<16>エンディング直前の世界
エバンを雇って一ヶ月が経った。今のところ特に大きな問題は起きていない。
彼の仕事ぶりは期待を遥かに上回り、家令も執事もギュンターも皆エバン信者になり果てているほど。
侍女まで「エバン様はお手入れのし甲斐がありますわ」と腕まくりする始末。
屋敷は今、完全なるエバンフィーバーに沸いている。
強いて難点を挙げるとするなら、湯浴み後にすれ違った際の肌艶が妙になまめかしいのと、近くに寄った際に甘い香りがするとの、朝食の席で寝起きの色っぽい声を聞かされて参ってしまうことくらいだが、それを問題とするのもまた俺くらいなものだろう。
同じ部屋で生活しているわけじゃないのに、学園にいた時よりも接触回数が多いせいか、ちょっとのことでドギマギさせられるから困る。
しかも、あの頃よりも隙があるというか、なんというか。すっかり無邪気になってしまって、というのが正直な感想だ。本当に同じ人物なのかも疑わしい。
「ジェームズ、おはよう」
食堂に入るとすでにエバンが新聞を広げて待ち構えていた。
豪快な家人に影響されたのか、貴族の仮面が外れ、すっかり素の状態に戻ったエバンの顔にもう険しさはない。
氷の貴公子の面影はどこへやら、朗らかな明るい青年へと変貌していた。
「おはよう。今日も早起きだね」
「朝食が待ち遠しくてね」
意外にもエバンは食べることが好きらしい。
街で流行りの菓子を土産にすると喜んでお茶まで淹れてくれるので、最近は毎日のようにせっせと餌付けしている。
「何か面白い記事はあったかい?」
目覚めのコーヒー一杯をいただきつつ、彼の手元を覗き込む。読んでいるのは昨日の王都新聞だった。
だいたい半日遅れで入ってくるため鮮度は落ちるが、重要なことでもない限り情報はこれで充分。もっと詳細なことが知りたければ、ギュンターにでも精査を任せれば問題ない。
もっとも、商売に直結するような事案なら、頼むより前にギュンターが新聞片手に駆け込んできている。
先ほど廊下ですれ違った時は急ぐ素振りもなかったので、そんなに大きな事件はなかったはずだが。
それなのに、
「いや、大したことじゃないんだが」
今日のエバンはいつになく歯切れが悪い。心なしか、表情まで曇っている。
「なんだい?」
不思議に思っていると、エバンが新聞を捲り一面を見せてきた。
「これは……」
紙面いっぱいにでかでかとシリルの姿絵が載っている。
忘れかけていたが、ここはBLゲームのエンディング直前の世界。主に恋愛面で活躍する主人公の話題が入ってくるのは、そうおかしなことではない。
「本格的に王城へ入られるみたいだね」
王太子がエバンと婚約破棄して一ヶ月。さすがにまだ正式な婚約を結んではいないものの、シリルの王妃教育が本格的に始動しようとしている、と記事は報じていた。
「もしかして」
まだ未練があるのか、と口にしかけてやめた。気になりはするけれど、さすがに失礼だろう。そう思いやってのことだったが、その必要はなかったらしい。
「ないない! あるわけない! 第一、私と殿下はそんな仲じゃない」
せっかくのプラチナブロンドが乱れるほどエバンが強く首を横に振った。
「そりゃあ、王妃教育で学んだことを活かせないのは残念だけど、今は追放されて良かったとさえ思っているんだ」
こちらを向く翡翠の瞳に偽りの色はない。これを至近距離で愛でられるのは役得だった。前世の俺は相当徳を積んだに違いない。
「堅苦しいパーティーよりもクロイツェルの食卓の方が何倍も良いからね」
「それは光栄だな」
彼の頬にかかった毛束をそっと指で払ってやる。
最初はマーレ食堂でのトラウマのせいでわずかなスキンシップにも睫毛を震わせていたエバンだったが、近頃はこうしたセクハラに当たらない範囲での触れ合いなら許してくれるようになっていた。
「んっ」
瞼を伏せ、身を委ねてくる感じが堪らない。そのうちうっかり額に口づけでもしてしまいそうなものだが、とりあえずは理性が勝ってくれている。
今日もまたエバンの可愛さに耐えていると、
「二人とも早いね」
「おはよう」
ちょうど母上と父上がお出ましになった。
毎度絶好のタイミングで現れてくれるから邪魔ではあるけれど、抑止力としては邪険にできない。
全員揃ったのを確認して使用人が料理の乗ったプレートを運び始める。
本日のメインはサーモンのムニエル。この世界に旬という概念はあまりないが、うちの領海で採れたものなので味は格別。逸品と言って差し支えない。
「食事が終わったら港まで視察に出かけようか」
口に入れる前から目を輝かせているエバンに語りかけると、何度も頷いて同意してくれた。
朝から可愛すぎる……!
成人男子がこんなに天使みたいで良いのか。こんなのゲームのスチルでもきっと見られない。
悶絶しそうになるのを堪えて、別のことに思考を持っていこうと目線を逸らすが、視界から完全に排除することはできない。結局、脳内はエバンに支配されたままだ。
それにしても、魚好きなんて設定、意外だよな。サラダとか葉物を好みそうな見た目なのに、案外ガッツリ食べるんだから。
「美味しいかい?」
「ああ、太ってしまいそうなほど」
まだまだ細身の癖してよく言う。
冗談を交わせるようになったのは良い傾向だけど。
そうだ、王都にいた頃より健康的になった彼に満足してもらえるように、昼は刺身を出す店に行こう。
なんだかんだ商会と屋敷を往復してばかりのエバンにとって、テイクアウト以外では初の外食。気分転換になるはずだ。
隣で付け合わせのキノコを頬張るエバンを窺えば、コテンと首を傾げられる。もう例の記事のことなど忘れたといった風だが、事前の紙面確認を怠ったことで、嫌な思いをさせてしまったことに変わりない。
「ジェームズ、食べないのかい?」
「いや、食べるよ」
エバンの呼びかけで、思案するあまり止まっていた手を再び動かす。サーモンをナイフで切りながらも、頭の中は先ほどチラリと覗いた文字列でいっぱいだった。
あの新聞、エバンは触れなかったけど、やっぱり彼のことも書いていたよな。見間違えでなければ、シリルの姿絵の下に「元アルベール公爵令息」の小見出しがあった。
ギュンターに回収させて、後でこっそり読んでみるか。
万が一に備えて他社の朝刊にも目を通しておこう。
密かな決意を込めて、ムニエルを舌に乗せると、朝にはちょっと重たいバターの香りが胸に広がった。




