5話 絶対防御陣と崩れゆく虚像
手渡された五枚の百円玉は、ひどく重かった。
物理的な質量の話ではない。
この小さな金属塊が持つ資本主義的な価値、すなわち「特大カップ麺数個分」という膨大なカロリーの重みである。
俺は震える指で硬貨を投入口へ押し込んだ。
チャリン、という音と共に、デジタル表示が『CREDIT 6』へと跳ね上がる。
もはや後戻りはできない。
俺は胃の痛みを無視し、ジョイスティックを握り直した。
(落ち着け。
あの箱は現在、二本のポールに斜めに挟まり、シリコンゴムの強い摩擦力によって固定されている。
ならば……)
俺の脳内物理エンジンが再起動し、新たな数式を弾き出す。
(アームの握力が極端に低いことは先ほどの『査定』で実証済みだ。
ならば掴むのではなく、爪の先端を箱の隙間にねじ込み、テコの原理で一点に力を集中させて押し出せばいい!
)
「……第二フェーズへ移行する」
「はいっ! お願いします!」
背後で紬が健気に声援を送る中、俺はアームを移動させ、降下ボタンを叩き込んだ。
狙いは箱の右上の角。
ポールの隙間。
いけ、俺の爪!
その一点にすべてのベクトルを集中させろ!
ウィーン、ガリッ。
スキャアァァァ……。
「なっ……!?」
俺は絶句した。
爪は箱の角をかすめたものの、プラスチック製の軟弱なアームは、箱の抵抗に負けて『ぐにゃり』と外側に逃げてしまったのだ。
テコの原理どころか、力が完全に分散されてしまった。
(バ、バカな!?
アームの関節の遊びが大きすぎる!
これでは力が伝わらない!)
「す、すごいです理人さん!」
振り返ると、紬が目を輝かせていた。
「今の一撃で、箱とポールの接点の摩擦係数をコンマ数ミリ削ったんですね! まるで芸術的な彫刻を見ているみたいです!」
「……あ、ああ。まあな」
声が裏返りそうになるのを必死に堪え、俺は冷や汗を拭った。
削っていない。
ミリも削れていない。
ただ俺の神経が削られているだけだ。
そこからの四回は、まさに地獄だった。
掴もうが、押そうが、突こうが、軟弱な双牙は箱の表面を滑り、ぐにゃりと逃げ、虚空を掴む。
シリコンゴムの絶対的な摩擦力に守られた箱は、ミリ単位の振動すら許さず、完全に斜めのまま沈黙を保っていた。
『CREDIT 1』。
ついに、最後のプレイ権。
俺の息は上がり、額からは滝のように汗が流れていた。
視界が霞む。
空腹による低血糖なのか、極度のプレッシャーによるストレスなのか、もう分からない。
(無理だ……。
俺の知識じゃ、この絶対防御陣は破れない)
俺の頭脳が、ついに「敗北」というエラーコードを吐き出した。
物理法則の敗北ではない。
俺という特化型素人の、経験値の絶対的な欠如だ。
「理人さん、次が最後ですね……! 私、息を止めて見守ります!」
紬の純粋な期待の声が、鋭い刃となって俺の良心を突き刺す。
自分の食料のためだけに、見ず知らずの他人の金を溶かした。
その罪悪感が、以前は冷徹だった俺のプライドに、決定的な亀裂を入れた。
俺はスティックから手を離し、ゆっくりと振り返った。
「……ごめん」
「え?」
紬が、きょとんと首を傾げる。
「俺には無理だ。この箱を動かす計算式が、俺には分からない。……君のお金を、無駄にした。すまない」
深く頭を下げる。
陰の実力者ムーブも、厨二病のハッタリも、すべてが剥がれ落ちた、ただの惨めな貧乏学生の謝罪だった。
軽蔑されるだろう。
怒られるかもしれない。
だが、これ以上彼女の金をドブに捨てる嘘はつけなかった。
静寂が下りる。
紬が何かを言いかけた、その時だった。
「――重心が完全に死んでる。あんな斜めハマり、起こし方を知らないなら触るべきじゃないわね」
凛とした、ひどく冷ややかで涼やかな声が、俺たちの背後から響いた。
驚いて顔を上げると、そこに一人の女性が立っていた。
文学部あたりのキャンパスで見かけるような、綺麗に手入れされた黒髪の女性。
だが、その瞳には一切の感情が宿っておらず、ただ筐体の中の『質量と配置』だけを、冷酷なマシーンのように見透かしていた。
「見てなさい。死んだ重心の、起こし方を教えてあげる」
彼女はそう言い放つと、俺の横をすり抜け、銀の弾丸を片手に筐体の前へと歩み出た。
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