9話 屍喰鬼(グール)の強襲と姫君の自立
タグ掛けによる確率機攻略から数日後。
俺の血糖値と胃壁の治安は、かつてないほどの安定を見せていた。
紬からの手厚い「スポンサー料(食料現物支給)」のおかげである。
腹が満たされると、人間の思考はここまで変わるものなのか。
以前の俺なら「空きコマにゲーセンへ行く」などという行為は、カロリー消費を伴う無駄な労働でしかなかった。
だが今は、並木道を紬と並んで歩きながら、『スポット・ニュートン』へと向かうこの時間が、ほんの少しだけ……いや、認めよう。
かなり待ち遠しくなっていた。
「よしっ、今日こそ自力で推しをお迎えします!」
意気揚々と自動ドアを潜り抜けた紬は、真っ直ぐに目的の筐体へと向かった。
今日、琴音さんはゼミの発表があるらしく不在だ。
つまり、俺と紬の二人パーティでの探索となる。
紬が挑むのは、前回と同じ『三本爪』。
中に入っているのは、彼女の推しキャラの新作マスコットだ。
前回は俺がタイミングを計算し、紬がボタンを押すという共同作業でシステムをハッキングしたが、今日は彼女自身が「自分で獲りたい」と宣言していた。
チャリン。
銀の弾丸が投入され、紬の孤独な戦いが始まった。
俺は少し離れた場所から、腕を組んでその様子を眺めていた。
(ふむ……。
狙いは悪くない。
だが、やはりアームの下降時の横揺れを計算しきれていないな。
あの質量だと、右のアームを少し深めに入れないと重心が持ち上がらないぞ)
脳内の物理エンジンが自動的に最適解を弾き出す。
俺が手を出せば、おそらく数手で片付く盤面だ。
効率を考えれば、すぐに「代打ち」を申し出るべきだろう。
だが、俺は動かなかった。
ガラス越しに見える紬の横顔が、真剣そのものだったからだ。
百円玉が吸い込まれるたびに一喜一憂し、アームの軌道を必死に目で追い、自分の手で推しを救い出そうと足掻いている。
その熱量は、俺の冷たい計算式では到底割り出せない、美しくも無駄な輝きを放っていた。
「……ああっ、また途中で離されちゃった!」
紬が悔しそうに声を上げた、その時だった。
「お姉さん、それもういくら回してる?」
不意に、ひどく耳障りな声が割り込んできた。
見ると、紬のすぐ背後に、痩せこけたハイエナのような目つきの男が立っていた。
年の頃は俺たちと同じか、少し上。
薄汚れたパーカーに身を包んだそいつは、紬の肩越しに筐体の中を覗き込みながら、ニタニタと笑っている。
「え、あ……三千円くらい、ですけど……」
「ふーん。全然動いてないじゃん。センスないから、もう諦めて俺に譲りなよ。次、俺がやるからさ」
男はそう言って、紬のすぐ真後ろに陣取った。
パーソナルスペースを完全に無視した距離。
紬がプレイを再開しようとすると、わざとらしく「チッ」と舌打ちをし、腕を組んでため息をつく。
俺の眼【絶対物理領域】が、即座に男の正体を解析する。
間違いない。
こいつは『屍喰鬼』だ。
他人が多額の資金をつぎ込み、天井が近づいた台を背後からプレッシャーをかけて奪い取る、アングラ界隈の寄生虫。
盤上の技術ではなく、盤外戦で他人の努力を横取りする卑劣な輩だ。
「あの、でも、私……」
紬が怯えたように肩をすくめ、後ずさりしそうになる。
(……チッ。
非効率なノイズが湧きやがって)
俺は舌打ちを一つ落とし、歩み出ようとした。
こんな小悪党、俺がしゃしゃり出て厨二病全開のハッタリで威圧し、代打ちしてさっさと景品を獲ってしまえば終わる話だ。
カロリーの無駄遣いだが、スポンサーの危機とあらば仕方ない。
「おい、そこを退け――」
俺が声をかけた、その瞬間。
「……理人さんは、手を出さないでください」
静かな、けれど芯のある声が、俺の言葉を遮った。
驚いて顔を向けると、紬がこちらを振り返り、首を横に振っていた。
「……いいのか?」
「はい。これは、私の戦いですから」
怯えていたはずの彼女の瞳には、かつての「お金を入れるだけの養分」だった頃の弱々しさはなかった。
琴音さんの美しいプレイに憧れ、俺の神業を見て、自らクレーンゲームの深淵を学ぼうと決意したプレイヤーの目がそこにあった。
「へっ、強がるねえ。どうせお前じゃ獲れねえよ」
屍喰鬼の男が鼻で笑う。
俺は、一歩だけ下がった。
彼女の意思を尊重する。
それは「効率第一」だった俺にとって、また一つ増えた非合理な選択だった。
「……ふん。いいだろう」
俺は前髪をかき上げ、屍喰鬼の男を冷ややかな視線で射抜いた。
「おい、そこの下等な屍喰鬼。黄金を捧ぐ姫君の聖戦を、その濁った瞳でとくと目に焼き付けるがいい。……彼女の『眼』はすでに、盤面の因果律を捉えている」
「は? なんだお前、頭湧いて……」
俺の痛すぎるハッタリに男が怯んだ隙を突き、紬は再びジョイスティックを握りしめた。
(天井まで、あと数回のはず……でも、ただ運を待つだけじゃダメ! )
紬の目が、アームと景品、そして落下口の周囲を取り囲む透明なプラスチックの壁を捉える。
チャリン。
銀の弾丸が投入され、アームが動き出す。
紬は景品の真上ではなく、わずかに「手前」へと爪を降下させた。
ウィーン、ガリッ。
アームがぬいぐるみの下半身を中途半端に掴んで持ち上げる。
案の定、設定されたプログラムが働き、頂点に達した瞬間にアームは「パッ」と力なく開いた。
「ほーら、やっぱり落ち……」
男が嘲笑しようとした、その直後。
中途半端な重心で持ち上げられていたぬいぐるみは、アームから解放された瞬間、真下ではなく『斜め前』に向かって放物線を描いて落下した。
そして――。
ボヨンッ!!
落下口をガードしている透明なプラスチックのシールドの上部に激突し、そのトランポリンのような反発力を利用して、見事に落下口の内側へと弾き飛ばされたのだ。
ドスッ。
「……なっ!?」
屍喰鬼の男が、信じられないものを見るように目をひん剥いた。
「シールドの反発係数を利用した、『バウンド・キャッチ』……!」
俺は内心で
(すげえええええ!?
マジでやりやがったあの女 )
と大歓喜しながらも、表面上は腕を組んだまま「……計算通りだ」と低く呟いてみせた。
天井を待つのではなく、シールドの高さと落下位置を計算し、自ら意図的にバウンドを生み出してシステムを打ち破ったのだ。
琴音さんの教えが見事に実を結んだ瞬間だった。
「きゃあああっ! 獲れたっ! 獲れました理人さんっ!!」
取り出し口から推しを抱きしめた紬が、満面の笑みでこちらに駆け寄ってくる。
屍喰鬼の男は「チッ、まぐれが……」と捨て台詞を吐き、気まずそうに逃げるように去っていった。
「見事な物理演算だった。お前の熱意が、プログラムの壁を越えたな」
俺がいつものように大袈裟なセリフで褒め称えると、紬は「えへへ」と照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て。
俺はふと、気づいてしまった。
自分の手柄でもない。
自分の胃袋に入る食料でもない。
ただの布と綿でできたぬいぐるみが落ちただけのことに、俺は今、心の底から歓喜し、拍手を送りたい衝動に駆られている。
非効率極まりない、無駄の時間。
でも、悪くない。
「……よくやったな、紬」
それはハッタリでもなんでもない、俺の心からの言葉だった。
空きコマのゲーセン。
冷え切っていた俺の世界に、確かな温もりが灯っていた。
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