1-1-17 冷却魔法
夜も更け、家中が静まり返っていた。
サーラは自室のベッドの上で小さく丸まり、毛布にくるまって眠っていた。
姉から届いた「今夜は遅くなる」というメッセージを聞き、簡単な夕食だけ済ませて早々に床に就いたのだった。家はすっかり静まり返り、物音ひとつ聞こえない。
だが、その静寂の中で、次第に異変が忍び寄っていた。
最初に感じたのは、異様な寒さだった。
どんなに毛布にくるまっても、身の芯まで冷え込んでいくような感覚。
鼻先がかじかみ、指先がじんじんと痛む。布団の中にいるはずなのに、まるで氷の中に閉じ込められているようだった。
「……ん……さむ……」
眠りの淵から、か細い声が漏れる。
サーラはぼんやりと眉をひそめ、無意識に毛布を胸元まで引き寄せた。だが、どれだけ体を丸めても、温かさはまるで感じられない。
しばらく耐えていたが、ついに目が覚め、薄くまぶたを開いた。
「……寒すぎ……っ」
体を起こしたサーラは、自室の空気がまるで冬山のように凍りついていることに気付いた。
壁にも、窓にも、白い霜がびっしりと張り付き、窓ガラスがきしきしと不気味な音を立てている。
吐いた息が、白く曇った。
「ネフィリス……」
サーラは心配そうに猫の名を呼んだ。
すると、部屋の隅で小さく丸まって震えている黒猫の姿が目に入る。
その艶やかな黒い毛並みも、今はわずかに霜を帯びていた。
いつもの皮肉っぽい表情も消え、ただ寒さに耐えることしかできない様子だった。
「……外を見てくるね。おかしいよ、この寒さ」
小さくそう告げると、サーラはクローゼットを開け、真冬用の厚手コートを引きずり出して羽織った。
普段なら何にでも興味津々でついてくるネフィリスも、力なく尻尾を揺らすだけだった。立ち上がる気力すらないようだ。
「リアナ……?」
隣の部屋の扉をそっと開けると、机の明かりだけがぼんやりと灯っていた。
その下で、リアナは椅子に座ったまま、研究ノートの上に頬を乗せて眠っている。
机の上には開きっぱなしの資料と魔法器具が散らばり、どうやらまた夜遅くまで研究を続けていたらしい。
「もう……」
サーラは小さくため息をつきながら、ベッドの上にあった毛布を持ち上げ、そっとリアナの肩にかけた。
軽く肩を揺すってみたが、リアナは「ん……」と小さく声を漏らしただけで、またすぐに静かな寝息を立て始める。
「こんな寒いのに、よく寝ていられるね……」
そう呟くと、サーラは明かりをそのままにして、静かに部屋の扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、さらに強烈な冷気が肌を刺した。
壁のあちこちに氷の結晶が広がり、床はうっすらと凍って滑りやすくなっている。
家の中とは思えないほどの寒気が、静かに広がっていた。
ペタリ、ペタリ、と裸足の足が冷え切った床に触れるたび、感覚が少しずつ薄れていく。
それでもサーラは足を止めず、じっと耳を澄ませながら、凍りついた家の中を慎重に進んでいった。
玄関の扉をそっと開ける。
その瞬間、凍てつくような冷気が顔に押し寄せた。
サーラは一歩踏み出し、コートの裾をぎゅっと握る。
真冬の深夜のような冷たさだったが、時期的にそんなはずはない。
「……何、この寒さ……」
小さくつぶやいた、その瞬間だった。
暗がりの中から、低く鋭い声が飛んできた。
「ようやく出てきたか」
サーラの心臓が大きく跳ねた。
驚きに息を呑み、辺りをきょろきょろと見回す。
家のすぐそばに、人影が浮かび上がった。
月明かりに照らされ、ぼんやりとその輪郭が浮かび上がるが、影は微動だにしない。
サーラは身構えた。
「誰なの……?」
声を震わせまいと必死だった。
その時、影がゆっくりとサーラに向かって動き出した。
暗がりの中で、サーラはその人物の表情をようやく捉える。
鋭い目つきと無表情な顔。明らかにただ者ではないその男は、冷ややかな微笑みを浮かべていた。
「あなたの仕業なの?こんなことして、何が目的?」
男は肩をわずかに揺らし、淡々と答えた。
「目的?大したことじゃない。お前はベッドにいるべきだった。それだけだ」
「……意味がわからない」
にじり寄る恐怖をかみ殺しながら、サーラは男を見つめ続ける。
「あなた、誰?」
男は肩をすくめるようにして、あっさりと名乗った。
「ヴァシリー。……それで十分だろう」
サーラにはその名に聞き覚えがなかった。
だが、彼の態度から危険な相手であることだけははっきりしていた。
周囲を覆う異様な冷気だけではない。
その男の存在そのものが、不気味な威圧感を放っていた。
「お姉ちゃんたちを狙ってるの?それとも……私?」
問い詰めると、ヴァシリーはかすかに唇を歪めた。
「狙いはリアナだったんだが……邪魔が入るのは困る」
ぞわりと、背筋に冷たいものが走る。
彼がリアナの名を口にした瞬間、サーラの体は凍りついたように動かなくなった。
何がどうなっているのか、まったくわからない。
確かなのは、ヴァシリーの目的が姉のリアナであり、そしてサーラ自身もまた、危険な状況にいるということだった。
「やめて……っ!」
必死に叫んだが、ヴァシリーは首を横に振っただけだった。
「そう言われてもね」
冷ややかに言葉を返し、ヴァシリーは再び手を振り上げる。
その動きに合わせるように、冷気がさらに強まり、空気そのものが凍りついていく。
サーラは恐怖に押しつぶされそうになりながらも、頭の中ではただ一つの思いだけが渦巻いていた。
リアナを守らなければならない。
この男を、ここで止めなければならない。
胸の奥で何かが弾けた。
「リアナには……何もさせない!」
拳を握りしめ、サーラは精一杯の声で叫んだ。
その小さな叫びが、凍てついた夜の静けさを鋭く切り裂く。
踏み出した一歩が、心に小さな火を灯した。
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