6話 死んだ重心の起こし方
「見てなさい。死んだ重心の、起こし方を教えてあげる」
黒髪の女性が放ったその言葉は、ゲーセンの喧騒を切り裂き、俺の鼓膜に冷たく響いた。
彼女は俺の横を通り抜け、斜めにハマって完全に沈黙した『橋渡し設定』の前に立つ。
キャンパスですれ違えば、十人が十人振り返るような清楚で整った顔立ち。
だが、筐体の前に立った彼女からは、俺の空腹による「陰の実力者ムーブ」などとは次元が違う、本物のプレデターの気配が漂っていた。
「あ、あの……お姉さん?」
紬が戸惑ったように声をかけるが、女性は無言のまま、迷いなく百円玉を投入口に滑り込ませた。
チャリン。
その硬貨の音が、今はひどく澄んだ音に聞こえた。
(どうする気だ……? )
俺は息を呑み、彼女の手元を凝視した。
箱は二本のポールの間で斜めに傾き、シリコンゴムの摩擦力によって完全にロックされている。
アームの握力は最弱。
俺の頭脳が弾き出した結論は「完全なる詰み」だ。
どこを突こうが、撫でようが、絶対に動かない。
女性の細く白い指が、ジョイスティックを弾く。
ウィーン、とモーター音が鳴り、アームが移動を開始した。
(狙いはどこだ?
右上の角か?
いや、そこはさっき俺が突いて力が逃げた場所だ。
左の手前?
だがそこには爪が入る隙間がない――)
俺の物理演算エンジンがフル回転で予測を立てる中、アームは箱の真上……ではなく、箱の『右端よりさらに外側』でピタリと停止した。
(なっ……!? )
俺は目を疑った。
そこには何もない。
箱の重心はおろか、爪を引っ掛ける角すらない。
ただの空間だ。
「おい、位置がズレてるぞ!」
思わず俺が声を上げた瞬間、女性は一切の躊躇なく、ターンッ!
と降下ボタンを押し込んだ。
銀色の双牙が降下していく。
位置は完全にズレている。
左の爪は虚空を切り、右の爪はポールの外側を虚しく撫でるだけ。
(ミスだ。
いくら彼女でも、あんな的外れな座標じゃミリも動か――)
ガゴッ!!
重く、硬い音が響き渡った。
俺の思考が、その瞬間に完全停止した。
「……は?」
視界に映った光景が、俺の理解を超えていた。
爪が箱を掴んだのではない。
降下しきったアームの『関節部分』――つまり、プラスチックと金属が組み合わさった最も硬く分厚い『肘』の部分が、斜めに浮き上がっていた箱の角を、上から強烈な力で押し潰していたのだ。
アームの握力は最弱でも、「下に向かって降りる力」はモーターの駆動によって一定の出力が保証されている。
彼女はその下降する力そのものを利用し、肘という『硬い質量』を箱の角に叩き込んだのだ。
「テコの……原理……ッ!?」
俺の口から、戦慄の声が漏れた。
押し込まれた角を支点として、箱の対角にある『死んだ重心』が、シリコンゴムの摩擦力を力技で引き剥がしながら跳ね上がる。
クルンッ、と美しい弧を描き。
箱は二本のポールの間をすり抜け、落下口へと真っ逆さまに落ちていった。
ドスッ。
「あ……ああ……っ!」
紬の歓喜の悲鳴が上がる。
俺は、ただ呆然とその光景を見つめていた。
魔法じゃない。
魔術でもない。
極めて論理的で、圧倒的な暴力。
俺が「アームは爪で掴むもの」という固定観念に囚われている間に、彼女は筐体の『構造そのもの』を計算式に組み込み、システム外の物理法則で絶対防御陣を破壊してのけたのだ。
「……ふぅ」
女性は小さく息を吐くと、取り出し口からフィギュアの箱を拾い上げた。
そして、振り返る。
「はい、お待たせ」
先ほどの冷酷な眼差しはどこへやら。
彼女はキャンパスにいる普通の女子大生のように、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべて、紬に箱を手渡した。
「きゃあああ! ありがとうございます! お姉さん、女神様です!!」
「ふふっ、推しはお迎えできる時にしておかないとね」
紬が感動のあまり泣きつき、黒髪の女性がそれを優しく撫でる。
俺はその輪に入れず、ただ立ち尽くしていた。
「あなた」
不意に、彼女が俺の方を見た。
その瞳の奥には、まだかすかに勝負師としての鋭い光が残っていた。
「箱の質量と摩擦係数しか見ていないうちは、あれは獲れないわ。重心は『読む』だけじゃダメ。私たちがアームで『作る』ものよ」
「……ッ」
胸の奥を、熱い杭で打たれたような衝撃が走った。
生存のための作業。
カロリー摂取のためのルーティン。
そんな風に斜に構え、クレーンゲームをただの「作業」だと見下していた俺の薄っぺらいプライドが、音を立てて粉々に砕け散った。
悔しい。
圧倒的な知識と技術の差を見せつけられ、理系の端くれとしての俺の心が、かつてないほどに熱く、激しく沸騰していた。
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