プロローグ
ひどい騒ぎだった。
ホテルの二階、南向きの小応接室。窓の外では午後の光が白い石畳を照らし、植え込みの向こうを馬車がゆっくり通っていく。
部屋の中では、誰もその穏やかな外を見ていなかった。
「ロレッタ、もう一度…… もう一度考え直す気はないのか?」
ヘンリー・ウォードは、椅子から立ち上がったきりだった。
襟元に指をかけている。けれど緩めるでもなく、ただ同じ場所を何度もつまんでいた。
向かいに立つ妻・ロレッタは、黒い革の書類鞄を両手で持っていた。
背筋は伸びている。鞄の持ち手にかかった指だけが白い。
「分かっております。ですから、申し上げた通り、今日時間を作ったのです」
「離婚など」
「ええ。離婚です」
「考え直す気はないのか、どうしても」
ヘンリーの声が少し上ずる。私は窓際の椅子に腰掛けたまま、そのやり取りを眺めていた。
テーブルには紅茶が三つ。ひとつは私の前。ひとつはロレッタの前。そしてもうひとつは、ヘンリーが口もつけないまま冷ましている。
こんな場に紅茶を三人分用意させるあたり、ロレッタはずいぶん落ち着いたものだ。少なくとも、少し前の彼女ならこうはいかなかった。
「ヴィヴィアン嬢―― あなたがいなければ」
「何のことかしら」
「いいや分かっているんだ。ロレッタが私にこんなことを言うようになったのは、全てあなたのせいだ」
「奥様はご自分の言葉で話していらっしゃるわ」
ロレッタの肩が、一度だけ動いた。笑ったのかもしれない。この場で笑えるなら、彼女はもう大丈夫だろう。
私はカップを皿に戻す。小さな音がした。
ヘンリーはそれだけで口を閉じる。
「それに、あなたは先日も聞いたでしょう? 奥様は物ではないわ。奪う、奪われる、と口にするものではありません」
ヘンリーは何か言おうとする。だが、その前にロレッタが鞄を持ち直した。
「ヘンリー。私の話は以上です」
「以上?」
「代理人から正式に書面が届きます。今後はそちらを通してください」
「夫婦の話だぞ」
「夫婦であった間に、その話をする機会はいくらでもありました」
ロレッタの声は荒れていない。泣きもしない。
彼は怒鳴られると思っていたのだろう。泣かれると思っていたのかもしれない。責められれば責められたで、自分も苦しかったと言い返すつもりだったのだろう。
だが彼女は、彼にそのどれも与えなかった。
「ヴィヴィアン様」
「ええ」
私は立ち上がった。
「今後のことで、ご相談がございます」
「隣の部屋を取ってあります。そちらで」
ロレッタがうなずく。ヘンリーは一歩こちらへ踏み出した。
「待ってくれ」
ロレッタの足が止まりかける。私は彼女の手元に視線を落とした。
「気にしなくていいわ」
短く言うと、ロレッタは今度こそ歩き出した。扉へ向かう歩幅は、まだ少し小さい。けれど、以前よりずっとましだ。
「ロレッタ!」
背後でヘンリーが叫ぶ。彼の声は昔からよく通った。庭の奥からでも、二階の窓辺からでも、私を呼べた。
ヘンリー・ウォードは、かつて私の幼馴染だった。そして、私の婚約者でもあった。
とはいえ、私たちは十三歳だった。正式な結婚の約定書が取り交わされる少し前で、互いの家の者たちが、そうなるものとして扱っていた頃の話だ。
母も祖父も、ヘンリーの家を有望だと見ていた。彼は次男だったから、婿に入るにも都合がいい。
幼い頃から仲良くさせておけば、いずれ夫婦になった時にも困らない。
大人たちはそう考えた。私も疑わなかった。
ヘンリーが来る日は、朝から庭へ出た。四つ葉を見つけると、彼は私より大きな声で祖父へ知らせに走った。まるで自分が見つけたかのように。
そのたびに祖父は笑い、母は私をクローバーと呼んだ。幸運を見つける子。
……ずいぶんひどい冗談だと思う。
扉の取っ手に手をかけたところで、ヘンリーがもう一度言った。
「ヴィヴィアン嬢、本当にあなたは…… あなたは私に対して、一体、何がしたいんだ」
私は振り返る。ヘンリーは青ざめていた。
怒りだけではない。疑い。怯え。それから、ずいぶん遅れてやってきた後悔に似たもの。
ただし、後悔と呼ぶにはまだ軽い。自分が傷つく予感に驚いているだけだ。
「何がしたい、ですって」
「ああ」
「そうね」
私は少しだけ考えた。答えなら、とっくに決まっている。
「返していただいただけよ」
「返す?」
「あなた方が持っていったものを」
ヘンリーの唇が動いた。だが言葉にはならない。
私はロレッタを連れて部屋を出る。廊下には、磨き込まれた床と、白い壁と、窓から落ちる四角い光。火事の煙など、どこにもない。
それでも私は時々、焦げた木と油のにおいを思い出す。右の掌に残った小さな火傷の痕が、ふいに熱を持つことがある。
十五年前の夜。
私は、燃える家の中にいた。




