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死んだはずの令嬢は鉱山女王となって戻る〜奪われたもの、消された名前を取り戻すために〜  作者: さんけい


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6 15年前 ヴィヴィアンという仮の名

「旦那様、出ました」

「何が」

「委任状です」


 その声にエイドリアンは手を止める。私は顔を上げた。

 マルクは鞄から封筒を取り出した。何枚もの紙を入れているらしく、封筒の角が膨らんでいる。


「写しですが、銀行へ出されたものを取ってきました。手数料が高かったです」

「後で払う」

「先に払いました。旦那様の名を出すと、向こうが急に黙りました」

「それは悪かったな」

「いつものことです」


 マルクは少し肩をすくめた。いつものこと。エイドリアン・ヴェイルという名は、やはり普通の名前ではないらしい。

 けれど、今はそれどころではなかった。


「委任状とは、何ですか」


 私は尋ねた。エイドリアンは封筒から紙を出し、机に広げる。


「本人が、自分の権利の扱いを他人に任せるための書類だ」

「誰の」

「君の」


 思わず私は椅子から立ち上がった。膝が少し痛んだが、今度は座り直さなかった。


「私の?」

「ああ」

「私は何も書いていません!」

「だから写しを取らせた」


 エイドリアンは紙の下の方を指す。そこにはこうあった。

 クレア・ハートウェル。

 私の名。


「これは―― これ以上、君を火事場に置いておく時間はないな」

「……私はここにいます」

「そういう意味ではない。君の心はずっとあの夜の中のままだ」


 言い返そうとして、できなかった。

 あれから、右手の包帯は替えるたびに血と薬のにおいがした。左手の指には鉛筆の黒が残った。寝れば燃える家の夢を見る。起きれば新聞と帳簿と偽の書類が待っている。

 確かに、私の心はまだあの日の廊下にいる。けれど、ウォード家の方は止まらなかった。

 火災から七日目には、ハートウェル家の西側倉庫が開けられた。九日目には、祖父の取引先の一つがウォード家へ支払い先を変えた。

 そして十日目には、私の名で出された委任状が銀行だけでなく、鉱区管理局にも届いていた、と。

 どうやら、私の知らない私は、ずいぶん忙しいらしい。


「……体調不良で遠縁に預けられているはずの私が、なぜそんなに次々と署名できるのでしょう?」

「向こうは、誰もそこを聞かないように金を払っている」

「金で口は閉じるのですか」

「閉じる口もある」

「それじゃ、開けるには?」

「もっと強いものを持っていく」

「……金ですか」

「金、証拠、恐怖。相手による」


 嫌な授業だ。だが、役に立つ。


 ◇


 この頃、エイドリアンの工房には、普通の学校にはないものがいくつもあった。紙の上の筆圧を見る黒い板。インクに混ぜられた鉱物の違いを拾う小さな針。通信線へ割り込む硝子球。古い鍵穴の削れ方から、使われた鍵の癖を読む器具。

 最初は魔術の道具だと思った。


「《《魔導》》機械だ。《《魔術》》ではない」

「光ります」

「光る機械もある」

「歌うような音もします」

「鳴る機械もある」

「噛む管も」

「あれは直す」


 そういう人だ。

 説明が足りない。謝る時も短い。父だと名乗ったくせに、父らしいことはほとんどしない。

 けれど、私の書いた紙は一枚も捨てなかった。

 ヘンリーの御者の頬の傷も、アーネストの大きな手も、エレノーラ夫人の香水も、母の字に似た署名の癖も、全部別の紙へ写し、さらに細いピンで壁の地図へ留めた。

 糸は日に日に増えた。

 ハートウェル家からウォード家へ。ウォード家から銀行へ。銀行から法務士へ。法務士から新聞社へ。新聞社から鉱区管理局へ。

 母と祖父を汚す嘘は、きちんと道を持っていたのだ。そして私の仕事は、その道を覚えることだった。


「エレノーラ・ウォードは、母の字を知っています」


 ある朝、私はそう言った。


「根拠は」

「母と手紙を交わしていました。それから、私の誕生日に母が招待状を書いた時、エレノーラ夫人が横から見て、字が優しいと言いました」

「名前の偽造の証明には、それだけでは弱い」

「分かっています」


 私は紙を出した。母が以前、エレノーラ夫人へ出した招待状の写し。

 ハートウェル家の古い文箱から持ち出される前に、祖父が控えを残していたものだ。マルクが、祖父の古い会計士から手に入れてきた。

 その文字と、偽の委任状の署名。

 同じではない。けれど、丸めるところが似ていた。


「母の字を真似ようとしているのに、母そのものではありません。私の字でもありません。母の字を知っている人が、母に似せて私の名を書いたのだと思います」


 エイドリアンは黒い板に二枚の紙を載せた。

 光が走り、細い針が揺れる。


「真似たな」

「エレノーラ夫人が、ですか?」

「まだ言い切れない」

「では、言い切れるようにしてください」

「君もやるんだ」

「はい」


 返事はすぐに出た。

 その頃にはもう、私は泣きながら新聞を読むことはなくなっていた。泣くのは、紙を書き終わった後に回すようになっただけだ。

 夜、寝台へ入る前だけ。声は出さない。出すとハンナが来るからだ。

 ハンナは悪くない。けれど、泣いているところへ湯を持ってこられると、私は礼を言わなければならなくなる。礼を言える自分が、また嫌になる。だから声は出さなかった。

 そして枕元には、毎晩エイドリアンの紙が置かれた。


『明日、ウォード家に来ていた法務士の顔を思い出す』

『明日、君の母親の文箱に入っていた手紙の相手を書く』

『明日、西側倉庫に置かれていた鉱石箱の札を思い出す』


 眠らせる気があるのかないのか分からない。

 けれど、明日やることがあると、夜は少し短くなった。


 ◇


 火災から二週間が過ぎた頃、ウォード家は私を死んだことにも、生きていることにもできずにいた。

 新聞では、私はまだ療養中だった。銀行では、私は委任状を出していた。町の噂では、私は火事に巻き込まれたことになっていた。

 三人もいる。


「便利ですね、クレア・ハートウェルという娘は」


 私がそう言うと、ハンナは包帯を巻く手を止めた。


「便利に使われているだけです」

「同じです」

「違います」


 ハンナはきっぱり言った。


「使う者が悪いのです」


 私は右手を見る。青い石の形に近い火傷は、まだ赤かった。

 痕は残るとハンナは言った。残って構わないと私は答えた。それはずっと変わらない。忘れるよりましだ。


 ◇


 その日の夕方、エイドリアンは机の上を片づけた。

 地図、新聞、偽の委任状の写し、ウォード家の帳面。すべてを箱へ入れ、鍵をかけた。


「終わりですか」

「始まりだ」

「では、なぜ片づけるのですか」

「ここからは長くなる。今日明日で取り返せる話ではない」


 私は黙った。

 分かっていた。分かっていたが、誰かの口から聞きたくはなかった。


「どのくらいですか」

「年単位だ」

「そんなに」

「相手は家と事業を動かしている。こちらは、君一人を隠しながら証拠を拾っている。急げば負ける」

「負けたくありません」

「なら、急ぐな」


 エイドリアンはそう言って、別の紙を出す。そこには文字ではなく、名前の候補がいくつか並んでいた。


「何ですか」

「仮の名だ。この家の中だけではなく、外へ出る時にも必要になる」

「もう決めました」

「本当に使うのか」


 私は紙を見なかった。


「ヴィヴィアン」


 自分の名として声に出すと、違和感はある。けれど、今の私にはクレアよりは遠くへ行けるような気がした。


「なぜその名に?」

「母が昔読んでくれた本にありました。どんな人だったかは覚えていません」

「それでいいのか」

「覚えていないぐらいの方がいいです」


 私は首から下げた指輪を握った。


「誰かに似せるための名ではありませんから」


 エイドリアンはしばらく黙ると、やがて、候補の紙を折って捨てた。


「では、外ではヴィヴィアン・ヴェイルだ」

「ヴェイル」

「私の名だ。不都合か」

「いいえ」


 不思議と、嫌ではなかった。

 父と呼ぶにはまだ早い。許すにはもっと早い。それでも、ウォード家から私を隠すための名としては悪くない。


「ただし、クレアを捨てる訳ではありません」

「分かっている」

「本当に?」

「君は何度も言った。しまっておくだけだと」


 エイドリアンは少し疲れた声で答えた。

 私は初めて、ほんの少しだけ口元を動かす。笑ったのではない。たぶん、また呆れたのだ。


 ◇


 その夜、ハンナが私を新しい部屋へ案内した。

 窓の小さな部屋ではなく、机のある部屋だった。棚には空の帳面が三冊、鉛筆が六本、インク壺が一つ。壁には小さな地図。寝台の横には、母の指輪を入れるための箱が置いてあった。


「旦那様からです」

「指輪は入れません」

「そうおっしゃると思いました」


 ハンナは少しも驚かなかった。

 私は指輪を首にかけたまま、机の前に座った。新しい帳面を開く。最初の頁に、左手で名前を書いた。


 ――ヴィヴィアン・ヴェイル。


 字はまだ歪んでいた。そして次の行に、もう一つ書く。


 ――クレア・ハートウェル。


 こちらは、もっと歪んだ。

 私は二つの名をしばらく見ていた。

 この先、どちらの名で戻るのか。その時の私は知らなかった。

 ただ、その夜から、私はクレアという自分をしまい、ヴィヴィアンという仮の名で新たなページを開いた。

 母と祖父と、逃げたことにされた使用人たちの名を戻すために。

 そして、私の名で動いたすべての書類を、いつか一枚ずつ引き裂くために。

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