1-1-7 王宮の依頼
リアナは、エグバート先生の実験室の扉の前で、そっと足を止めた。
部屋の奥から、魔法式を組み上げる低い声と、淡い光が漏れ出している。
先生は何かの解析をしているようだった。だがこの時間、研究所全体はすでに静まり返っており、誰かが訪れる気配もない。
本来なら、入室は控えるべきだと分かっていた。
それでも、胸の奥で膨らむ好奇心を抑えきれず、リアナは静かに扉を押し開いた。
実験室の中には、いつもと変わらぬ光景が広がっていた。
書物の山、机に置かれた魔法具、巻きかけの羊皮紙。研究の途中で積み重ねられたものが、秩序と無秩序の境界のような状態で並んでいる。
だが、今日の空気はどこか違っていた。
エグバート先生の立つ机の上に、異様なほど複雑な魔法陣が展開されている。
幾重もの術式が重なり合い、淡い青白い光が静かに揺らめいていた。
その中心には、小さな球体が浮かんでいる。
それはまるで生き物のように、かすかな脈動を繰り返していた。
リアナは、知らず一歩前へ踏み出していた。
何をしているのか、この術式が何なのか──頭に浮かぶのは、ただ純粋な興味だけだった。
そのとき、エグバート先生が静かに振り返った。
「見てしまったかね?」
穏やかな声だった。
リアナは驚いて息をのみ、慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません、先生。勝手に入ってしまいました……」
エグバート先生は軽く首を横に振り、視線を再び机上の魔法陣へと戻した。
「いや、気にすることはない。むしろ、これを見てどう感じたか、教えてくれないかね?」
リアナは恐る恐る顔を上げ、もう一度その術式を見つめた。
それは、異様なまでに精巧だった。
細かなルーンが幾層にも編み込まれ、互いに干渉することなく、完璧な均衡を保っている。
リアナは魔法の知識に自信があった。
だが、この術式の複雑さには、さすがに言葉を失った。
「……とても、美しいです。でも、何のための術式なのかは分かりません」
エグバート先生は小さく微笑んだ。
「美しい、か。確かに、その表現は正しい。この術式は、極めて精密に構築されている。通常、ここまで緻密に編まれた術式には、バグが入り込む余地はほとんどない」
そこで彼は言葉を切り、指先を軽く術式の上に滑らせた。
魔法陣の光がわずかに揺らぐ。
「だが、これは完全ではない。
検証のために縮めたものだ。本来の規模では扱えんのでな。構造だけを取り出して再構成してある──王宮筋からの依頼でね」
「王宮……から?」
リアナは思わず口元を押さえた。
女王の急逝以来、王宮は混乱の中心にあった。
次期女王を巡る思惑や、周囲に蠢く勢力の動きは、研究所にいる彼女の耳にも届いている。
それが、なぜこんな術式に関わっているのか。
「女王陛下が亡くなった理由について、王宮は表向きの説明をしているが……」
エグバート先生は、ほんのわずか言葉を止めた。
「真実は、別にあるかもしれん」
「それって……」
リアナの頭の中に、次々と疑問が浮かんだ。
女王は本当に事故で亡くなったのか。
それとも、別の何かが働いていたのか。
だがエグバート先生は、その動揺を見透かしたように、穏やかな声で言葉を続けた。
「この術式は、その真実を探るための解析の一部だ。だが……」
彼の目が、わずかに険しくなる。
「これ以上深入りするのは控えた方がいい。王宮の依頼には、常に裏がある。君がこれを見たことは、くれぐれも外で話さないように」
リアナは思わず背筋を伸ばし、無意識にうなずいた。
エグバート先生の声には、いつもとは違う重みがあった。
普段は温和で、滅多に厳しい言葉を口にしない老ウィザードが、ここまで真剣に口止めをする。
それだけで、ただ事ではないと分かる。
「はい、先生。誰にも話しません」
リアナは震える声で答えた。
エグバート先生は満足したように小さく頷き、再び術式へと視線を戻す。
「この術式は完璧だ。だが、それでも何かが隠されている可能性はある」
彼は静かに言った。
「魔法は、人が操る限り、不確実なものだ。だからこそ、完全無欠に見えるものほど危うい」
リアナは、その言葉を胸の奥に刻んだ。
彼女の視線は、再び机上の術式へ引き寄せられる。
完璧なはずの構造の中に潜む、見えない何か。
それは魔法が持つ神秘であり、同時に恐怖でもあった。
「さて、今日はもう遅い。君も休むといい」
エグバート先生は微笑みを浮かべ、部屋の奥へ歩いていく。
リアナはその背中を見送りながら、胸の奥に芽生えた疑念を消すことができなかった。
この術式。
そして、先生の言葉。
何が真実で、何が偽りなのか。
いつか、自分はその答えに辿り着くことになるのだろうか。
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