10話 硝子の箱庭に咲く笑顔(ファイナル・エグザム)
世界は、質量と摩擦係数でできている。
だが、そこに「人間の情熱」というバグが介入したとき、導き出される解は時に物理法則すら凌駕する。
木枯らしが吹き始めた十一月。
俺と紬、そして琴音さんの三人は、『スポット・ニュートン』の最深部に立っていた。
目の前にそびえ立つのは、このゲーセンの全能なる創造主たる店長が、俺たちのために直々に組み上げた「特設ステージ」だった。
「……極悪ペラ輪設定、か」
俺は腕を組み、冷や汗を隠しながら低く呟いた。
透明なアクリル板の斜面。
その上に置かれた、紬が熱望する特大の限定アクリルスタンドの平べったい箱。
箱の中心には、プラスチック製の薄い輪っかが貼り付けられている。
アームの爪をその輪っかに入れ、少しずつ手前へと引っ張り出して落とす。
それがペラ輪設定の基本だ。
だが、この台は異常だった。
斜面には極厚の滑り止めが敷き詰められ、ペラ輪の穴は極端に小さい。
さらに店長は、カウンターの奥から「さあ、やれるもんならやってみな」と言わんばかりの不敵な笑みを向けてきている。
「これが、二人の卒業試験よ」
隣で腕を組む琴音さんが、試すような視線を俺たちに向けた。
「あの滑り止めの摩擦係数は異常よ。私の技術でも、最短ルートを見誤れば資金が尽きるわ。……私は手を出さない。二人で解きなさい」
「……上等です」
俺より先に答えたのは、紬だった。
彼女は「黄金を捧ぐ姫君」と呼ばれたかつての養分ではない。
確かな観察眼を持った、一人の立派なプレイヤーだ。
「私が道を作ります。理人さん、最後をお願いできますか?」
「……ああ。お前が切り開いた道の先、必ず俺の数式で穿ってみせる」
俺は前髪をかき上げ、口角を上げた。
ハッタリじゃない。
俺は本気で、このスポンサーの……いや、俺の大切な仲間の願いを叶えたいと思っていた。
チャリン。
紬の手によって、第一の銀の弾丸が投入された。
「右アーム、ペラ輪の中心より三ミリ外側……!」
紬の眼が、かつてないほどの集中力で盤面を捉える。
彼女は幾度も失敗を重ねながら、それでも決して折れることなく百円玉を投じ続けた。
アームの下降のクセ、爪の入り込む角度、そしてミリ単位で動く箱の摩擦を身体で覚えていく。
(すごい……)
背後で見守りながら、俺は純粋に感嘆していた。
効率とカロリーしか頭になかった俺には、あそこまで泥臭く、一つの景品に向き合うことはできなかっただろう。
「いっけえええっ!」
紬がボタンを押し、アームがペラ輪を引っ張る。
ズリッ。
十数回のプレイの末、ついに箱は斜面の最先端、あと数ミリで落下するという「極限の均衡状態」に達した。
だが、そこで完全に動きが止まった。
「ああっ……! 爪は入ってるのに、滑り止めの抵抗が強すぎてこれ以上引っ張れない……!」
紬が悲痛な声を上げる。
店長の仕掛けた罠の真骨頂。
最後の最後で引く力が逃げるよう、斜面の角度が意図的に調整されていたのだ。
これ以上は、どれだけ精密にペラ輪を引っ張っても微動だにしない。
「……私の役目はここまでです」
紬は小さく息を吐き、俺を振り返った。
その瞳には、一筋の涙が浮かんでいる。
だが、決して絶望はしていなかった。
彼女は、俺を信じ切っていた。
「理人さん。私たちの道を……完成させてください!」
「……ああ。よくやった、紬」
俺は一歩前へ踏み出し、ジョイスティックを握りしめた。
ペラ輪の概念は通用しない。
引いてダメなら、どうするか。
脳内の絶対物理領域がフル回転する。
フック設定の食品台で、来る日も来る日もタイミングを計り続けた俺の動体視力。
そして、琴音さんが見せてくれた「アームの関節による物理的破壊」の記憶。
すべての知識が、一つの数式に収束していく。
「……見せてやる。俺たちの執念が導き出した、システム外の解答を」
俺はジョイスティックを弾き、アームをペラ輪の「奥」、箱の背面のギリギリの座標に合わせた。
「えっ……理人くん? ペラ輪を狙わないの?」
琴音さんが驚きの声を上げる。
俺は答えず、静かに降下ボタンを叩き込んだ。
狙うは、アームの爪ではない。
下降するアームの硬い「肘」の側面だ。
俺が食品台のフック設定で極めた、振り子のように揺れるアームの挙動。
その揺れを逆算し、運動量が最大になる一瞬を狙い撃つ。
「消し飛べ……ッ!!」
降下しきったアームの硬質な肘が、揺れの反動を伴って、箱の背面の角に強烈な打撃を与えた。
ガァァァンッ!!
ペラ輪を引くのではなく、箱そのものを背後から物理的に殴り飛ばす。
俺の無知から生まれた特化型素人の荒技と、琴音さんの基礎技術が融合した究極の一撃――【神殺しの鉄槌】。
その圧倒的な運動エネルギーは、店長が敷いた極悪な摩擦抵抗を完全に破砕した。
箱は斜面の先端から見事に押し出され、宙を舞い、重力に従って一直線に落下口へと吸い込まれていった。
ドスッ。
重たい落下音が、静寂に包まれたゲーセンに響き渡る。
「……っ」
「あ……」
数秒の空白。
そして。
「きゃあああああああっ!! 落ちたっ!! 落ちましたよ理人さん!!」
紬が弾かれたように俺に飛びついてきた。
俺はよろけながらも、その華奢な身体をしっかりと受け止め、無意識のうちに右手を高く掲げていた。
「やった……! やったぞ、紬!!」
陰の実力者ムーブも、孤高の戦士のハッタリも、そこにはない。
ただ一人の大学生として、俺は顔をくしゃくしゃにして笑い、紬と力強くハイタッチを交わした。
パチパチパチパチ……。
背後から、温かい拍手が聞こえた。
振り返ると、琴音さんが満面の笑みで俺たちを讃えていた。
カウンターの奥では、店長が「やれやれ、一本取られたな」というように肩をすくめ、小さく親指を立ててみせた。
「合格よ、二人とも。最高のプレイだったわ」
「琴音さん……ッ! ありがとうございます!」
「……琴音さんの教えのおかげです」
俺が照れ隠しに前髪をかき上げると、琴音さんは優しく微笑んだ。
帰り道。
秋の夜風はひどく冷たかったが、俺の心は不思議なほど温かかった。
隣では、紬が大事そうにアクリルスタンドの箱を抱きしめながら、スキップをするような足取りで歩いている。
「今日は最高の空きコマでしたね、理人さん!」
「……まあ、悪くはない」
世界は質量と摩擦係数でできている。
生きるとは、カロリーを摂取するだけの孤独な作業だ。
ずっとそう思っていた。
けれど、あのアクリルケースの中で繰り広げられた数分間のドラマには、俺の冷たい数式では決して測れない「熱」があった。
誰かと肩を並べ、一喜一憂し、無駄なことに本気で挑む時間。
それは、カロリーにはならないかもしれないが、俺の人生にとって絶対に必要なエネルギーだったのだ。
「あ、理人さん! 来週の空きコマ、駅前の新しいゲーセンに偵察に行きませんか!? 私、新しい推しの情報を見つけちゃって!」
「……仕方ない。俺の絶対物理領域が、また必要になるというならな」
俺の芝居がかった言葉に、紬がケラケラと笑う。
その笑顔を守るためなら、もうしばらく、この「凄腕の鷲」を演じ続けるのも悪くない。
ネオンが灯り始めた歓楽街を背に、俺たちは意気揚々と歩き出した。
俺たちの青春は、まだ始まったばかりだ。
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