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1-1-16 証拠隠滅

その研究室は静まり返っていた。

日が落ち、研究者たちはすでに家路に就いた時間だ。廊下から差し込むわずかな灯りだけが、棚に並ぶ書物の背を淡く照らしている。


だが、その静けさを破る足音があった。

暗がりの奥から、一人の影がゆっくりと姿を現す。


工作員ヴァシリー・シヴァロフは呼吸を殺し、足音ひとつ立てずに歩を進める。黒ずくめの服は夜の闇に溶け込み、微かな衣擦れすらほとんど聞こえない。


彼は腰に帯びた封印解除用の魔法ツールを静かに取り出すと、目の前に設けられた小さな鍵盤へと慎重に触れた。


──カチリ。


かすかな音とともに、魔法結界が一枚、静かに剥がれる。


ヴァシリーは眉一つ動かさず、次の仕掛けを探った。

さすがにエグバート・クラウデルの研究室だ。侵入者を拒むための重層結界が幾重にも張り巡らされている。王宮の特別顧問を務める彼の研究室には、国家機密が眠っているとの噂も頷ける。


だがヴァシリーは、これらを潜り抜けるための“特別な訓練”を受けていた。


指先を空中に這わせるように動かしながら、彼は慎重に罠の位置を探る。そして見えない魔力の流れを見極めると、一本の魔力糸を極めて静かに切り落とした。


一歩、また一歩。


まるで猛獣の巣穴へ忍び込むかのように、細心の注意を払って進みながら、ヴァシリーは書棚の影へと溶け込んでいく。


やがて彼は、標的となる書類が眠る最奥の棚へと視線を向けた。


目的はただ一つ。

重要な資料を奪取し、証拠を残さずに立ち去ること。


ヴァシリーは資料棚の前に立つと、一枚一枚を手早く確認していく。王宮の調査依頼に関する情報──その詳細が記されているはずの書類だ。


「探し物でもしているのか?」


不意に、背後から声が響いた。


ヴァシリーはわずかに眉をひそめたが、すぐに冷静さを取り戻し振り向く。


そこにはエグバートが立っていた。見た目は温厚な老教授にすぎないが、その鋭い視線は、まるで全てを見透かしているかのように静かに光っている。


「こんな時間に、ここで何をしている?」


「少し資料を探しているだけだ、先生」


ヴァシリーは平然と答えた。だがその言葉の裏には、明らかに何かを隠している気配がある。


エグバートはその場から動かない。

彼の視線が、ヴァシリーの手元へとちらりと移る。そこには、まだ整理されていない書類が数枚、棚から引き出されたまま残されていた。


「君は研究者ではないな。それどころか、この研究所には関わりのない人間だ」


エグバートは静かに言った。


「それに、これらの資料は私が個人的に管理しているものだ。君の手に取るべきものではない」


ヴァシリーは一瞬だけ緊張を感じたが、その感情を表に出すことはなかった。代わりに、ゆっくりと笑みを浮かべる。


「面白い見立てだな。だが、それを証明できるか?」


二人の間に、張り詰めた空気が流れる。


エグバートはヴァシリーをじっと見つめていた。その表情からは、どこまで見抜いているのか読み取ることができない。


やがて、エグバートは静かに口を開いた。


「証明など必要ないさ。君のような輩は、一目見ればわかる」


わずかな間を置き、彼は続ける。


「資料を盗むため?

違うな、本当は“痕跡“を消しに来たんだろう?」


ヴァシリーの瞳が、一瞬だけ揺らいだ。


冷静に振る舞ってはいたが、ここまで見抜かれるとは予想していなかった。

だがその瞬間、彼の本能が静かに警告を鳴らす。この男は危険だ──少なくとも、この場で対峙を続けるのは得策ではない。


「なるほど。先生がここにいる理由もわかったよ」


ヴァシリーは口元に笑みを浮かべながら、ゆっくりと後ずさりを始めた。


「どうやら私は、少し過剰に警戒していたようだ。今日はこれで失礼する」


エグバートはその場から動かず、ただ静かにヴァシリーを見送る。


「二度目はないぞ」


ヴァシリーは小さく頭を下げると、すっと身を翻し、そのまま音もなく部屋から姿を消した。


静寂が戻る。


その後ろ姿を見送るエグバートの顔には、どこか深い思索の影が浮かんでいた。


「リアナに知らせておかねば……」


彼は小さくそう呟いた。


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