3話 黄金を捧ぐ姫君(ミリオネア・ブラインド)
誤解なきよう言っておくが、俺は決してプライドを売り渡したわけではない。
これは熱力学に基づく、極めて真っ当な「エネルギーの等価交換」である。
俺の技術を提供し、見返りとして彼女の資本を搾取する。
冷徹なるビジネス契約が成立したに過ぎない。
「……で、標的はどこだ?」
俺が極力低く、かつ抑揚のない声で尋ねると、紬と名乗ったそのお嬢様はパァッと顔を輝かせた。
「あっちです! あっちの第三セクターに、私のお迎えを待っている推しが……!」
第三セクター、という大げさな響きに内心で首を傾げつつ、俺はエコバッグを提げたまま、彼女の背中についてゲーセンの奥へと進んだ。
道中、紬は自分がいかにそのキャラクターを愛しているか、そしてこのゲーセンの「設定」がいかに極悪非道であるかを熱弁し始めた。
「聞いてくださいよ、理人さん! 私、昨日からあの子を救出するために、すでに一万円の銀の弾丸を捧げているんです! なのに、あのアームときたら虚空を撫でるばかりで……!」
「……っ!?」
俺の足が、ピタリと止まった。
今、この女は何と言った?
いちまんえん?
脳内のスーパーコンピューターが瞬時に弾き出した計算結果に、俺はめまいを覚えた。
一万円。
それは特大カップ麺が約五十個買える金額であり、俺の生命を一ヶ月半維持できるだけの莫大な熱量に等しい。
それを、たかが数十分の無駄なクレーンゲームで溶かしただと……?
これが資本主義のバグか。
俺が百円玉一枚の摩擦係数に命を懸けている間に、この『黄金を捧ぐ姫君』は、湯水のように資産をドブに捨てている。
「どうかしましたか?」
「……いや。血の通わない暴虐な神への怒りで、少しめまいがしただけだ」
適当な厨二ゼリフで誤魔化すと、紬は「わかります! その怒り!」とウンウン頷いた。
ちょろい女だ。
やがて、彼女がある一台の筐体の前で立ち止まった。
「これです……! この祭壇に囚われているんです!」
紬が悲痛な面持ちで指差した先。
そこには、最新アニメのキャラクターが描かれた、長方形の化粧箱が置かれていた。
「なるほど」
俺は腕を組み、凄腕のプロゲーマーよろしく、鋭い視線で筐体の中を観察した。
……観察、したのだが。
(…………ん?)
俺の心拍数が、一気に跳ね上がった。
視線を右へ、左へ、そして上へと走らせる。
ない。
どこにも、ない。
俺の生命線である「S字フック」が、どこにも存在しないのだ。
あるのは、虚空に向けて口を開いたまま静止している二本の銀色の爪。
そして、下にあるはずのプラスチック網はなく、代わりに二本の太いポールが平行に渡され、その上にフィギュアの箱が横たわっている。
いわゆる『橋渡し設定』。
現代のクレーンゲームにおける、最もスタンダードかつ奥深い箱モノ設定の一つである。
だが、フック設定の食品台だけを親の仇のようにプレイしてきた俺にとっては、完全に未知のエイリアン・テクノロジーであった。
(な、なんだこの台は!?
フックがないぞ!?
引っ掛ける網もない!
なぜ箱が棒の上に乗っている!?
どうやって落とすんだ!?
まさか、この二本の軟弱な爪で直接あの質量を持ち上げろと言うのか!?
物理法則を無視する気か!?)
内心で大パニックを起こし、冷や汗が背中を伝う。
クレーンゲームの知識がゼロの俺にとって、それは「ルールすら分からない異種格闘技戦」のリングに放り込まれたに等しかった。
「理人さんなら……フックの揺れすら完全に制御する理人さんの『眼』なら、この極悪な配置の急所も見抜けるんですよね……?」
紬が、両手を胸の前で組み、キラキラと輝く純度百パーセントの尊敬の眼差しを向けてくる。
ここで「いや、俺フックしかできないから」と言えば、すべては終わる。
俺の威厳も、そして何より、約束された今月の食費も。
俺は数秒の沈黙ののち、ゆっくりと前髪をかき上げた。
「……ふん。他愛もない」
口から勝手に、生存のためのハッタリが飛び出していた。
「強固に見える不可視の結界も、所詮は二本のポールで支えられた不安定な均衡状態に過ぎない。俺の数式にはすでに、崩落へのルートが描かれている」
「きゃあああっ! かっこいい……ッ!!」
紬が歓喜の声を上げる。
後戻りは、完全に不可能となった。
俺は震えそうになる右手を必死に抑え込みながら、紬から渡された百円玉を投入口へと押し込んだ。
チャリン、という非情な音が、俺の処刑宣告のように響き渡った。
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