5 15年前 クレア・ハートウェルを消す
左手で文字を書くのは、思ったより難しかった。
名前だけならまだいい。けれど顔の特徴、声、癖、いつどこで見たか、誰と話していたか。そういうものを続けて書こうとすると、鉛筆の先が紙の上を滑る前に、頭の中の記憶が先に逃げていく。
ヘンリー・ウォード。
最初に書いたその名だけが、紙の上で妙に大きかった。
幼馴染。婚約者になるはずだった人。庭で四つ葉を探した人。私をクローバー姫と笑った人。
その家の御者が、うちの廊下で刃物を持っていた。
その一文を書こうとして、手が止まった。鉛筆の芯が紙に刺さり、小さく折れる。
「折れたか」
机の向こうで、エイドリアンが言った。
「替えはあります」
「無理にきれいに書くな。読めればいい」
そんなことは分かっている。分かっているが、きれいに書けないことすら今は腹立たしい。
私は折れた芯を拾おうとした。右手を動かしかけて痛みに止まる。結局、左手でつまむ羽目になった。
エイドリアンは手を出さなかった。
それもまた、今はありがたかった。手伝われたら、私はまた噛みつく。
「続けます」
鉛筆を替え、もう一度紙へ向かう。
御者。名は不明。
左頬に傷。右耳の上が少し欠けている。馬車を止める時、手綱を二度短く引く癖。ヘンリーが十歳の頃からウォード家にいた。
そこまで書いて、ようやく息をつく。
覚えている。私は覚えている。
何もできなかった訳ではない。何も知らなかっただけだ。知らなくても、見ていたものはある。
「次は」
エイドリアンが短く促した。
「ウォード家の兄です。アーネスト・ウォード」
「顔は」
「面長で、金色に近い髪。ヘンリーより背が高くて……手が大きいです」
「手」
「昔、頭を撫でられました」
私は鉛筆を握り直した。
「嫌でした」
エイドリアンは何も言わない。それでいい。私が何を嫌だったと言っているのか、説明しなくて済む。
アーネスト・ウォード。
跡取り。
私の頭に勝手に手を置いた人。祖父とは仕事の話をしていた。笑う時に歯を見せない。ヘンリーより、ずっと大人のふりをする。
書きながら、何度も鉛筆を持ち直した。
机の上には、私の書いた紙が増えていく。
ウォード家の当主、セドリック・ウォード。
よく祖父と話していた。声が大きい。笑う時に、相手の肩を叩く。母は一度だけ、その後に肩を押さえていた。
ウォード夫人。名前はエレノーラ。
香水が強い。私に会うたび、母に似てきたと言った。その言い方が、母はあまり好きではなかったと思う。
ヘンリーの友人。ウォード家の帳簿係。時々来る鉱石商。祖父の取引相手。母の裁縫部屋へ布を持ってきた商人。厨房へ出入りしていた粉屋。庭師の弟。トマスの甥。
名が出ない人は、顔を描いた。描いたと言っても、まともな絵ではない。左頬に傷、帽子の形、髭、歩き方。言葉にできるものを、端から書く。
◇
昼が過ぎて、ハンナが部屋に入ってきて、皿を置いた。パンと、薄切りの肉と、煮た豆。食べろと言われたから食べた。
味は分からなかった。でも、食べた。食べなければ、書けなくなる。
折を見て、ハンナは私の右手の布を替えた。
「痕は残るかもしれません」
彼女はそう言った。右の掌を見る。青い石の形に近い、丸く歪んだ火傷。母が私へ押し込んだ指輪の痕。
「残って構いません」
「痛みますよ」
「忘れるよりましです」
ハンナは包帯を巻く手を一度止め、それから、少しだけきつく結んだ。
「痛かったら言ってください」
「はい」
返事をした後で、私は自分でも驚いた。普通に返せた。
それだけのことなのに、胸の奥がざらつく。母にも祖父にも、もう返事はできない。トマスにもできない。けれど、私はここで水を飲み、パンを食べ、包帯を巻かれている。
生きている。どうしようもなく、生きている。
◇
ハンナが出て行くと、エイドリアンは机の下から厚い帳面を出した。
「何ですか」
「ウォード家について集められるだけ集めたものだ。まだ少ない」
「いつの間に」
「君が寝ている間に、少し」
少し。
その言い方に、私は帳面を見た。少しと言うには、紙の量が多い。
「ウォード家は、近年大きく伸びている。だが元の地盤は弱い。鉱区の権利も輸送路も、借り物が多い」
「有望な家だと、祖父は言っていました」
「有望ではあったのだろう」
「では、どうして」
言いかけて、やめた。
――どうして。
その問いを、もう何度口にしただろう。
どうして父は死んだことになっていたのか。どうして母は戻らなかったのか。どうしてウォード家の御者がいたのか。どうして新聞は、祖父と母を汚す言葉を書いたのか。
それだけで夜が明ける。けれど、答えは出ない。
エイドリアンは帳面をめくる。
「ウォード家が最近、表に出していない事業で大きな損を出したという話がある」
「表に出していない事業」
「言い換えれば、表へ出せない事業だ」
「悪いことですか」
「少なくとも、堂々と言えるものではない」
エイドリアンは一枚の紙を私の方へ向ける。数字が並んでいる。
見慣れた帳簿とは違う。けれど、金額の大きさだけは分かった。
「これだけ要るなら、ハートウェル家の金庫だけでは足りない。権利、契約、信用。全部まとめて奪うつもりだろう」
「うちは、そんなに」
「君の祖父は堅実に仕事をしていた。堅実な家ほど、外から見ると旨みがある」
旨み。言い得て妙だ。要するに、私たちは、食われたのだ。
祖父が積み上げた帳簿も、母が守った家も、使用人たちの日々も、全部。
「ウォード家は、私をどうするつもりだったのでしょう」
尋ねると、エイドリアンの指が止まった。
「君を?」
「私はヘンリーと婚約するはずでした。正式な書類はまだでも、周囲は皆そう扱っていました。もし私が死んでいたら、婚約はなくなります。けれど、私は親戚に預けられていることになっているのでしょう」
言っているうちに、自分で気づいた。
「私を、いずれどこかで使うつもりだったのでしょうか」
部屋の中で、何かの機械が一度だけ低くうなる。エイドリアンは机の端を指で叩く。
「可能性はある」
「どう使うのですか」
「戻ってきたことにして、都合のいい書類に署名させる。あるいは、君の名で別の誰かを立てる。君が生きていることにすれば、ハートウェル家の権利を外から正当に動かせる」
「偽物を」
「そうだ」
吐き気がした。
死んだことにする。逃げたことにする。親戚へ預けたことにする。それでも足りなければ、戻ってきたことにする。
私は、私でなくてもよいのだ。あの人たちにとっては。
「なら、私は今すぐ戻るべきでは」
「戻れば本物が邪魔になる」
「……殺される、ということですか」
「たぶん」
たぶん、と彼は言う。曖昧なのに、曖昧ではない声だった。
怖い。
火事の中に戻りたい訳ではない。刃物を持った男の前へ出たい訳でもない。殺されたい訳がない。
それでも、戻らなければ、母と祖父は泥棒にされる。トマスたちは逃げたことにされる。私の名まで、好きに使われる。
「……では、どうすればいいと?」
エイドリアンはしばらく黙っていた。
机の上の紙。新聞。私が左手で書いた名。ウォード家についての帳面。
それらにざっと目を通すと、彼は言った。
「クレア・ハートウェルという存在をしばらく消す」
私は息を止めた。
「……何を」
「表向きには、君は見つからないままでいい。死んだとも、生きているとも、こちらからは言わない。ウォード家が勝手に作った話を、今は走らせておく」
「そんな」
「その代わり、こちらは裏から追う。誰が書類を持ち出したか。誰が金庫を開けたか。誰が新聞へ嘘を入れたか。誰が使用人たちの行方を隠したか」
エイドリアンの声は低かった。
「君の名を守るには、今の君では足りない」
「それは、私が子供だからですか」
「ああ」
即答だ。腹が立つ。けれど、反論できない。
私は十三歳だ。火傷した右手に包帯を巻かれ、左手で鉛筆を握っている。
それが今の私だ。
「君は子供だ。今出れば、大人たちに潰される。だが、子供でいる時間は終わった」
「勝手に終わらせないでください」
「私ではない。ウォード家が終わらせた」
その通りだった。
私はうつむく。膝の上で左手が震える。右手はまだ、包帯の中で痛み続けている。
「クレア・ハートウェルを消すというのなら」
声が少しかすれた。
「この私は、誰になるのですか」
「今はそれを決めなくていい」
「でも、今の私ではいられないのでしょう」
「ああ」
「では、決めなければ」
エイドリアンが私を見た。
「名前は、ただの単語ではありません。おじい様が呼んでくれた、お母様が愛してくれた、トマスも、うちの料理人のエルシーも、庭師のビルも、みんなが口にしてくれた」
言いながら、一人ずつ顔が浮かんだ。
料理人のエルシー。丸い腕で、熱い鍋を軽々持った。
庭師のビル。祖父より腰が曲がっているのに、花壇の手入れだけは誰にも譲らなかった。
トマス。白髪を撫でつけて、毎朝必ず玄関の鈴を磨いた。
彼らは、逃げたことにされている。
私は紙を見た。まだ書いていない名がある。たくさんある。
「消してしまうなら、消したことを忘れない名にします」
「どういう意味だ」
「まだ分かりません」
私は首から下げた指輪を握った。
「でも、クレアを捨てるのではありません。しまっておくだけです。いつか出すために。おじい様とお母様と、みんなの名を戻すために」
エイドリアンは何も言わず、机の上に新しい紙を一枚置いた。
「なら、そのために覚えろ」
「何を」
「字をきれいに書く方法ではない。帳簿を見る方法だ。金の流れは、嘘をつく人間よりよほど正直なことがある」
私は紙を見る。数字が並んでいた。日付。金額。名前。場所。
祖父が好きだった、そして最も信じていたものだ。
「今日から、君は二つのことをする」
エイドリアンは言った。
「ひとつは、覚えているものを全て書くこと。もうひとつは、他人の嘘を帳簿から読むことだ」
「はい」
返事はすぐ出た。
父と呼ぶ気にはまだなれない。許すなど、もっと先だ。それでも、その時の私は、この男の言葉に従った。
クレア・ハートウェルは、しばらく消える。死んだふりをして、見て、覚えて、待つ。
奪われた名前で、もう一度この世界に戻るために。




