4 15年前 町に広がる「事実」
力をください、と言ったあと、私はまた少し眠ったらしい。
今度は夢を見た。庭だった。まだ燃えていない庭だ。朝露に濡れた草の中で、私は四つ葉を探している。ヘンリーが少し離れたところから「クローバー、まだか」と呼んでいる。
見つけた、と言おうとした時、手の中の草が煤になった。
◇
目を開けると、知らない天井だった。
またか、と思った。
次に、ここがどこか思い出した。
エイドリアン・ヴェイルの家。私の父だと言った男の家。母が最後に私を飛ばした場所。
右手が痛い。胸元の指輪を確かめる。指先に鎖が触れた。青い石は冷えている。
私は寝台の上で身を起こした。部屋の端に椅子があり、そこに畳まれた服が置かれていた。子供用ではない。少し大きい。けれど、焼け焦げた寝間着よりはましだった。
その横に水差しと杯。それから、小さな紙片が一枚。
『着替えられるなら着替えろ。無理なら呼べ』
字は読みやすかった。きれいというより、迷いがない字だ。名前はない。けれど誰が書いたかは分かる。
灰色のワンピースは、母が私に用意してくれていた服とはまるで違っていた。飾りはない。襟元も袖口も簡素で、使用人の服より少し良い程度だ。
寝台から足を下ろす。膝が痛んだ。転移した時に打ったのだろう。床に置かれていた靴も、私には少し大きい。中に布を詰めてある。誰かが急いで合わせてくれたのだ。
着替えるのには時間がかかった。右手がうまく使えない。包帯を巻かれた掌が熱を持ち、袖に通すだけで息が詰まる。それでも人を呼ぶ気にはなれず、一人で着替えた。
◇
扉を開けると、廊下に昨日の年配の女がいた。
「お起きになりましたか」
彼女は私を見ても、驚いた声を出さなかった。それだけで少しありがたかった。
「旦那様がお待ちです」
「……貴女は」
「ハンナと申します。この家の中のことを見ております」
使用人、と言わないところが少し変だった。
家の中のこと。
なるほど、この家は普通の屋敷ではない。家というより工房で、工房というより、何かの巣のようだった。
廊下の壁には細い管が這っていた。その中を青白い光がゆっくり流れている。ところどころに丸い硝子の窓があり、内側で小さな針が震えていた。
私は思わず立ち止まった。
「触らない方がよろしいです」
「危ないのですか」
「たまに噛みます」
「噛む」
管が噛むとはどういうことだ。
聞こうとして、やめた。たぶん、この家ではそういうことがあるのだろう。
ハンナは短い廊下を曲がり、階段を降りた。階段は木ではなく、黒い金属でできていた。足音が硬く響く。手すりに触れると冷たかった。
下へ行くほど、油と金属のにおいが濃くなる。昨日の工房へ戻るのだと思ったが違った。
案内されたのは、広い部屋だった。
壁一面に棚。棚には本と紙束と箱が詰まっている。中央には大きな机があり、その上に地図が広げられていた。窓は小さい。だが天井の硝子管から光が落ち、部屋の中は妙に明るい。
エイドリアンは机の向こうにいた。
昨日と同じように袖をまくっている。だが工具は持っていない。代わりに、新聞が何枚も机に置かれていた。
「座れるか」
「立っていられます」
「座れ。立っていることに力を使うな」
命令だった。
私は少しだけ迷い、椅子に座った。悔しいことに、座ると楽だった。
エイドリアンはそのことには触れず、机の端に置いた皿をこちらへ押す。薄いパンと、肉を細かく刻んだスープ。昨日より匂いが分かる。胃が鳴りそうになり、私は唇を噛んだ。
「食べながら聞け」
「食べている場合では」
「食べなければ、聞いたところで倒れる」
腹が立つ。けれど正しい。私は匙を取った。
スープは熱すぎなかった。飲み込みやすい温度にしてある。肉も野菜も小さく切られていて、右手が痛くても何とか食べられた。それがまた、腹立たしい。
優しさが欲しい訳ではない。けれど、身体はそれに助けられている。
「新聞が増えた」
エイドリアンは一枚を取った。
「昨日の号外より、話が進んでいる」
「……読んでください」
「全部か」
「全部です」
彼は数秒だけ私を見た。それから読み始めた。
「ハートウェル家火災、事業資金の不正流用疑惑。関係者によれば、ハートウェル氏は近年、複数の鉱区権利を担保に多額の資金を動かしていた可能性がある」
匙を握る指に力が入った。
「嘘です!」
エイドリアンは一度だけ新聞から目を上げたが、そのまま続けた。
「火災現場からは金庫および帳簿の一部が失われており、当局は家人の逃亡、あるいは証拠隠滅の線も――」
「嘘です……」
今度は声が低くなった。祖父の帳簿なら知っている。
全部ではない。けれど、少なくとも祖父が帳簿を隠すなどあり得ない。
祖父は、帳簿に向かう時だけは食事も忘れる人だった。数字の一つを合わせるために、夜明けまで机に向かっていたことがある。母が呆れて、厨房から温かい牛乳を持って行くこともよくあった。
私はそれを知っている。
「続けるぞ」
「はい」
「なお、ハートウェル家と古くより親交のあったウォード家は、混乱を避けるため、一部取引先への説明と資産保全に協力する意向を示した」
匙が皿に当たる。かちん、と小さな音がした。
「ウォード家」
「ああ」
エイドリアンは新聞を机に置いた。
「早いな」
「早い、とは」
「火災の翌日に、資産保全だの取引先への説明だの、普通はできない。準備していたと見る方が自然だ」
準備していた。それはつまり、昨日の火事の前から、うちが襲われることを知っていたということだ。
いや、知っていただけではない。ヘンリーの家の御者がいた。
私はスープの器を見下ろした。湯気が上がっている。さっきまで食べられたのに、もう匂いだけで気持ちが悪くなった。
「ヘンリーは……」
「次男だったな」
「はい」
なぜか、その返事だけはすぐ出た。
「彼は、知っていたのでしょうか」
聞いたあとで、自分が何を期待していたのか分かった。知らなかったと言ってほしかったのだ。少なくとも、今はまだ。
エイドリアンは新聞を一枚めくった。
「今の時点では、分からない」
「そうですか」
「だが、彼の父と兄は動いている」
「兄」
「跡取りだろう。ここに名がある。アーネスト・ウォード。ハートウェル家の複数の契約先へ代理人を送ったと書かれている」
アーネスト。
数度だけ会ったことがある。ヘンリーよりずっと大人で、いつも自信のある声で話す人だった。私のことを、将来の妹のように扱った。頭に手を置かれたことがある。
その手が大きくて、私は少し苦手だった。
その人が、うちの契約先へ。
「そういえば、おじい様の机に、契約書がたくさんありました」
「どの部屋だ」
「仕事部屋です。けれど燃えて」
「燃えたと決まった訳ではない」
「でも……!」
「奪われた可能性もある」
私は顔を上げた。
エイドリアンは地図の端を指で押さえた。そこに、私の家のある町の名が小さく書かれている。
「火を放つ前に、必要な書類を持ち出す。金庫も同じだ。火災に見せかければ、焼けたことにも、失われたことにもできる」
「では、最初から?」
「その可能性が高い」
私は右手を握ろうとしたが、痛みで止まった。代わりに左手で膝の上の布をつかむ。
母の手。祖父の杖。トマスの背中。それに、ヘンリーの家の御者。
ばらばらだったものが、嫌な順番でつながっていく。
「旦那様」
ハンナが扉のところから声をかけた。
「マルクが戻りました」
「入れろ」
すぐに若い男が入ってきた。二十歳前後だろうか。帽子を手にして、肩で息をしている。外套の裾には泥が跳ねていた。
彼は私を見ると、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにエイドリアンへ向き直る。
「火災現場には入れませんでした。町の警備隊とウォード家の者が押さえています」
「ウォード家が?」
「はい。表向きは、ハートウェル家と親交が深いので協力を申し出たと。けれど実際には、門も倉庫も向こうが見ています」
ハンナの手が、扉の横で握られた。私はそれを見た。
マルクという男は続けた。
「生存者についてですが、確認できた者は今のところおりません」
「使用人は」
「逃げた者がいる、という話にされています。ただ、町の連中は首をひねっています。あの家の使用人が一斉に逃げるとは思えないと」
逃げた者。
トマスは逃げていない。倒れていた。私の腕をつかんだまま、最後まで私を逃がそうとした。
「それから」
マルクは声を少し落とした。
「妙な噂が出ています。ハートウェル家の令嬢は、火災前に親戚筋へ預けられていた、と」
「何ですって」
私は立ち上がりかける。だが膝の痛みに、すぐに椅子に戻る。
「誰がそんなことを」
「分かりません。ただ、そういう話が町に流れています。お嬢様は無事だが、ハートウェル家の不正とは関係がない、だから探す必要はない、と」
「探す《《必要はない》》」
言葉を繰り返すと、舌の上が苦くなったようだった。
私が消えたから、そうしたのか。それとも、最初から私もどこかへやったことにするつもりだったのか。
どちらでも同じだ。彼らはもう、私の居場所まで作り替え始めている。
「……私はここにいます」
自分でも変なことを言ったと思った。けれど、言わずにはいられなかった。
「私は火事の前に預けられてなどいません。あの家にいました。トマスが倒れるのを見ました。おじい様も、お母様も、見ました。ヘンリーの家の御者も」
マルクは黙る。ハンナも黙った。エイドリアンだけが、机の上の新聞へ目を落とした。
「証言できる」
「はい」
「だが今出れば、君は消される」
それも、分かった。分かってしまった。
私はまだ十三歳だ。子供だ。家は燃え、祖父と母は行方不明に、使用人は逃げたことに、私は親戚に預けられたことにされている。
そんな私が今、町へ戻って何を叫んでも、誰が信じるだろう。まして、相手はすでに門を押さえ、契約先を回り、新聞に話を流している。
嘘の方が、私より先に町中を走っている。
「では、私は何もできないのですか」
言ってから唇を噛む。泣き言だ。でも十三歳の私は、その時本当にそう思ったのだ。
エイドリアンは首を横に振った。
「今すぐ表へ出ることはできない」
「同じです」
「違う。表へ出ないまま、できることはある」
すると彼は机の下から、薄い金属板を取り出した。板の上には細かい線が刻まれ、真ん中に小さな硝子球がはめ込まれている。
「これは何ですか」
「通信盤の端末だ。町の通信線には入れないが、私の回線には乗る」
「回線……?」
「遠くへ言葉を送る道だと思えばいい」
彼は硝子球に指を置いた。
青白い光がぽっと灯る。低い音がうなる。壁の管を流れる光が少し強くなる。
「マルク。ウォード家の代理人が回った取引先を洗え。帳簿係、倉庫番、運搬業者、銀行。動いた順番もだ」
「はい」
「ハンナ。ハートウェル家に勤めていた者の親類を探せ。逃げたことにされているなら、どこかで口をふさがれているかもしれない」
「承知しました」
「それから、新聞社に金を払った者がいる。誰が原稿を持ち込んだか調べろ」
「すぐに」
次々に指示が出る。私はそれを聞いていた。
この人は、父だ。そう言われてもまだ実感はない。けれど、今この瞬間、動ける人だ。私の代わりに怒鳴るのではなく、泣くのでもなく、嘘の先回りを始める人だ。
私は初めて、目の前の男を少しだけ見直した。そして、それが悔しくて、すぐに目をそらした。
「クレア」
名前を呼ばれた。
「君にも仕事がある」
「何をすれば」
「覚えている顔と名前を、全部書き出せ」
エイドリアンは紙と鉛筆を差し出した。
「ウォード家に出入りしていた者。君の家に出入りしていた者。御者、帳簿係、商人、客人、使用人。覚えている範囲でいい。誰か一人でも、線がつながるかもしれない」
「……私に、できるでしょうか」
「できるかではない。今は、思い出せるものを落とすな」
その言い方は厳しかった。でも、嫌ではなかった。
私は鉛筆を取った。右手は使えない。左手で書くしかない。字は乱れるだろう。それでもいい。
紙の一番上に、まず書いた。ヘンリー・ウォード。
その下に、彼の御者の顔を思い出そうとした。
名は知らない。でも、左の頬に小さな傷があった。片方の耳が少し欠けていた。馬に水を飲ませる時、いつも右手ではなく左手で桶を持っていた。
書く。書く。思い出す。
一つ一つの記憶が胸に痛かった。だが、痛むたびに、誰かの嘘が少し晴れていく気がした。
エイドリアンは黙って見ていた。ハンナも、マルクも、もうその時には部屋にはいなかった。
机の上には新聞があり、そこには祖父と母を汚す言葉が並んでいる。
私は左手で、知っている顔を一つずつ書いた。
泣いている暇はなかった。
先に走られたなら、追うしかない。私はもう一度、紙に向かった。




