1 15年前 燃える家
最初におかしいと思ったのは、犬が吠えなかったことだった。
うちの犬はよく吠える。荷馬車の音にも、門番と馴染みの商人の声にも、風で納屋の戸が鳴っただけでも吠える。祖父は毎度のことだと笑っていたし、母は「この子は家の中で一番仕事熱心ね」と言って、厨房から骨を一本もらってきたりした。
その犬が、吠えなかった。
私は寝台の中で目を開けた。夜の廊下は、いつもなら暗い。
なのに、扉の下の隙間が赤い。
――火だ。
そう思うより早く、どこかで何かが割れる音がした。
陶器ではない。窓硝子でもない。もっと重いものが、床へ叩きつけられたような音。
続いて、男の怒鳴り声。
私は寝台から降りた。素足が床板に触れる。夜の床は冷たい。春先とはいえ、この家は山に近く、日が沈むと風が急に冷えた。
いつもなら、廊下に出る前に履物を探す。ショールもきちんと羽織る。けどその夜は、そんなことを考える余裕がなかった。
「お母様?」
呼んでも返事はない。
部屋を出ると、廊下の奥から煙が流れてきた。灰色ではない。黒く、重い煙だった。焦げた木と油のにおいが混じっている。
厨房の火事ではない。暖炉の不始末でもない。火の回り方が早すぎた。
その時の私は、まだそう言葉にできなかった。ただ、喉に引っかかった煙に咳き込み、目から勝手に涙が出た。
「クレアお嬢様!」
後ろから声がした。振り向くより早く、腕をつかまれる。
家令のトマスだった。いつもはきちんと撫でつけている白髪が乱れ、頬に血が飛んでいる。
彼の血ではない。そう思った。そう思いたかった。
「こちらへ!」
「お母様は」
「早く!」
「おじい様は!」
トマスは答えなかった。答えずに、私の手を引いた。
私の足はもつれた。寝間着の裾を踏み、壁に肩をぶつける。トマスの手が痛いほど強い。痛いと思う余裕があったことを、後になって何度も思い出した。
――あの時、もっと早く走れていたら。
無駄だ。十三歳の私に、何ができたというのだ。
廊下の角を曲がったところで、男が二人いた。
一人は知らない。もう一人は、知っていた。ヘンリーの家の御者だった。
名前までは覚えていない。けれど顔は知っていた。ヘンリーが遊びに来る時、馬車の横に立っていた男だ。私が庭で四つ葉を見つけた時、ヘンリーがそれを自慢げに見せに行った相手でもある。
その男が、短い刃物を持っていた。
「え」
声を出したのは、私ではない。トマスだった。
次に、彼の手が私の腕から離れた。膝から力が抜けたように、トマスが崩れる。
私は手を伸ばした。届かなかった。トマスは床に倒れたまま、こちらを見なかった。
叫んだはずだ。たぶん叫んだ。だが、音としては覚えていない。
男が私へ踏み出した。その背後で、階段の下が赤く燃えている。
赤いはずの火の中に、黒い筋が混じっていた。煙が床を這い、男の靴の周りを舐める。
私は動けなかった。
「クレア!」
母の声がした。階段の方から、母が来た。
いつもの母ではなかった。髪はほどけて、肩口のドレスは裂けていた。白い手袋の片方はなく、指先に煤と血がこびりついている。片手で脇腹を押さえ、数歩ごとに身体が傾く。
それでも母は来た。私と男たちの間に割って入り、近くの台に置かれていた花瓶をつかむ。
重い花瓶だった。祖父が東の商人から買ったものだと、母が笑っていたことがある。子供が触るには高すぎる品だから、と注意された。
その花瓶を、母は男に叩きつけた。
陶器が砕けた。男が呻く。もう一人が怒鳴る。
その隙に、母は私の腕を引いた。
「こっちへ」
「お母様、トマスが」
「見てはいけません」
「でも」
「クレア、聞きなさい」
母の手は熱かった。熱があるのではない。ぬるりと濡れて、指の間まで赤かった。
母は私を階段とは反対の方へ押した。
だがそちらの廊下にも煙が来ていた。奥の部屋で何かが燃えている。祖父の仕事部屋の方だ。
「おじい様は」
「クレア」
「おじい様はどこですか!」
母は答えなかった。目だけが、一瞬そちらへ動いた。それで足りた。
それでも私は見た。見てしまった。仕事部屋の扉の前に、祖父が倒れていた。
片手が伸びている。書類棚の方へか、私たちの方へか、それすら分からない。祖父がいつも使っていた杖が、すぐそばで折れていた。
母の腕が強くなる。
「見ないで」
もう遅い。煙で目が痛い。喉が焼ける。けれど祖父の折れた杖だけが、妙にはっきり見えた。
あの杖で、祖父はよく床をこつこつ叩いた。私が帳簿の数字を間違えた時も、石の名前を覚え損ねた時も、怒る前にまずこつ、と鳴らした。
その音が、もう二度としない。私はそのことだけを理解した。
母が私の右手を開かせた。指の中に、硬いものを押し込まれる。
「これを持って」
「何ですか」
「絶対に離しては駄目」
指輪だった。母がいつも首から下げていた、古い指輪。
大きな宝石がついているわけではない。黒っぽい銀の輪に、小さな青い石がはまっているだけのものだ。
子供の頃の私は、それを少し地味だと思っていた。
母は一度だけ、それを結婚指輪の代わりだと言ったことがある。
父は死んだ。私はそう聞かされて育った。だから、それ以上を尋ねてはいけないのだと、いつからか思っていた。
「逃げるのよ、あなたは、今から」
「え…… お母様も一緒に」
「いいえ」
「……嫌です!」
「クレア」
母が私の両肩をつかんだ。痛い。母が私にこんな力で触れたことは、それまで一度もなかった。
「クローバー」
その呼び方に、喉が詰まった。祖父がつけた愛称だ。
私は庭で四つ葉を見つけるのが妙にうまかった。
ヘンリーはそれを面白がって、私をクローバー姫などと呼んだこともある。祖父は「幸運を見つける目は仕事にも要る」と真顔で言い、母はそのたびに笑っていた。
幸運。
その言葉が、その夜ほど腹立たしいものに思えたことはない。
「生きなさい」
母は言った。
「何があっても、生きて。いいわね」
「お母様」
「この指輪が道を開く。あの人なら、きっと分かる」
あの人。聞き返す前に、背後で床板が軋んだ。
母は私を抱きしめた。いや、抱いたというより、覆いかぶさった。腕の中に押し込められる。耳元で、母が何かを唱えた。
祈りではなかった。少なくとも、教会で聞く言葉ではない。もっと短く、硬く、噛み切るような音の連なりだった。
すると突然、指輪が熱くなる。
「お母様、熱い」
「離さないで」
「熱い、熱いです」
「離しては駄目!」
母が叫んだ。
次に、家そのものが呻いた。階段の方で梁が落ちたのだろう。火が廊下へなだれ込む。赤い。黒い。熱い。
煙が一気に低く広がり、足元を飲んだ。男の怒鳴り声が近い。
母の腕が震えている。私の右手の中で、指輪が焼ける。皮膚が焦げるのではないかと思った。
実際、その痕は長く残ることになる。右の掌の真ん中に、小さな青い石と同じ形で。
その時は、痛みどころではなかった。
床が消えた。落ちたのではない。飛んだのでもない。私の足元から、家がなくなった。
母の腕も、煙も、燃える梁も、祖父の折れた杖も、トマスの倒れた背中も、ヘンリーの家の御者が持っていた刃物も、全部まとめて紙を破るように裂けた。
私は母の名を呼んだ。呼んだはずだった。
――だが次に口に入ってきたのは煙ではなく、冷たい金属のにおいだった。




