2 15年前 飛んだ先に居たひと
次の瞬間、したたか背中を打った。
硬い床だ。木ではない。石でもない。少し弾むような、妙な床だった。
目を開けると、天井から太い管が何本も下がっていて、赤い光が点滅していた。
どこかで歯車が噛み合う音がした。しゅう、と蒸気が抜ける音もする。
私は咳き込んだ。手の中の指輪はまだ熱い。右手が開かない。開けば、母までこぼれ落ちる気がした。
「誰だ」
低い声がした。
顔を上げようとする。うまくいかない。髪に煤が絡み、目が痛い。寝間着の裾は裂け、膝に血がにじんでいた。
何とか上げると、そこには一人の男がいた。
見知らぬ姿だった。黒に近い濃い茶色の髪は少し長く、袖をまくった腕には古い傷がいくつもある。片手に工具を持ったまま、こちらを見下ろしていた。町で見る紳士とはまるで違う。
上着はくたびれている。シャツにも油のしみがある。
どうやらこの部屋は工房らしかった。壁一面に歯車、管、線、用途の分からない箱。机の上には分解された懐中時計に似たものがいくつも並び、床には丸められた図面が転がっている。
埃っぽい。油くさい。
……けれど、家が燃えるにおいではなかった。
男の視線が、私の右手へ落ちる。
「お前…… その指輪を、どこで」
私は答えようとした。だが声が出ない。喉が煙で焼けている。
男が一歩近づいた。
私は指輪を握り込んだまま、後ずさろうとして失敗した。背中が変な装置に当たり、金属の棒がからん、と床へ落ちる。
「取らない。見せてくれ」
男は工具を床へ置いた。それから、手袋を外す。指先に古い火傷の痕があった。
私の掌に今できたものより、ずっと大きく、ずっと古い痕。
その手を見た途端、母の声が耳の奥で鳴った。
――あの人なら、きっと分かる。
私は右手を差し出す。男は指輪に触れなかった。
触れないまま、青い石を見る。その目が、一度だけ細くなった。
「……マリア」
母の名だった。息が止まる。
「お母様を、知っているんですか」
その声はかすれていた。それでも男には届いたらしい。
男は私を見た。指輪を見て、もう一度、私を見る。
「君は」
「お母様を知っているんですか……!」
同じことを聞いた。聞くことは、それしかなかった。
男は答えるまでに、少し時間をかけた。
だがそのわずかな間に、分かった。この人は母を知っている。指輪も知っている。
なのに、私のことは知らなかった。
「知っている」
男は言った。
「マリアは、私の――」
「どうして」
私は遮った。身体中が痛い。喉も痛い。右手はまだ熱い。
それでも、その言葉だけは止められなかった。
「《《どうして母を置いて行ったんですか》》」
男の口が止まった。工房のどこかで、また蒸気が抜けた。しゅう、という音が、ひどく場違いに聞こえた。
「父は死んだと聞かされていました。ずっと。おじい様も、お母様も、そう言いました。なのに貴方は生きている。こんな場所で、こんなものに囲まれて」
喋るたびに喉が痛んだ。それでも止められない。
「お母様は、最後に私をここへ飛ばしました。貴方のところへ。なら、知っていたんでしょう? 貴方が生きていることを。知っていて、戻らなかったんでしょう?」
男は何も言わなかった。
「どうしてですか。どうして来なかったんですか。お母様は血を流していました。おじい様も、トマスも、みんな――」
そこで息が途切れた。立っていた訳でもないのに、身体が前へ傾く。男が受け止めた。
その腕を振り払いたかった。けれど、力が入らなかった。
「……答えて」
私は言った。男はすぐには答えなかった。ただ、私を床に戻さず、近くの長椅子へ運んだ。油と金属のにおいがする上着を、私の肩へ掛ける。
払いのけようとしたが、指が動かなかった。
「君が怒るのは当然だ」
男は低く言った。
「だが今は、手当てをする。話はその後だ」
「逃げないで」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
男は私の右手を見た。指輪の跡が赤く焼けている。青い石は、もう熱を失っていた。
「逃げない」
そう言って、男は工房の奥へ向かい、棚から薬箱を取った。
私は目を閉じなかった。閉じたら、燃える家に戻る気がした。
母の腕。祖父の折れた杖。トマスの倒れた背中。
ヘンリーの家の御者が持っていた刃物。
ひとつずつ、まぶたの裏へ押し込める。
忘れない。絶対に忘れない。
その夜、私は父に会った。
けれど、父と呼ぶまでには、まだ長い時間が要った。




