1 上弦
月めぐり
『私、そんな風に言って貰ったの、初めて』
頬を染めながら風に靡く髪を押さえ、彼女ははにかんだ。
歌うような彼女の声。
澄んだ音色のようなそれが、彼女の名に似合いだと口にした。
ただそれだけで向けられた微笑みに、胸の奥で全身を痺れさせるような喜びが湧く。
両の腕を伸ばし、彼女を引き寄せ抱き締めても、その甘い波は治まらない。
『――――』
長い髪に顔を埋め、彼女の名を呼んだ。
―――何と、呼んだのだろう?
いつだってそうだ。彼女の名が音になる一瞬を切り取ったかのように、世界は音色を失う。
応えるように背中に回された細い腕。
背の着物を握る、細い指の温かさを愛おしいと感じた瞬間。
それはいつものように、淡く白い夢の終わりの靄に溶けていった。
* * * * *
「いやぁ、”アカネ”さんと聞いておったから、てっきり女性だとばかり。今までこの村に女医先生がいらっしゃったことは無かったもので、皆、楽しみにしておったのですが……」
はは。そりゃ、男衆には残念だったことで。
「立派な若先生で、村の衆も安心するでしょう」
婿候補を無くすんじゃないかと、肝を冷やしていただろう年頃の娘さんたちは、特にね。
「いやー、僕はまだまだ経験が浅くて。前任者の功績に叶うよう、頑張らせて頂きますよ」
真黒な心の声を、微塵にも感じさせない爽やかな笑みを仲介屋の男に向け、紅嶺は荷を背負い直した。
自慢の長身を縮めてしまいかねない重量を誇る行李。この大荷物を、一刻も早く下ろしたい。
道中、行李の中の薬品瓶は甲高い交響を奏でっ放しだ。中身は無事かと最初こそ気を揉んだが、あまりの旅の過酷さにそんなことを気にする余裕も失せていた。
(――なんて田舎…… いや、もーここまで何もないと辺境って感じですね)
一面の草原、波打つ丘陵。遮る物がない青々とした草花の群の中を、清々しい風が泳ぐように吹き抜ける。
また一つ、一段と大きな風が吹き抜けた。
撫でるような風は心地良いのだが、時折通る猛った風は勘弁して欲しい。
紅嶺は思わず、眼鏡の奥で空色の眼を瞑った。抑える手も空しく、その名の通り紅色をした髪が、風に揉みくちゃにされる。長いわけでもないが、もう少し髪を短く切った方がいいかもしれない。
風が吹き去った方向に顔をそむけることで、漸く紅嶺は眼を開けることが出来た。
改めて自分の姿を見下ろせば、白い格子の着物は背負った行李の重さに着崩れ、濃い墨色の袴の裾は砂埃に塗れている。全身ヨレヨレだった。
数え年で二十四。十年の助手生活を経て、遂に医師として独り立ちしようとしたが良い場所がない。ならばと、学問所時代の先輩が紹介してくれたのが、この無医村の診療所医師という職だった。
ただでさえ都育ちで田舎暮らしには自信がないというのに、この豊か過ぎる自然環境。
こんな具合では、到着早々辞表を出して、都会で薄給の雇われ医師でもやった方がマシな気になってしまう。
着いたばかりでさっそく挫けそうになりながら、紅嶺は風が吹き去った遠くの丘を見やった。
その丘の上に、人影。
まだ、年若い娘だ。結い上げた長い琥珀色の髪と、薄桃色の着物の裾を風に遊ばせながら、天の光を受け止めるように白い両の腕を差し伸ばしている。
コト…… と、胸の奥で何かが動く音がした。
唐突に感じたこのざわめきを不思議に思いながらも、魅入られたかのように娘の姿から目を放すことが出来ない。
霞んだ記憶と重なるような、奇妙な感覚。
彼女を囲むように吹く風。何処から運んで来たのか、白い花弁が舞う。
それらを受け止めようというのか。腕をさらに伸ばそうとして、娘はバランスを崩し掛ける。
――倒れてしまうと思った。しかし、ぎりぎりのところで、彼女の細い身体は受け止められる。
(―――なんだ?)
目の錯覚だろうか。その人影が、唐突に空から現れた様に見えたのは。
高く晴れ渡った空より、更に深い青が印象的な男。自分を支えた背の高い青い髪の持ち主に彼女は視線を向け、話しかけているようだ。
「あぁ…… あれは、杜の鬼子ですよ」
新任医師が何を見ているのか気になったのだろう。娘を見やり、村長は何処か怯えるように、そう呟いた。
「鬼子?」
「ええ。先生も、関わり合いにならん方がいい」
そう言って背を向け、足早に歩き始める男から視線を逸らし、紅嶺はもう一度、丘の上を振り仰ぐ。
風が吹くばかりの丘に、娘ともう一つの影はすでに無かった。
「…… あの。すみませんが、これ」
「は、はい?」
突然押し付けられた重い行李を抱えた仲介屋が尻餅を付いたと同時に、行李の中で激しく甲高い音が鳴った。
それを気に留めることもせず、紅嶺は袴をたくし上げ、丘を駆け上り始める。
慌てて名を呼ぶ村長を、紅嶺は一度だけ振り返り、
「あ、適当に、庵に放り込んどいてくださいね」
きらりと笑んで、彼は再び走り出した。
* * * * *
――― 異界と現世。
〈神》、〈精霊〉、そして〈人〉。
境界を異とする中で生を送る者たちが出合い、時を共有することは稀であり、また幸運なこと。
そして―――、時にそれは不運なこと。
「案外、すぐに来れたんだね」
「…… 小鳥。その言い草は何だ?」
べっつにー、とそっぽを向きながら応える小柄な娘の後姿。長身だが線の細い印象の青年は、青の前髪の帳から藍の双眸で困ったようにそれを見つめた。
その様子をちらりと目の端で認め、小鳥と呼ばれた娘は明るい声を立てて笑う。白い花の紋を映した薄桃色の袖を揺らし、彼女は青年に向き直った。
「ごめん。来てくれて嬉しいよ、青風」
小さな泉の辺の、いつもの場所。二ヶ月振りに訪れた杜は柔らかな土の香と瑞々しい若葉、そして甘い花の香りに包まれていた。
吐息を凍てつかせる風、舞い降る立花に覆われた純白の風景を生きる世界とする青風だが、毎年この季節、ここで過ごす時間に何よりの安らぎを覚える。
木漏れ日の下、桃色に染まった頬に掛かる琥珀の髪を払いながら微笑う娘の視線を、真っ直ぐ受け止めることが出来ず、青風は再び視線を逸らした。
誤魔化すように、墨色をした古風な型の衣の袂を探る。そこから取り出した物を、彼は半ば押し付けるように小鳥に手渡した。
「わっ! 綺麗ッ。これ、どうしたの?」
手の平で乳白色に煌く花飾りに、小鳥は感嘆の吐息を漏らした。
「……白の奥方から、お前にと」
「椿様が?」
憧れの女君の名に、彼女は森を閉じ込めたような深い新緑色の瞳を輝かせた。
さっそくとばかりに、左で一つに結った髪に花飾りを挿す。結った部分から流した長い髪を翻し、小首を傾げて「似合う?」と青風に問う。
気の利いた台詞一つ言えぬまま彼が固まっている間に、小鳥は泉の水面に姿を映して具合を確かめ始めた。
だが、ふと振り返り、
「あ、青風にも似合うかもよ? 顔立ちも女の子っぽいし。わたしより綺麗だし」
にこっと微笑って、ガックリくるようなことを言う。
「わ、私は男だと何度言ったら――― !」
「わかってるよー。そりゃ、初めて捕まえた時は女の子と間違えちゃったけど」
「……その後も幾度となく、化粧をしようとしたり髪を結い上げようとしたり、女物の衣に着せかえようとしたじゃないか」
初めて彼女と会ったのは6年前。
その後再会した際、何と小鳥が青風のことを童女だと思っていた事実が判明したのだ。
「んー、いい思い出。あの頃も楽しかったよねっ」
「お前だけがだろ!」
ぷりぷり怒りつつも、結局は人間の娘一人に遊び倒されていた自分の過去に頭痛を覚え、青風は眉間を押さえた。
――初めて出会った時、青風は文字通り小鳥に捕まった。
彼は冬の眷属に属する風の精霊だ。それも、常人では決して目にすることが叶わない、冬の神に仕える高位の精霊。
童でまだ未熟だったとはいえ、高位精霊である青風の身を人間が縛ることなど出来ない。それが可能だったのは、この娘が『維滸の杜』と呼ばれるこの土地を代々祀る巫の生まれで、且つ強大な呪の才を有していたからであって。
「……と言うか、いつも言うけどなぁ。お前、いつまで私のことを”青風”と呼ぶつもりだ?」
「だって、あなたってばホントの名前を未だに教えてくれないじゃない。長い付き合いなのに、ツレなさ過ぎだよー」
捻りも何もあったもんじゃない名前は、未だ継続して使用されている。彼女の中で、改定の予定は無いらしい。
十七になったにもかかわらず、六年前の出会った頃と同じように唇を尖らせて言う娘を見つめながら、青風は嘆息した。
大福のような頬と団栗眼。この二つで特徴付けられた童女らしさも幾分抜け、ずいぶん娘らしくなったとはいえ、こういうところはちっとも変わらない。
大体、神に最も近しい高位精霊に対しこんな態度をとる巫女など、他に聞いたことがないと青風は常々思う。
最大の礼、最高の敬意でもって異界の存在を迎えることは、人の古よりの常である。
……間違っても、障子の余り紙で作った札と、聖砂の代用品とした白玉粉に呪を込めて作りだした〈式〉で相手の全身をグルグルに縛ったり、捕まえたあと脅したりなどという卑劣な行為に及んだりしない。
だが、あんな散々な出会いを果たしたにも拘らず、こうして青風はこの人間の娘と決して少なくない時を共にしている。
人と精霊との会合は、本来、一時の短い刻の重ねのみで終わるもの。一度その場を解けば、もう同じ対面を果たすことは無いと言っても過言ではない。
冬神に仕えながら折を見て気まぐれに訪れる精霊を、「お帰り」と嬉しそうに出迎え、天真爛漫な会話と笑顔でこちらの調子を悉く乱してくれる。こんな妙な存在はこの娘くらいのものだろう。
その在り得ない仕打ちにもめげず、何故か通ってしまう理由。
出会った頃からを思い返しながら藍の瞳を伏せ、青風は意を決して口を開いた。
「……なあ、小鳥」
「ん?」
急に声の調子を落とした友の様子に、小鳥は小首を傾げた。青風は、そんな彼女の手をそっと掴んだ。
「もし…… 私の真名を教えるって言ったら、お前―――」
「やめ―――――ッ!」
突然叩き付けられた静止の声に、言葉を詰まらせた。
そんな彼の様子を気にする風でもなく、声と共に藪から飛び出してきた人影は二人の間に立ち、繋がれた手を手刀で断った。
「痛ッ! 誰だお前、何す―――」
「……やっと、やっと逢えた!」
突然現れ、青風を思い切り無視したまま横に押し退けたのは、鮮やかな紅玉色をした髪の男。
彼は小鳥の両手を握り締め、喜びに震える声でうかされたように繋げる。
「ああっ。貴女との逢瀬を夢を見る毎に、現でも貴女の姿を探し求めて幾星霜……。今生でも出会うことが出来たなんて、まさに奇跡だ!」
「はあ……」
「どうか、かつて交わした誓い通り、再び僕の妻に―――!」
「って、待てぇ! 突然なんだッ。というか、誰だお前!」
我に返り慌てて横から割って入った青風は、男の草臥れた着物を掴んで止めた。
紅髪の青年の方もやっとその存在に気付いたような表情をすると、眼鏡越しに嫌なモノを見る様な視線を、青風に叩きつけて来た。
「何ですか君は。邪魔だなぁ」
「なッ! 突然割り込んできて何だ! 無礼にもほどが―――」
「……ねぇ」
不思議そうに自分を見つめながら声を掛けてきた小鳥に、ころっと態度を変えて向き直った男は、ニコニコしながら「はいっ」と元気に返事をした。青風は舌打ちしてそれを睨む。
小鳥はゆるゆると手を上げ、驚いた顔で男と青風を交互に指差した。
「あなた、もしかして……青風が、見えてるの?」
「え?」
「あっ」
言葉の意味が分からないといった様子の男と、はっとして、改めて男に視線を向け直した青風の声が、ピタリと重なった。