2 三日月
『私、太陽よりも月が好きだわ』
月の光の下でなら貴方と逢うことが出来るからと、彼女は儚く微笑んだ。
僕には、月の光に彼女が溶け消えて仕舞わぬよう、しっかりと抱き留めていることしか出来ない。
『……ごめん』
いつか、僕は君を置いて先に逝かねばならない。永い永い刻を、たった独りで生き続けなければならない君を遺して。
ねぇ、と囁かれた、吐息のような彼女の言葉。僕は耳を澄ませる。
『……約束しよう? 月に――――…』
紅峰はゆっくりと瞼を上げた。
気だるさの残る身体を褥の上で転がし、窓の外へ視線を向けた。白い靄が薄暗い闇に漂っている。まだ夜が明け切ってもいない。
何故、こんなに早く目が覚めてしまったのだろう。
寝床のせいではない。こんな田舎だ。どうせ最悪だろうと覚悟していたにも関わらず、以外に上等な品だった布団のおかげで、今朝は旅の疲れで弱っていた身体も軽い。前準備をしてくれていた里の仲介屋に感謝だ。
解き掛けの荷の中から、清潔な―― しかし、少々草臥れかけた若草色の着物と、墨色の袴を取り出し、着替える。
有難いことに、水は庵の手入れをしていた里人が昨日の内に予め瓶に用意してくれていた。濡らした手拭で顔を拭き、柄杓で水を一杯嘗めると、紅嶺は表に出た。
何処に行こうという目当てがある訳ではない。ただ、気が向くままに足を進める。
朝靄が風に静かに押し流されるのみの風景に、今はまだ人の姿はない。
藁葺き屋根の民家がぽつぽつと並ぶ集落を抜け、落葉が降り積もった林に入った。
甘く香る柔らかな木の葉の層を足に楽しみながら進み、長い石段を登る。朝露に濡れた石と土の湿り気が草鞋越しに肌を冷やすが、肺を満たす林独特の清冽な空気のせいか、どこか心地よかった。
どれくらい、その時を愉しんでいただろう。そうして進んで行った先に、その場所はあった。
苔むした章断が架かった、紅い鳥居。
その向こうにも、更に石の階段が続いてはいるが、紅嶺はその先に行きたいとは思わなかった。
―――懐かしい。
何故? と自問してみるが、答えが浮かぶ筈もなく。
歩き疲れたと周りを見回した紅嶺は、鳥居の横に大きな岩を見つけ―――、
「あれ?」
岩に腰掛ける小柄な姿を目にし、紅嶺は駆け寄った。
昨日の、小鳥という名の娘だ。
どうやら今朝は、あの青髪女顔のお邪魔虫も居ないようだ。偶然がもたらした幸運に、満面の笑みが浮かぶ。
「お早うございます。いやぁ、嬉しいな。こんな朝に貴女に逢えるなんて」
ニコニコと語り掛ける紅嶺の顔を目にした小鳥は大きな目を見開き、息を殺すようにじっと見つめてきた。
彼女の神秘的な、不思議な色合いの瞳は、幾度も夢の中で見たそれより遥かに美しい。
淡雪の肌に、愛らしい顔立ち。それらはそのままでも、白地の着物を纏い、下ろした亜麻色の髪をしっとりと朝露に濡らした娘の姿は、陽の光の下で目にした時よりも格段大人びて見えた。
「それにしても、こんな早くに何をしてらしたんです?」
あまりにも小鳥が熱心に見つめて来るので、何だか気恥ずかしさを覚えた紅嶺はそう話を振った。
「…… 待っていたの」
小さな唇から紡がれた、その名の通り歌の楽のように澄んだ声。
立ち上がった彼女は、震える手でそっと紅嶺の頬に触れた。ゆるりと細められた彼女の瞳の中に、翠緑玉の光が灯る。
夢の中と同じ、いつもの彼女の微笑。
それに惹かれるように、ほとんど無意識に、紅嶺はその細い身体を引き寄せた。
幼い頃から繰り返し見る、一人の女の夢。
生まれ変わったら、もう一度逢おうと。必ず彼女を探し出し、再び番おうと。
今生より昔、大切な女と幾重にも交わされる約束。
夢は夢、ただの幻想かもしれない。そう思いつつも、いつも何処かで彼女を探す自分が居た。
―――逢えた。
夢では感じることが出来なかった温かさを抱き締めながら、息苦しい程の愛おしさの中で、やっと知ることが出来た彼女の名を紅嶺は口にする。
「―――…… 小鳥」
一言の呟き。
紅嶺にとっては、満ち足りた瞬間だった。
しかし―――、
「―――っ!」
突然、彼女は顔を上げ、紅嶺の身を突き離した。傷付いたような小鳥の表情に戸惑い、紅嶺はそっと彼女の両肩に触れる。
「小鳥さん?」
もう一度、紅嶺が彼女の名を口にした瞬間、触れた手の下で細い肩が震えたのを感じた。
彼を見上げる彼女の白い頬に一筋、雫が奔る。
震える肩を掴もうとした紅嶺から小鳥は身を引き、走り去ろうとした。だが、紅嶺は彼女の腕を掴み、それを遮る。
「何故? どうして泣いているのですか?」
はらはらと涙を零す小鳥に、どうしていいか分からない紅嶺は、ただ落ち着きなく彼女を見守ることしか出来ない。
「……お願いだから、泣かないで。泣かないで、小鳥さん」
小鳥は無言で頭を振り、腕を掴む紅嶺の手を強く振り払った。
そのまま身を翻し、鳥居の向こうへ走り去る。
あっという間の出来事。
動けぬままただ立ち尽くしている間に、彼女の姿は深い朝靄の中に溶け消えてしまった。
追うことは出来なかった。




