」
「…っ」
なぜかアルト様も熱く饒舌になってきている気がする。後から効果が出てきたのだろうか?
ああ、アルト様に素直に言ってしまう?でも…と悩む気持ちが「キスできるならしたい」気持ちのなかに沈んでいった。
口にぎゅうっと力を入れ、断固として話さないお口になる。
私のそんな仕草に、アルト様の眉間にシワが寄った。
「…ただの脅しだと思ってます?言ってくれないなら本当にしますよ?」
「っ、きたっ!!このまま奪われたい!」
なんと「愛してほしい」と言う本心を言わない事に気を取られて。これまた別の本心が先に出てきてしまった。
「え?」
「ああ!今のは!!」
「したいんですか?俺と…?」
「したいです!!…じゃなくて!卑怯ですよ!!あんまりです!」
前のめりな自分と、こんな時を利用するなんて卑怯な!という気持ちで口から出る言葉の情緒がおかしくなる。
そんな私の素直な言葉に目の前のアルト様が混乱するように首を傾げた。
「俺が嫌いになった…とかでは無さそうですね、むしろ…」
「嫌いなわけ…ないじゃないですか…うう。なんで、なんでこんなに言わなければならないの…」
ダメだ…ついつい本心が溢れてしまう。話題を変えなければ!!
「アルト様は…ジェマさんと仲良しですね。あんなに近くでお話して」
「あの人、距離が近いんすよ。貴族と違って距離に気を使わないから」
「アルト様は、私そっちのけでジェマさんとばかりベタベタして…ズルい」
「ベタベタしてませんって、ど突かれてたんすよ。」
その言葉からジェマさんへの好意は感じなくて安心する。そして上手く話がそれた気がした。
「本当に、どつかれただけ、ですか?ちょっと嬉しかったり…しませんか?」
「そんな趣味ないっすよ、心外にもほどがあります…」
「良かった…。…ぅっ、…」
必死な否定に、ジェマさんへの特別な情愛がないことを察して、胸の奥がじんわりと安らぐ。そして安心して緩んだ私の目からどんどん涙が溢れ出す。
「あぁ、もう…どうしたら涙止まりますかね?決定的な言葉を聞く前に体調が心配になってきました。こんなに涙を流したら体調崩しますよ。水を用意しましょうか?」
「優しいのですね、そういうところ好きです。」
「…好き、って…ぁ、いや、誰でもこうして心配しますよ。この状況は」
普通と言いながら、アルト様はもう一枚ハンカチを取り出してハンカチを交換してくれる。
「誰でも、なんて…みんなに、こんな、優しかったら嫌です、私だけがいい」
「そう言われましても…殿下の側近としてある程度は対応しなければいけないんすけど…」
とても変な事を言っていると自覚があるのに気持ちが止まらない。
「嫌です、私だけ」
「あー………。困ったな…じゃあ、他の方には必要な範囲内で優しくします。けれど、エレオノーラ様にだけ、とびきり優しくします」
「とびきり?」
「はい、それはもうとびっきり。誰よりも」
「ふふっ…」
その言葉を聞いて、へらへら笑った。気がつけば手は自由になっていて、彼の首に手を回すとぎゅうっと抱き寄せる。彼もそれを嫌がる素振りは見せなくて…。そのまま彼の優しさに甘えていた。




