3 15年前 魔導機械師の家
眠ったつもりはなかった。
目を閉じたら燃える家に戻る気がして、私はずっと天井を見ていたはずだった。
太い管。赤い小さな灯り。吊るされた鎖。歯車が噛み合う音。
それをひとつずつ数えていたはずなのに、次に気づいた時、私は長椅子ではなく寝台の上にいた。
知らない部屋だった。壁は白くない。石でも木でもない、薄い灰色の板で覆われている。窓には分厚い硝子がはめ込まれていて、外の光は弱い。
どこか遠くで水の流れる音がした。川ではない。管の中を巡る水だと、後で知った。
手を動かそうとして、右の掌が痛んだ。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
右手には布が巻かれていた。指は動く。けれど掌の中心だけが、熱い石を押し当てられた後のようにじくじく痛む。
……指輪。
慌てて身を起こすと、胸元に硬いものが当たった。細い鎖に通され、母の指輪が私の首から下がっている。
離していない。いや、誰かがそうしてくれたのだ。
私はそれを握った。もう熱くはない。青い石は既に熱を失っていた。
やがて扉が開く。昨日の男が立っていた。
いや、昨日なのかどうかも分からない。少なくとも、火事の夜から一日は経っていないように思えた。体の中にまだ煙が残っている。
男は盆を持っていた。器が二つ。湯気の立つスープと、薄く切ったパン。薬の瓶もある。
「起きたか」
「……ここは、どこですか」
思った以上に声はひどい。喉の奥に砂が詰まっているようだった。
「私の家だ。家というより、工房だが」
男は盆を寝台の横の小卓に置く。
「飲めるなら、先に水を飲んだ方がいい」
差し出された杯を見た。受け取らないでいると、男はそれ以上近づかない。小卓に置くだけにした。
「毒ではない」
「毒だと思った訳ではありません」
「そうか」
短い返事に私は杯を取った。指先が震えていた。
悔しい。そんな場合ではないのに、悔しいと思った。
水はぬるかった。けれど喉にはありがたかった。飲み込むたびにひりついたが、煙の味は少し薄れた。
「君の名を聞いていなかった」
男が言う。今さらか、と思った。そのくせ、答えない訳にもいかない。
「クレア」
「クレア……?」
「クレア・ハートウェルです」
男の手が止まった。薬瓶の栓を開けようとしていた指が、瓶の首を押さえたまま動かない。
「ハートウェル」
「はい」
私が名乗ると、男は目を伏せた。長い時間ではない。けれど、その短い間に何かを飲み込んだのは分かった。
「……そうか、やはりマリアの娘なんだな」
「母を、呼び捨てにしないでください」
自分でも驚くほど尖った声が出た。男は瓶を置く。
「すまない」
「謝るくらいなら、答えてください」
「何を」
「何を、ではありません」
布団を握った。起き上がるだけで背中が痛い。どこで打ったのか、肩も膝もひりひりする。けれど、座ってなどいられなかった。
「貴方は誰ですか」
改めて私は問う。彼は素っ気なく答える。
「エイドリアン」
「それだけでは分かりません」
「エイドリアン・ヴェイル」
その名に聞き覚えはなかった。母からも、祖父からも、一度も聞いたことがない。
父の名を聞いたことは、そもそもなかった。父は死んだ。そう聞かされて育った。名を聞くことすら、母を傷つけるような気がしていた。
だから重ねて問う。
「貴方は、母の何ですか」
エイドリアンはすぐには答えない。その間が嫌だった。
昨日もそうだった。この人はすぐには答えない。考える。選ぶ。どんな言葉が適切なのかを。
だけど私は今、そんな風に測られたくなかった。
「答えてください」
「マリアの夫、君の父だ」
――ああ、やはり。
部屋の中の音が、一度遠くなる。水の流れる音。管の中の音。壁の向こうで歯車が動く音。全部、遠い。
私は手元の指輪を握った。鎖が首の後ろに食い込む。
「……嘘です」
「嘘ならどれほどよかったかと思う」
「そんな言い方をしないで……!」
胸の奥から、何かがこみ上げてきた。
泣きたかったのか、怒りたかったのか、自分でも分からない。たぶん両方だ。
「父は死んだと聞きました」
「ああ」
「ああ、ではありません。お母様もおじい様も、そう言ったんです。私はずっと、父はいないものだと思って」
「そう言わせたのは、私だ」
私は息を止めた。
エイドリアンは椅子に座らない。逃げないと言った通り、扉の方へは動かない。立ったまま、こちらをじっと見ている。
「マリアと離れた時、私はもう表の名を使えない身だった。私の作る魔導機械に目をつけた連中がいた。欲しがる者も、消したがる者もいた。……マリアを巻き込みたくなかった」
「巻き込みたくなかった?」
その言葉だけが、耳の中で引っかかった。
「巻き込みたくなかったから、置いて行ったんですか」
「置いて行ったつもりはない」
「結果は同じです」
右手が痛む。痛いのに、指輪から手を離せない。
「母は一人で私を産んで、おじい様とおばあ様と遠くへ移って、父は死んだと言って、ずっと暮らしてきました。おばあ様は心労で亡くなったと聞いています。おじい様も、母も、それでも私にはよくしてくれました。何も足りないと思わせないようにしてくれました」
言葉が早くなる。喉が痛い。それでも止まらない。
「だから、父は死んだんです。死んだ人なんです。私の中では、ずっと」
エイドリアンの喉が動く。何か言おうとしたのかもしれない。
だから私は先に言った。
「貴方が生きていたなら、お母様は嘘をついていたことになります。おじい様も。私を守るためだったとしても、私は何も知らなかった。そして、何も知らないまま、全部奪われました」
そこで、トマスの背中が頭に浮かんだ。祖父の杖。母の血。
胃がひっくり返りそうになる。私は口元を押さえた。
エイドリアンが手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「吐くならそこに」
「平気です」
「平気ではない」
「平気です」
どう考えても平気ではなかった。でも、ここで折れたら負ける気がした。
誰に対してかは分からない。目の前の父か。死んだことにされていた父か。何もできなかった自分か。
私はスープの器を見た。あの光景を思い出すと、吐き気を催すのに、なのに、匂いだけで腹が鳴りそうだった。昨夜から何も食べていない。それも腹立たしい。
家が燃えて、母と祖父が倒れて、私は見知らぬ場所にいる。なのに体は水を欲しがり、食べ物を欲しがる。
生きているというのは、ずいぶん図々しい。
「君の母は」
エイドリアンが言いかけた。
「今は聞きたくありません」
私は遮る。彼は口を閉じた。
そこで怒らないのが、また腹立たしい。怒ってくれた方がまだよかった。こちらも怒れるから。
「分かった」
「分かっていないと思います」
「そうだな」
その返事も癪に障った。
正しい。たぶん正しい。でも今は、正しさが欲しい訳ではない。
……ふと、扉の向こうから、軽い足音が近づいてくる。こんこん、と二度叩かれる。
「旦那様。《《通信》》が入っております」
「誰からだ」
エイドリアンの声が少し変わった。さっきまでの低い声より、仕事の声に近い。
「町の新聞社からです。ハートウェル家の火災について号外が出たと」
「ここへ」
「はい」
私の背中が固まった。
《《ハートウェル家の火災》》。
その言葉はおかしい。火災ではない。襲撃だ。
トマスは刺された。祖父は倒れていた。母は血を流していた。ヘンリーの家の御者がいた。火災、ではない。
扉が開き、年配の女が一枚の紙を持って入ってくる。灰色の髪を後ろでひとつにまとめ、袖口には糸くずがついている。使用人というより、工房の管理をしている人に見えた。
彼女は私を見ると一瞬だけ足を止めたが、何も聞かなかった。
「こちらです」
エイドリアンは紙を受け取り、目を走らせる。
眉間に一本、深い線が入る。
「読んで」
私は言う。声は震えていた。それでも言った。
「クレア」
「読んでください」
エイドリアンは紙を折りかけ、やめた。それから、ゆっくり読み上げる。
「昨夜未明、ハートウェル家本宅にて大規模な火災が発生。家主であるオーガスト・ハートウェル氏とその娘マリア、使用人複数名が行方不明」
――行方不明。
私は布団を握った。
「火災後、屋敷内の金庫および重要書類の一部が持ち出された形跡があり、当局は家人による不正取引の隠蔽、または資産持ち出しの可能性も視野に――」
「やめて!」
声が勝手に出た。エイドリアンは読むのを止めた。
使用人の女は小さく息を呑む。
「不正取引?」
「まだ号外だ。事実とは限らない」
「金庫を持ち出した? おじい様が? お母様が?」
「クレア」
「そんな訳がない」
右手の痛みが強くなる。指輪を握りすぎているのだと分かっていたが、力を抜けなかった。
「そんな訳がない。おじい様は仕事の帳簿に一つ数字が合わないだけで、夜まで調べる人でした。お母様は使用人の給金が遅れたら、自分の装身具を売ってでも払う人でした。そんな人たちが、何を持ち出すと言うんですか」
エイドリアンは答えなかった。答えられないのだろう。
「《《火事にしたんですね》》」
私はそう口にする。その声はまるで自分のものではないようだった。
「火事にして、持ち出しにして、不正にして。おじい様とお母様が悪いことをしたみたいに」
部屋の隅で、歯車が規則正しく回っている。こんな時でも、機械は止まらない。
「誰が」
私はエイドリアンを見た。
「誰がそんなことを」
「調べる」
「今すぐ?」
「ああ」
「……ヘンリーの家の御者がいました」
エイドリアンの目がこちらへ戻る。
「見ました。あの時。いたんです」
「ウォード家か」
「ヘンリーの家です。名前までは知りません。でも顔は覚えています。何度も見ました。ヘンリーが来る時に馬車を動かしていた男です」
言った途端、口の中が苦くなった。
ヘンリー。彼本人がいた訳ではない。彼が刃物を持っていた訳でもない。
けれど彼の家の者がいた。私の知っている人の家が、母と祖父の家を襲った。
その事実が、胸の中で形を持ち始める。まだ熱い。まだ柔らかい。触れば手にくっつくぐらいの。
けれど、確かにそこにある。
「旦那様」
年配の女が低い声で言った。
「手配を」
「分かっている」
エイドリアンは紙を折った。それから私の方へ向き直る。
「私は調べる。マリアとオーガスト殿に何があったのか、誰が何をしたのか」
「私も知ります」
「今の君は休むべきだ」
「休んでいる間に、また嘘を書かれます!」
私は寝台の端を握った。
「おじい様とお母様が泥棒にされます、火事にされます、逃げたことにされます! そんなの、嫌です!」
そこで、ようやく涙が出た。
泣きたくなんてなかった。けれど止まらない。
声は出ず、ただ涙だけが頬を流れていった。
エイドリアンは近づかなかった。慰めようともしなかった。
それでよかった。慰められたら、たぶん噛みついていた。
「君には知る権利がある」
エイドリアンは言った。
「だが、知るには力がいる。聞いたものを呑み込む力も、嘘と事実を分ける力も、相手を逃がさない力も」
「力ですか」
私は涙を拭った。袖が煤で汚れた。
「だったら、ください!」
エイドリアンが黙った。
「貴方を許した訳ではありません。父だと聞かされても、すぐに信じられる訳がありません。母を置いて行った理由も、今は聞きたくありません」
喉が痛い。でも、今度は止めなかった。
「でも、おじい様とお母様を泥棒にされるのは嫌です。トマスたちまで、火事で死んだだけにされるのは嫌です。ヘンリーの家の者がいたのに、何もなかったことにされるのは、もっと嫌です」
私は指輪を握った。
「だから、私に力をください。調べる力でも、読める力でも、あの人たちの嘘を暴いて引き裂いてしまう力でも、何でもいい!」
エイドリアンは、しばらく私を眺め、やがて、静かにうなずいた。
「――分かった」
その一言から何かが始まった。
父と娘としてではない。まだそんな言葉は遠かった。
その時の私は、父を必要としていたのではない。
敵へ届くための手段として、エイドリアン・ヴェイルの手を取ったのだ。




