1-3-5 サーラとルナ
サーラとシェリーが鋏神の神殿に足を踏み入れた瞬間、冷えた空気が静かに肌を撫で、二人を包み込んだ。古びた石壁から滲み出る冷気と、かすかに混じる鉄のにおい。奥へ進むにつれ、視界は徐々に沈み、空気そのものが張りつめていく気配が、足取りに重みを与える。
「気をつけて。何かいるかも」
サーラは声を落とし、足音を抑えながら一歩を踏み出す。その動きに合わせるように、シェリーも息を潜めた。
そのときだった。不意に、闇の奥から鋭い声が走る。
「止まれ」
刹那、二人は足を止め、呼吸を呑み込む。
次の瞬間、暗がりの中からひとりの少女が姿を現した。灰銀の鎧に身を包み、手には抜き放たれた細身の剣。額を覆うバンダナの下、その瞳には油断のない光が宿っている。
剣先はまっすぐに、サーラの喉元へと据えられていた。
場の空気が一瞬で張り詰め、サーラもシェリーも身じろぎすら許されない。
「……ふたりとも、戦闘の意志はないようだな」
少女は目を細め、わずかな動きで相手の呼吸を測る。やがて短く息を吐き、剣を引いた。
「安心しろ。私は民間人とは戦わない。そういうのは規則に反する」
「規則……?」サーラが静かに問い返す。
「『月の騎士団』の掟だ。名乗ろうか。私はルミナリア・スティリーネ。ルナと呼ばれている」
そう告げると、彼女──ルナは剣を鞘に収めた。
張りつめていた糸がようやく緩み、シェリーが小さく肩をすくめる。
「心臓に悪い登場の仕方だよ……」
「初めまして。私はサーラ。……あなたが、門番を?」
サーラは呼吸を整えながら、視線を逸らさず問いかけた。
ルナはわずかに頷く。
「ああ、私が倒した。ここへ来る途中、他にも挑戦者はいたが……誰ひとり、通していない。それだけの話だ」
その言葉には誇示の色はなく、事実を置くだけの簡潔さがあった。
シェリーが一歩前に出て、ルナを見据える。
「私はシェリー。さっきの門番、すごかった。一人で倒すなんて、本当に強いのね」
だが次の瞬間、彼女の視線はルナの左腕に留まった。淡く光を帯びる銀の装飾──それは紛れもなく、『巨蟹の腕輪』。
「それ……もう手に入れたの?」
シェリーが思わず問いかける。
「でも……」サーラも近づき、腕輪を見つめる。「やけに静かじゃない?」
ルナは応えず、ただ左腕へと視線を落とした。
勝利の余韻に浸る気配はなく、その眼差しは静かに沈んでいる。
「反応しないんだ。触れても、沈黙したまま……力を引き出せない」
低く落ちた声には、想定から外れた事態に対する、抑えきれぬ困惑が滲んでいた。
サーラとシェリーは顔を見合わせ、しばし言葉を失う。やがてシェリーが慎重に口を開く。
「伝説のデバイスって、認められた者にしか力を示さないって聞くけど……」
「門番を倒して、挑戦者もすべて退けて、それでようやく手にした。それなのに応えない……何かが、足りていないのか」
ルナの声は抑えられていたが、その内に張りつめた疲労がにじむ。すべてをひとりで背負ってきた者の、均衡のきわに立つ気配だった。
サーラはその様子を見つめ、そっと目線を合わせる。
そこにあるのは、勝利を誇る光ではない。迷いと、わずかな焦りだった。
「あなた、悪い人じゃないよね」
ルナの瞳が、わずかに揺れる。
「なに……?」
「この腕輪は、きっとあなたのためにここにある。だったら、その力を引き出す手伝いを、私にさせてくれない?」
シェリーが驚いたように振り向く。
「サーラ……本当にいいの?彼女は私たちと同じ挑戦者で、“競争相手”なんだよ?」
「うん、分かってる。でも、一人で全部抱え込むのは違うと思う。誰かと一緒に進んだ方が、もっと遠くまで行けるって信じてるから」
その言葉には作為がなく、まっすぐな温度だけがあった。
シェリーは小さく息を吐き、肩をすくめる。
「まったく、巻き込まれるこっちの身にもなってよね。でも……サーラらしいよ、こういうの」
ルナはしばらくのあいだ、二人の顔を見比べていた。
やがて、張りつめていた気配がわずかにほどけ、乾いた笑みが浮かぶ。
「ふふ……変わってるな、お前たち。だが、悪い話じゃない。焦っても仕方がないし、何か手がかりを探せるなら、乗る価値はある」
サーラは一歩、ルナへと歩み寄った。
視線はその左腕──沈黙を保ち続ける腕輪に向けられている。淡い光を宿しながらも、どこか応答を拒んでいるような静けさがあった。
「多分、デバイスに認められるには」
そこで言葉を切り、サーラはわずかに目を細める。何かを確かめるように、腕輪とルナの表情を交互に見やった。
「何か重要なピースが足りていないんだと思う」
その言葉に、シェリーも静かに頷く。
「きっと、この先に手がかりがあるんじゃない?」
ルナは表情を引き締め、神殿の奥へと視線を向けた。
「油断するなよ。ここまで来るのだって簡単じゃなかった。この先に何が待っているかは分からない」
その言葉に、サーラとシェリーも自然と気を引き締める。
これまでの戦いとは異なる、何か本質的な試練が、この先に控えている。
それでも──
「なら、なおさら進むしかないよね。次に行けば、きっと見つかる。腕輪が本当に望んでいるものが」
サーラの声に、ルナとシェリーも小さく応じる。
歩み寄る理由も、ここに至る経緯も異なる三人が、いま同じ方向を見ていた。
神殿の深奥へと進むその足取りには、確かな意思と、まだ名も持たぬ信頼の芽が、静かに宿り始めていた。
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