1-1-18 サーラとヴァシリー
体が凍りついたように、サーラの手足は固まっていた。
筋肉が言うことをきかず、呼吸すら浅くなっていく。
けれど、ここで止まれば本当に終わる──そう思った瞬間、サーラは気力を振り絞り、凍えた指先に力を込めた。
「っ、動いて……!」
ぎこちない動作で一歩を踏み出すと、足元の霜がきしみ、冷たい空気が肌を刺す。
ヴァシリーは相変わらず静かに歩み寄ってくる。
魔法の余波で辺りの街路樹が凍り、看板が白く霜に覆われていく。
それなのに彼は、氷を作って撃つでもなく、ただ冷たい空気を引き連れているだけだった。
(……変だ。氷の魔法なら、もっと直接的に攻撃してくるはずなのに)
必死に距離を取りながら、サーラは冷静に周囲を見回した。
氷が生まれているのは、空気そのもの。彼が振るう魔法は、氷ではない。
空気中の熱を奪っているのだ。
(つまり、あれは冷却魔法……吸熱反応を使って、周囲の温度を下げている!)
走るたびに呼気が白く曇る。皮膚に貼り付く冷気が、痛いほどだった。
それでも、サーラの目にわずかな光が宿る。
(なら……この冷却を止めるには、水分を奪えばいい!)
サーラは授業で習った火の温度調整魔法の応用を思い出す。
火の魔法に風を合わせて温度を調整する方法。それを使えば、周囲の湿気を取り除くことができるはずだ。
すぐに両手を構え、周囲の空気を操る風の魔法を発動する。
火と風を重ね、高温の乾いた風を竜巻のように巻き起こし、ヴァシリーの冷却魔法に対抗した。
渦巻く熱風が街路に張り付いた霜を弾き飛ばし、白い蒸気が一斉に噴き上がった。
「その程度で止められると思うか?」
ヴァシリーが冷笑を浮かべる。
彼はさらに強力な冷却魔法を放とうと構えた。
しかし、周囲の水分が急速に失われ、彼の魔法は徐々に効果を失っていく。空気中の湿気が奪われ、冷気が拡散しにくくなっているのだ。
ヴァシリーは、冷却魔法の効果が弱まっていることを感じ取り、焦りの色を隠せなかった。
寒さが和らいだ街路に、一瞬だけ静寂が落ちた。
「ふん……ここまでか」
低く呟くと、戦局が不利と見たヴァシリーは素早く退却を判断する。
彼はあくまでプロフェッショナルに徹していた。
その場から離れようとした瞬間、背後から足音が聞こえた。
深夜の静寂を破る重たい足音、そして見慣れた影。
そこに立っていたのは、仕事から帰ってきたばかりの長姉アリアだった。
「こんな時間に……何をしてるの?」
低く鋭い声が響く。
ヴァシリーは瞬時に状況を察し、冷徹な表情を浮かべた。
次の瞬間、彼は素早く間合いを詰めた。
アリアの腕を捻り上げ、人質に取ろうとする。
「良いところに来たな、お嬢さん。少し付き合ってもらおうか」
低く呟きながら手を伸ばす。
だが──
アリアは目の前の男の正体に瞬時に気づいた。
危険入国者リストに載っていたヴァシリーに間違いない。
彼女の体はすぐに反応する。背負っていた長杖──王宮仕様の魔法デバイスが音を立てて起動した。
周囲に張り詰めた緊張が走る。
「ヴァシリー。逃げ場はないわよ。ここで終わりにしましょう」
「クソッ、王宮の役人かっ!」
アリアの冷静で決意に満ちた声に、ヴァシリーは自分の失策に気付く。
一瞬の隙をついて逃げ出そうとしたが、アリアの魔法デバイスから放たれる光が彼の進路を遮った。氷の壁が道を塞ぎ、同時に氷の刃が背後から迫る。
ヴァシリーは悔しげに呟く。
「王宮の技術は伊達じゃない……か」
アリアの動きにはまったく無駄がなかった。
デバイスの制御は完璧で、彼がいくら抵抗しても氷の鎖が手足を縛り上げていく。
「動くな……終わらせるわ」
アリアは一気に氷の力を解放し、ヴァシリーを巨大な氷の棺に閉じ込めた。
ヴァシリーは全身を凍りつかされ、動けなくなる。
アリアは彼の前に歩み寄り、目を細めて見下ろした。
「あなたは……女王暗殺計画の関係者ね」
その一言に、ヴァシリーの目が驚愕に染まる。
アリアは彼の素性を見抜いていた。
しかしヴァシリーも、ここで諦めるつもりはなかった。
氷の棺の中で、冷静に言葉を紡ぎ始める。
「確かに俺たちの計画だが、“スパゲティコード”を作り出したのは俺じゃない。俺はただ、それを持ち込んだだけだ」
アリアは眉をひそめた。
「スパゲティコード」は魔法システムの異常コードのことで、女王暗殺計画の重要な手がかりとして注目されていた。
「持ち込んだだけ?じゃあ、一体誰がそれを作り出したの?」
アリアは鋭く問い詰める。
ヴァシリーは苦々しい表情を浮かべながらも、冷静に事実を語った。
「それを作ったのは……本国の魔法使いだ。俺たちはただの運び屋に過ぎない」
「じゃあ、その魔法使いの正体は?」
「詳しくは知らない。けど、俺たちはグリムロスから命令を受けて動いている。女王の抹殺計画は、もっと大きな力が動いていたんだ……」
アリアの胸に冷たい恐怖が走った。
北方の大国、グリムロス帝国。
その名を聞くだけで、どれほどの危険が潜んでいるかを感じ取れる。
もし北方の帝国が本当に女王暗殺に関わっていたとすれば、これまでの警戒では足りない。
もっと強力な対策を講じなければならない。
「北方の帝国……本当にそこまで絡んでいるのね」
アリアは冷静を装いつつ、内心では強い緊張を感じていた。
彼らの持つ力と規模、そして次にどのような手を打ってくるのか──すべてが未知数だった。
「この国は、もう安全じゃないのね……」
サーラが心配そうに呟く。
アリアは決意を固め、ヴァシリーに向かって最後に一言、鋭く言い放った。
「どんな手を使っても、私たちは阻止する。覚悟しておきなさい」
ヴァシリーは沈黙し、冷たい氷の中で表情を歪めた。
それ以上、何も言うことはなかった。
アリアは魔法デバイスを操作し、氷の棺を一層強固にする。
これでヴァシリーの逃亡は不可能だった。
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