7話 敗北のち、教えを乞う者
「重心は『読む』だけじゃダメ。私たちがアームで『作る』ものよ」
その言葉を残し、黒髪の女性は、ふわりと微笑んで背を向けた。
ヒールの音が遠ざかっていく。
俺は、自分の右手をじっと見つめていた。
さっきまでジョイスティックを握りしめ、冷や汗を流しながら虚空を掻き回していた無力な手。
(重心を作る、だと……? )
俺の脳内を占めていた『生存のためのカロリー計算式』が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
物理学において、質量や重心は「あらかじめそこに存在するもの」だ。
観測者がそれを変えることはできない。
だから俺は、最初から「詰んでいる」台は絶対に解けないと諦めた。
だが、彼女は違った。
アームの下降の力、関節の硬さ、箱の角度。
すべてを計算に入れた上で、自らの手で「落ちるための重心」を盤面上に強制的に生み出したのだ。
それは単なるゲームのテクニックではない。
盤面という名の宇宙の法則を書き換える、本物の『創造』だった。
「待って……ください!」
俺の口から、無意識に声が出ていた。
自分でも驚くほど、必死で、泥臭い声だった。
陰の実力者ムーブも、孤高の戦士のハッタリも、そこには微塵も残っていなかった。
ピタリと、ヒールの音が止まる。
女性が振り返った。
その目は「どうしたの?」と優しく問いかけているようでもあり、同時にゲーマーとしての俺の底を測るような鋭さも秘めていた。
俺は一歩、彼女に向かって踏み出した。
「俺は……クレーンゲームを知りません」
隣で「えっ?」と紬が間抜けな声を上げたが、俺は構わず続けた。
「あの食品台の、揺れるS字フック。俺は飯を食うために、あれの周期だけを丸暗記しただけの、ただの素人です。箱モノなんて今日初めて触ったし、アームの握力が抜かれていることも、肘で押し込めることも知らなかった」
自分の惨めな現実を、初対面の相手に晒け出す。
さっきまで俺を「凄腕の鷲」だと信じて疑わなかったお嬢様の前で、自ら化けの皮を剥いだのだ。
これで食費の援助は打ち切りだろう。
今夜からまた、もやしと塩の生活に逆戻りだ。
それでも、言わずにはいられなかった。
胸の奥で煮えたぎる、この正体不明の「熱」を、どうにかしたかったからだ。
「でも、あんたの一撃を見て……悔しかった。俺の計算式が、あんなにも美しく打ち破られたことが。……俺も、あの箱庭の物理法則を、すべて知りたい」
俺は、深く頭を下げた。
空腹でめまいがした。
情けなくて涙が出そうだった。
でも、俺は生まれて初めて、カロリー以外のもののために頭を下げていた。
「俺に、クレーンゲームを教えてください」
静寂が下りた。
遠くで鳴るメダルゲームのジャラジャラという音だけが、やけに鮮明に聞こえる。
数秒の空白ののち。
「……ぷっ」
と、小さな吹き出し笑いが聞こえた。
顔を上げると、彼女が口元を押さえて肩を揺らしていた。
「あははっ、ごめんなさい。あまりにも真剣な顔で『物理法則を知りたい』なんて言うから。……でも、フックの周期だけを丸暗記して食費を浮かすなんて、それはそれですごい執念じゃない?」
彼女は悪戯っぽく笑うと、俺の前に歩み寄り、スッと右手を差し出した。
「文学部三年の、鈴鳴琴音。このスポット・ニュートンを主戦場にしてる、ただのクレーンゲーム好きよ。あなたは?」
「……理学部二年の、理人です」
俺は戸惑いながらも、その手を握り返した。
細くて柔らかい手だったが、指先には確かなタコがあった。
数え切れないほどの銀の弾丸を投入し、ジョイスティックを弾き続けてきた戦士の証だ。
「よろしく、理人くん。人に教えるのは嫌いじゃないわ。でも、私の授業は厳しいわよ? 実技講習のたびに、授業料も飛んでいくし」
琴音さんがウインクをした、その時だった。
「はいはいはーいっ!!」
俺と琴音さんの間に、勢いよく紬が割り込んできた。
その手には、先ほど救出された推しのフィギュアがしっかりと抱き抱えられている。
彼女の目は、失望どころか、先ほどよりもさらに強い光を宿していた。
「そういうことなら、授業料は私が引き受けますっ!」
「……は? いや、お前、俺がただの素人だって……」
「素人が、たったひとつの技だけを極めて生存戦略を立てていたなんて……ロマンじゃないですか! まるで初期装備のひのきのぼうだけで魔王城の門番を倒すようなものです! 最高です!」
この女の脳内変換機能はどうなっているんだ。
紬はズイッと俺に顔を近づけ、得意げに胸を張った。
「それに、琴音お姉さんの美しいプレイを見て、私もただお金を入れて眺めているだけの『養分』じゃダメだって気づいたんです。私も一緒に、クレーンゲームの真理を学びます!」
資金力の女神は、俺を見捨てていなかった。
いや、むしろ彼女自身も、単なるパトロンから「プレイヤー」へとクラスチェンジを果たそうとしているらしい。
琴音さんは俺と紬を交互に見ると、「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「いいわね、その意気込み。お金を出すだけのスポンサーと、計算しかできない理系頭脳。二人がどこまで『盤面』を支配できるようになるか、見せてもらおうじゃない」
こうして。
極限の金欠から始まった俺の孤独な生存戦略は終わりを告げた。
「さあ、第一回講義を始めるわよ。まずはあそこの『確率機』の構造《闇》から教えてあげる」
空きコマのゲーセンという名の教室で。
俺たち三人の、無駄で、熱くて、最高に馬鹿馬鹿しいチュートリアル《青春》が幕を開けたのだ。
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