7 鉱山女王が土地を買う
ヴィヴィアン・ヴェイルの名がこの地方に届いたのは、夏の終わりだった。
最初に聞いた者は、誰もそれを本名だとは思わなかったらしい。鉱山女王。北の尾根で鉱脈を掘り当てた女。誰も見向きもしなかった谷から青鋼石を出し、干上がった土地の下から水脈を見つけ、三つの鉄道会社を相手に運賃を下げさせた女。
噂はいつも大げさだ。
だが、大げさな噂にも役に立つところはある。人は、金と成功を連れてくる者には勝手に道を開ける。
私はその道を使った。
「本当に、この一帯をすべて買われるのですか」
仲介人は、契約書を前にして何度も同じことを聞いた。
町で一番古い不動産商の三代目だという男で、父親の代からウォード家とも取引があるらしい。らしい、というより、本人がそう言った。こちらに信用されると思ったのだろう。
私は羽根ペンを置き、彼を見た。
「同じ質問は、三度目です」
「あ、いえ。失礼いたしました。ただ、ここは」
「ハートウェル家の旧邸跡地ですね」
男の喉が動いた。この土地で、その名は今でも妙な重みを持っている。
火事。行方不明。不正疑惑。消えた金庫。逃げた使用人。遠縁に預けられた令嬢。あるいは死んだ令嬢。
十五年も経てば、噂は形を変える。けれど、消えはしない。
「何か問題が?」
「いえ、ただ、あまり縁起のよろしい場所ではないと申しますか」
「縁起で鉱脈は動きませんわ」
「それは、まあ」
「私はこの土地の西側の尾根と、古い倉庫跡に興味があります。屋敷跡はついでです」
嘘ではない。西側の尾根には確かに可能性がある。父の魔導機械で拾った反応は弱いが、確かに埋もれているものがある。鉱石か、古い金属か、あるいは別の何か。
一方、屋敷跡がついでというのは、嘘だ。だがこういう嘘は相手に分かりやすくしておいた方がいい。
あまりにも怪しい理由を並べるより、金持ちの女が気まぐれに古い土地をまとめ買いする方が、まだ受け入れられるのだ。
仲介人は書類をめくる。
「ウォード家所有の区画も、すでに話はついております」
「早かったわね」
「はい。あちらも現在、事業の整理を進めておいででして」
事業の整理とは、ずいぶん穏やかな言葉だ。ウォード家は十五年前、私の家から奪った権利と信用を足場に大きくなった。
だが、大きくなることと、強くなることは同じではない。借りた金、無理に押さえた輸送路、名義だけで持っている鉱区、帳簿の外に出した事業。
父と私は十五年かけて、それを見ながら、魔導機械で鉱山を探して資金と名声を得てきた。そして外に出ることを控える父の代わりに表舞台に出る私はいつしか「鉱山女王」と呼ばれるようになった。
そんな私達は、満を持して今年、その資金を惜しみなく使い、ウォード家の所有する事業を一つずつ買い始めたのだ。
まず輸送業者。次に道具の納入元。それから小さな精錬所。帳簿をつけていた外部の事務所。荷馬車を出していた家。鉱夫たちに食事を出していた宿。
潰しはしない。そんなことをわざわざする必要はない。働く者は、そのまま働けばいい。ただ支払い先と契約先が変わっただけだ。
ウォード家の下で働くより、ヴェイル鉱業の方が賃金の支払いが早い。怪我をした時の見舞金も出る。古い道具を買い替える金も出る。
人は正義だけでは動かない。だが、毎月きちんと払われる賃金には、かなり素直に動くものだ。
「では、こちらへご署名を」
仲介人が契約書をこちらへ寄せる。私は名前を書いた。ヴィヴィアン・ヴェイル。
十五年前、左手で歪んで書いた名を、今は右手で書く。
掌の火傷は、もう痛まない。けれど、ペンを握ると時々、青い石の形が皮膚の下から浮かび上がるような気がする。
仲介人は私の署名を確認し、ほっとしたように息をついた。
「これで旧ハートウェル邸跡地と周辺の区画は、すべてヴェイル様の所有となります」
「ええ」
「ご利用の目的は、先ほどの通り、鉱脈および地質調査ということで」
「その通りです」
「屋敷跡の取り壊しは」
「しばらくそのままに」
彼は少し意外そうにした。
「危険かと存じますが」
「だから調べるのです」
私は書類を閉じた。
「古い地下室や、埋まった貯蔵庫があるかもしれない。掘削の前に、土地の中を見ておきたいのよ」
「なるほど」
男は納得したようにうなずいた。
分かりやすい理由を与えれば、人はそれ以上深く考えない。特に、その理由に金が絡む時は。
◇
ホテルへ戻ると、ロビーでヘンリー・ウォードが待っていた。
十五年ぶりに見た時より、少し痩せた。いや、痩せたというより、顔の肉が落ちたのだろう。服は上等だ。髪も整えている。けれど、襟元の硬さがどこか彼に合っていない。
彼は私を見るなり、立ち上がった。
「ヴィヴィアン嬢!」
近くにいた客がこちらを見る。私は足を止めた。
「あら、ウォード様」
「少し、お話を」
「ご用件は」
「ここでは」
「ここで言えない話なら、代理人を通してください」
ヘンリーは唇を引き結んだ。
昔から、彼は思い通りにならないと一度黙る。次に、相手が折れるのを待つ。子供の頃の私は、そこで困って笑った。母に言わせると、私は小さい頃から相手の機嫌を読む子だったらしい。
今は読めても、合わせるつもりがない。
「旧ハートウェル邸跡地を買ったと聞きました」
「ずいぶん早い耳ですこと」
「あそこは」
彼は言いかけて、少し声を落とした。
「曰くのある土地です」
「皆さま、同じことをおっしゃるのね」
「茶化しているのではありません。あそこでは、昔」
「火事があった」
私が先に言うと、ヘンリーは目を伏せた。
うまい伏せ方だ。少し悲しそうに見える。あるいは、本人は本当に悲しいのかもしれない。
十五年前、彼は何を知っていたのか? まだ私は断定しない。
「ええ。火事がありましたわね」
「ご存じなら、なぜ」
「地質に興味がありますので」
「それだけですか」
「それ以外に、何があると?」
ヘンリーは私を見た。探っている。
初めて―― いや、私からすれば再会した時から、そうだった。彼の私を見る目は、ただの女を見る目ではなかった。どこかで見たような。何かを思い出しそうな。もどかしそうな。
けれど、思い出したくないものに触れかけて、結局は手を引くような。
「あなたは、あの家のことを妙に知っているんですね」
「この土地に来るなら、誰でも聞く話でしょう? 下調べの一つもしないでどうして?」
「だが、あなたは」
「ヘンリー?」
横から声がした。彼の奥方だ。
薄い青の外出着に、同じ色の帽子。派手ではないが、よく似合っている。彼女は私とヘンリーの間に立つのではなく、少し斜め後ろで足を止める。
夫の袖を引くことはしない。声も荒げない。
ただ、こちらを見るだけだ。
「こちらが、ヴェイル様?」
私は軽く会釈し、彼女に微笑みかける。
「ヴィヴィアン・ヴェイルです」
「ロレッタ・ウォードです。夫が失礼を」
「いえ」
ロレッタはヘンリーを見た。
「お約束の時間があるのよ」
「分かっている」
「では」
短い会話だった。だが、その短さで十分だった。夫婦の間がすでに何か、こわばり始めている。
ヘンリーは私に話したがっている。ロレッタはそれを見ている。見て、飲み込んでいる。私は知っている。あれは物事を何度も飲み込んできた人の持つ表情だった。
私は彼女の顔を覚えることにした。
「ウォード夫人」
呼びかけると、ロレッタはこちらを向いた。
「はい」
「このホテルの紅茶は、東側の小部屋のものが一番まともだと思いますの。待ち時間がおありなら、そちらを」
ロレッタは少しだけ瞬きをした。
ヘンリーもこちらを見る。なぜそんなことを言うのか、と言いたげだった。
私にも、はっきりした理由はない。ただ、あの部屋の紅茶は本当に少しましだった。それだけだ。
「ありがとうございます」
ロレッタは丁寧に礼をした。ヘンリーは何か言いたそうだったが、結局言わずに彼女と歩き出した。
その背中を見送ってから、私は階段へ向かった。
◇
二階の部屋には、父からの通信が入っていた。
机の上の通信盤に、小さな青い灯りが点いている。私は扉に鍵をかけ、手袋を外して硝子球に触れた。
『土地は買えたか?』
「ええ。予定より安く」
『ウォード家が焦っている』
「焦っているから売ったのでしょう」
『旧邸の地下反応が強くなっている』
私は手を止めた。
「強く?」
『昨日よりはっきりした。金属だけではない。空洞がある。複数だ』
「地下室では?」
『地下室なら、図面に残るはずだ』
「残らない部屋もあります」
『だから、掘るんだ』
父の声は短い。十五年経っても、そこはあまり変わらない。私はその短さに腹を立てることも、黙って受け取ることも覚えた。
「明日、調査隊を入れるの。表向きは地質調査で」
『ウォード家が見に来る』
「来ればいいわ」
『ヘンリー・ウォードには?』
「会ったわ」
『何か言ったか』
「旧ハートウェル邸は曰くのある土地だと」
通信盤の向こうで、父が小さく息を吐いた。
『どの口で、だな』
「ええ」
私もそう思う。ただし、それはまだ口にしない。
ヘンリーが何を知っていたのか。ウォード家の上の者たちが何を隠したのか。エレノーラが母の字を真似たのか。アーネストが倉庫を開けたのか。セドリックがどこまで命じたのか。
答えは、長年書き溜めた紙の中だけにも、すでにある。
だが決定的にするには、紙だけでは足りない。土地の下にあるものが必要だ。
「明日、掘らせます」
『ああ』
「父さん」
そう呼ぶと、通信の向こうが少しだけ黙った。
昔は呼べなかった。呼ぶまでに、本当に長くかかった。
「もし、見つかったら」
『私も行く』
「まだ何も言っていません」
『分かる』
少し腹が立つ。けれど、今はその答えでよかった。
「では、明日」
『無理はするな』
「今さらです」
『十五年経っても、無理は無理だ』
通信が切れる。私はしばらく硝子球に手を置いたままにした。
窓の外では、夕方の町が赤くなり始めている。あの夜の火とは違う赤だ。こちらは、ただ日が沈むだけの色。
それでも、右の掌が少しだけ熱を持った。
◇
翌朝、旧ハートウェル邸跡地に、ヴェイル鉱業の調査隊が入った。
町の人間は遠巻きに見ていた。古い屋敷跡に、測量機、掘削機、黒い箱型の探査器具が並ぶ。父が作った機械を、私の部下たちは扱える。
完璧ではない。時々うなり、時々止まり、ひどい時には煙を吐く。
それでもその機械たちは見つける。人が見なかったものを、暴いてしまうのだ。
「ヴィヴィアン様! 反応がありました!」
技師の一人が私を呼んだ。場所は、西側倉庫跡の裏手だった。
十五年前、ヘンリーと雨宿りした倉庫。トマスが鍵を持っていた倉庫。アーネストが火災後に開けた倉庫。
その奥の、崩れた石垣の下。
「鉱脈ではありません」
技師が声を落とした。
「空洞と、金属反応。それから…… 何か、有機物に近い反応が」
周囲の音が、少し遠くなる。私は手袋をはめ直した。
「掘ってちょうだい」
「しかし」
「掘って」
技師は黙ってうなずく。
遠くで馬車が止まる音がした。振り向くと、ウォード家の馬車が見えた。降りてきたのはアーネスト・ウォードだった。十五年前より腹が出て、髪も少し薄くなっている。けれど、手は相変わらず大きい。
その後ろに、ヘンリーもいた。
私は二人を見た。アーネストは、掘削場所を見て足を止め、ヘンリーは、その兄の横顔を見た。
いい反応だ。私は視線を戻す。
地面に鍬が入る。石がどけられる。古い土が、少しずつ開いていく。
十五年前、嘘の方が先に町を走った。
だから私は追った。紙を追い、金を追い、人の名を追い、土地を買い、ここへ戻った。
今度は、土の方が口を開く番だった。




