1-3-16 優しい決着
「これが……『双魚の鏡』ね……」
サーラは、神殿の中央に静かに安置された鏡を見つめ、息をわずかに詰めた。
外光を受けたその表面は澄みきっており、映るものすべてを過不足なく返している。
「思っていたより……ずっと普通ね」
シェリーが小さく呟きながら歩み寄る。
鏡は化粧鏡ほどの大きさで、円形の枠には一切の装飾がなく、ただ静かにそこに在るだけだった。
意匠の華やかさも、威圧的な気配もない。にもかかわらず、目を離しがたい静けさだけが残る。
「でも……この鏡が、未来を映すんだよね……」
サーラは視線を逸らさぬまま、低く言った。
未来を知る力――それが選定戦においてどれほどの意味を持つか、考えるまでもない。
問題は、その力を誰が担うかだった。
「サーラ、どうする?」
シェリーの声は穏やかだが、その奥に迷いが滲んでいる。
「私たち……どっちも欲しいって、思ってるよね」
サーラはしばらく沈黙し、やがて息を整えて口を開いた。
「ええ。どちらかが持つべきだと思う。……でも、どちらが相応しいのかは、決めきれない」
シェリーはかすかに笑みを浮かべる。
「同じよ。譲ることもできるけど……それで納得できるかと言われると、違う気がする」
互いに言葉を尽くしても、結論には届かない。
均衡は崩れず、しかし、そのままでは前へ進めない。
そのとき、アリスティアが軽く指先を返し、小さなダイスを取り出した。
「それなら、またこれに任せてみる?」
軽やかな提案だった。
「……いいえ」
サーラは即座に首を振る。
「今回は違う。これは、私たちで決めなきゃいけない。運に預けることじゃないと思う」
アリスティアは一瞬だけ目を細め、やがて肩をすくめた。
「ええ、そう言うと思っていたわ」
ダイスは再び彼女の手の中へと収まる。
サーラとシェリーは、静かに視線を交わした。
短くもない時間が流れ、やがてサーラが口を開く。
「……同時に、触れてみない?」
「同時に?」
シェリーがわずかに目を見開く。
「未来を映す鏡なら、きっと──選ぶはずよ。私たちが争うより、鏡に委ねた方が自然だと思う」
その言葉は押しつけではなく、ただ静かに差し出される形をしていた。
シェリーは少しだけ考え込み、やがてゆっくりと頷く。
「……それなら、納得できるわ」
二人は鏡の前に立つ。
距離は等しく、呼吸も揃っていく。
「せーの、で触れましょう」
短い合図。
互いに一度だけ視線を交わし、静かに目を閉じる。
「せーの……」
指先が、同時に鏡へ触れた。
その瞬間、鏡面がわずかに震え、淡い光が内側から滲み出る。
広がった光はやがて一方へと収束し、シェリーの手元を包み込んだ。
やわらかな声が、外からではなく、内側へと沁み込むように響く。
『我が名はアルシディア。
移ろう未来の流れを映すもの。
その選びに迷いなき者よ――汝を認めよう』
言葉は押しつけるでもなく、ただ確かに定まっていた。
サーラは目を開き、その光景を静かに受け止める。
「……おめでとう、シェリー」
穏やかな声だった。
「鏡が、あなたを選んだのね」
シェリーはしばらく動けずにいたが、やがて小さく息を吐き、鏡へと視線を落とす。
「ありがとう、サーラ……」
その声は、まだどこか現実に触れきれていない響きを帯びていた。
指先に残る感触を確かめるように、ゆっくりと手を握る。
鏡は静かに光を宿し、確かにそこに在る。
「……ほんとに、いいの?」
今度ははっきりと、サーラへ向けられた問いだった。
サーラはすぐには言葉を返さず、ただまっすぐにシェリーを見つめる。
その視線に迷いはない。
やがて、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
シェリーは一度、深く息を吸い込み、静かに吐き出す。
「……そっか」
わずかに笑みがこぼれる。
その奥に残っていたためらいが、ゆっくりとほどけていく。
「やっと……届いたんだ」
鏡を抱える手は、もう迷っていなかった。
サーラはその様子を見つめたまま、ゆっくりと視線を落とす。
胸の奥に残る微かな揺らぎを自覚しつつも、それを外には出さない。
そのとき、肩に乗ったネフィリスが、わずかに目を細めた。
そして、からかうような声音で、サーラの耳元へ囁きを落とす。
「サーラ、君……いま、ほんの少しだけ手を引いたね?」
「えっ……」
サーラは思わず振り返る。
ネフィリスは口元に薄い笑みを浮かべたまま、視線だけで続きを促すように言葉を継いだ。
「誰も気づいていないと思ってるかもしれないけどね。ああいう瞬間の“ズレ”は、案外よく見えるものなんだよ。君、あのとき──ほんの一拍だけ、ためらった」
軽い口調だったが、逃げ道は用意されていない。
サーラは言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「……そう、かもしれない」
指先に残る感触を確かめるように、わずかに手を握る。
「自分でも気づかないうちに……少しだけ、引いていたのね」
ネフィリスは満足げに喉を鳴らす。
「で、その理由は?」
「わからない」
即答だった。だが、その声は揺れていない。
「でも……どこかで、思っていたのかもしれない。シェリーが選ばれるべきだって」
視線は自然と、鏡を手にした少女の背へと向かう。
ネフィリスは一度だけゆっくり頷き、含みを持たせた声音で言った。
「なるほどね。無意識に結論だけは出ていた、というわけか。……相変わらず、君は損な役回りを選ぶ」
わずかに間を置き、口元を歪める。
「優しい、と言い換えてもいいけどね」
サーラは小さく首を振った。
「そういうつもりじゃないわ。ただ……」
言葉を探すように一度だけ息を整え、
「今は、これでよかったと思える。それだけ」
その視線の先で、シェリーが鏡を抱いて立っている。
迷いのないその姿を見つめ、サーラは静かに微笑んだ。
「サーラ、行こう!」
振り返ったシェリーの声は、はっきりと弾んでいた。
先ほどまでの戸惑いは消え、足取りそのものが前へと向いている。
「この力があれば……次はきっと届く。
あなたが目指してるものにも、ちゃんと手が届くはずよ」
サーラはその言葉を受け止め、わずかに目を細めた。
「ええ。今度は──私たちが辿り着く番ね」
鏡の光はすでに収まり、神殿には再び静けさが戻っている。
だが、その静けさは先ほどまでのものとは異なり、わずかに前へと開かれていた。
二人は歩き出す。
選ばれたことと、選ばなかったことの両方を胸に抱えながら、最後の試練へと向かっていった。
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