契約終了
商会の皆様と話を終えて、この部屋には嵐が過ぎ去った後のような静けさがあった。この空気の中、残された伯爵様とアルト様が、私に向き直る。
「……この度の寛大なる処置、何とお礼を申し上げてよいか……」
伯爵様はまだ震える声で、絞り出すように言った。その隣で、アルト様は私の表情を静かに見つめている。
私は窓の外、遠ざかっていく商会の馬車を眺めていた。馬車を見つめたまま、自分でも驚くほど素直な言葉を溢した。
「……エリザさんは、幸せものですね」
「え……?」
「あのような愚行を犯してもなお、最後まで見捨てず寄り添ってくれる人がいるのですから。あそこまで真っ直ぐに自分を愛してくれる人を…。…羨ましいわ」
ポツリと、独り言のように呟いた言葉。
それは策略でも、演技でもない、私の心からの本音だった。利害や血筋、家格に縛られ、常に「最適解」を必死に考え、選び続けてきた私には「打算のない愚かな愛」は、あまりに眩しく、私からは遠い。
驚きに目を見開く伯爵様に、私は穏やかな微笑みを向けた。
「伯爵様。長男様は、純粋で素直ですわね。良いことですわ。」
私とは正反対…
そんな言葉が頭に浮かぶ。
伯爵様に向けた言葉は嫌味でも、含みを持たせた牽制でもない。
ただ、彼の育てた「純粋さ」への純然たる敬意だった。私が伯爵家そのものを憎んでいるわけではなく、一人の人間として彼らを認めていることが伝わったのだろうか。
伯爵様は深く、今度は恐怖からではなく、安堵を込めて頭を下げた。
「……もったいなきお言葉です。」
そんな私たちのやり取りを、アルト様は少しだけ複雑そうな眼差しで見ていた。私はその瞳を暫く見つめ息をついた。
「当初から提案させて頂いた、アルト様との婚約ですが…。」
そう口にした瞬間…『婚約を破棄いたしましょう』と口走りそうになり手で押さえた。何故そんな事を言おうとしたのか分からない。ずっと望んでいた婚約なのだからそんなことしたくなどない。だけど…代わりに出た言葉は
「暫く保留といたしましょう」
その言葉に伯爵様もアルト様も驚いた表情を見せた。そんな彼らの様子を落ち着かせるように笑ってみせる。
「エリザさん達を見て、少し…ほんの少し結婚そのものについて考える時間が欲しいだけです。アルト様にはとても感謝しております」
エリザさんは、私の心にとんでもない傷跡を残していったと言葉にして実感した。アルト様への好意を自覚し、アピールしても上手くいかず…強行手段と言わんばかりの打診をした。今ここで話を進めれば、確実にアルト様との結婚が叶うだろう。
しかし、それを躊躇してしまっている自分がいる。
そこに彼からの愛が無い事に気がついてしまったから。貴族だと言うのに「愛」だ「恋」だと考えるのはおかしい。頭では分かっている。それなのに今の私はそこに「愛」を求めてしまっている。
愛がないことを虚しいと感じてしまっている。
それでも、愛が欲しいと望んだところでどう手に入れればいいのか…それが分からない。
こんな今の精神状態では婚約は進められない。
応接室に静かに響き渡った後、重い沈黙が訪れた。
「それは、よろしいのですか?」
伯爵様がようやく声を絞り出した。
「ええ、伯爵様。」
視線をアルト様に移す。
彼はまだ呆然とした表情で、私の顔を見つめている。栗色の髪が少し乱れ、ブラウンの瞳に困惑が浮かんでいた。




