32 ヴィヴィアン・ヴェイルの名で
旧ハートウェル邸跡地に最初の杭が打たれたのは、秋の初めだった。
屋敷をそのまま建て直すのではない。父は図面を見て、最初にそう言った。
「昔の形に戻す必要はない」
「戻したくないの?」
「戻らないものを、戻ったように見せるのは嫌いだ」
父らしい言い方だった。
だからそこには、記録室と、小さな技術学校と、働き手のための休憩所が作ることにした。
庭も作る。母のために、白い花を植える場所を少し。祖父のために、石のベンチを一つ。トマスのために、鍵を保管する小さな棚を記録室の入口に。エルシーの名をつけた食堂も置くことになった。
「食堂は要ります」
そう強く言ったのはロレッタだった。
「学びに来る者も、働く者も、空腹では続きません」
「すっかり実務の人ね」
「まだ見習いです」
彼女はそう言いながら、食堂の予算欄に赤で印をつけた。
ロレッタの離婚は、正式に成立した。
手続きは簡単ではなかった。ウォード家の資産整理、持参金の返還、婚姻契約の確認、双方の代理人とのやり取り。紙は増え、印は増え、ため息も増えた。
それでも、彼女は最後まで自分の名で署名した。
ロレッタ・ウォード、と書いた最後の日、彼女はしばらくその字を見ていた。
「次からは?」
私が聞くと、彼女はペンを置いた。
「ロレッタ・グレイに戻します。実家の名です」
「いいの?」
「はい。今度は、その名を自分のために使います」
それから彼女は、ヴェイル鉱業の秘書見習いとして正式に雇われた。
最初の仕事は、未払い給金の最終確認だった。次の仕事は、旧ハートウェル邸跡地の施設計画書。三つ目の仕事は、私の予定を詰め込みすぎないよう管理すること。
「これは職務に含まれるのですか?」
「含まれないと思うけど」
「では、含めてください」
ハンナが横でうなずく。父までうなずいた。
私は少し不服だったが、予定表の余白に『休む』と書かれるようになった。
◇
ヘンリーは、町に残った。
ウォード家の本邸は整理に入り、一部は売却された。彼が継ぐものは、ほとんどなかった。残ったのは、負債の整理と、父や兄の名がついた記録への対応と、十五年前に何も知らなかった自分の空白だった。
ある日、彼は記録室予定地へ来た。
作業員たちが休んでいる昼時で、まだ建物は骨組みだけだった。彼は入口になる場所の前で足を止め、帽子を取った。
「ここに、トマスの鍵を置くと聞いた」
「ええ。実物は保存庫。展示は写し」
「そうか」
彼は少しだけ息を吐いた。
「本物を、むやみに触らせるべきではないと思った」
「あなたがそれを言うのね」
「言える立場ではない」
「そうね」
彼はうなずき、反論はしなかった。
「でも、言葉としては正しいわ」
「……ありがとう」
しばらく、二人でまだ何もない入口を見た。昔なら、ここで彼はクレアの名を呼んだかもしれない。今は呼ばなかった。
「ロレッタは、よく働いていると聞いた」
「ええ。彼女に、何か伝えることがあるなら、自分で伝えればいいわ。必要なら」
「必要かどうか、考える」
「それがいいわ」
ヘンリーは帽子を持つ手に力を込めた。
「私は、君に謝りたい」
「ええ、聞きましょう」
「私はクレアを失った自分を、長い間、大切にしていた。クレア自身も、ハートウェル家の人たちも、見ていなかった」
「ええ」
「ロレッタも見ていなかった」
「ええ」
「知らなかったことに甘えていた」
「ええ」
彼は一度、目を伏せた。
「すまなかった」
私は少し待った。風が通る。まだ壁のない建物だから、音がよく抜ける。
「受け取ります」
そう言うと、彼は顔を上げた。
「許す、ではないのだな」
「ええ」
「分かっている」
「謝罪は受け取る。でも、あなたに返すものはありません」
「そうだな」
彼は小さく息を吐く。その声に、昔の甘さは薄かった。代わりに疲れがある。悔いもある。まだ自分をどう扱えばいいか分からないのだろう。
でも、それでいい。簡単に救われるより、そのまま歩いていくことが彼には必要なのだろう。
「この先も忘れないで。いえ、覚えていなさい」
私は言った。
「はい」
「トマスだけではなく、エルシーも、ビルも、ネッドも、ルーシーも、メイも」
「覚えている」
「ロレッタのことも」
「……ああ」
「離れた人としてよ」
「分かっている」
今度は、返事に少し時間がかかった。それでも彼は言った。
「離れた人として」
それで、私たちの話は終わった。
◇
父と母の話は、もっと静かに残った。
母の肖像入れは、記録室ができるまで私の部屋に置かれた。父は時々それを見る。長くは見ない。短く見て、蓋を閉じる。
「もっと見ればいいのに」
「見ると仕事にならん」
「それは困るわ」
「だから閉じるんだ」
その言い方が少し可笑しくて、――少し悲しかった。
ある夜、私は父と一緒に旧邸跡地へ行った。まだ建物は途中で、梁だけが空に向かっている。庭になる場所には、杭と縄が張られていた。
母の花壇予定地の前で、父が足を止めた。
「白い花だけでいいのか」
「少し青も入れようかと思うの」
「指輪の石か」
「ええ」
父はうなずいた。
「マリアは、青だけにすると文句を言う」
「白ばかりでも?」
「たぶん、そうすると、寂しいと言う」
「面倒ね」
「そういう人だったんだ」
私はしばらく黙っていた。空には星が少し出ている。
その空の下、十五年前、私は燃える家を見た。母の腕の中で、指輪を握らされた。知らない場所へ飛ばされ、父に会い、怒り、泣き、字を書き、名を変えた。
クレアは死んだことにされた。
ヴィヴィアンが作られた。
今、その二つの名は同じ紙の上に並んでいる。
「父さん」
「何だ」
「母さんに、あなたのことをまだ許していないって言ったら、怒るかな」
「怒るだろう」
「父さんに?」
「私に」
「ならいいか」
「よくはない」
父は少し黙ったあと、そう返した。私は笑った。
「でも、前よりは怒ってない」
「そうか」
「たぶん」
「たぶんで十分だ」
父はそれ以上、近づいてこなかった。その距離が、今の私たちにはちょうどよいのだろう。
◇
やがて、ハートウェル記念技術館の看板ができた。正式名称は少し長い。
――ハートウェル記念記録室およびヴェイル技術学校。
ロレッタは「長すぎます」と言った。父は「正確だ」と言った。ハンナは「呼び名はそのうち決まります」と言った。
私は、まあいいかと思った。
開館の日、入口の内側には小さな銘板が置かれた。
オーガスト・ハートウェル。
マリア・ハートウェル。
トマス・リード。
エルシー・バンクス。
ビル・ホーク。
ネッド・グレイ。
ルーシー・ベル。
メイ・カーター。
ほか、名を奪われたすべての人へ。
その下に、短く一文を入れた。
――逃げたのではない。ここにいた。
ロレッタはその文を見て、しばらく黙っていた。
「短いですね」
「長い方がよかった?」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「これで十分です」
開館式は、追悼式より少し明るかった。
ピーターは鍵の展示を確認し、マーガレットは食堂へパンを持ってきた。ネッドの弟は馬車置き場を見て、ここは少し狭いと文句を言った。ルーシーの妹は椅子の布地を褒めた。メイの姉は洗濯場の日当たりを見て、これなら乾くと言った。
私はその声を聞いていた。
生きている人たちは、文句を言う。食べる。働く。疲れる。笑う。間違える。金を払えと言う。
それでいい。死んだ人たちを名で呼ぶ場所は、生きている人たちが出入りする場所でなければならない。
◇
夕方、皆が帰った後、私は記録室の机に座り、新しい帳面を開く。
最初の頁に、名前を書く。
クレア・ハートウェル。その下に、ヴィヴィアン・ヴェイル。
どちらも、今の私の字だった。
左手で歪んで書いた十五年前の字ではない。復讐のためだけに尖っていた頃の字でもない。
右手には、まだ痕がある。でも火傷は痛まない。痛まなくても、消えない。
私は次の行に、今日の日付を書いた。そして、その下に短く記した。次の帳簿を開く。
窓の外で、ロレッタが誰かに支払いの確認をしている声がした。ハンナがそれを手伝っている。父は工房予定地で、機械の置き場所が悪いと技師たちに文句を言っている。
母の花壇には、まだ小さな苗しかない。白と青の花が咲くのは、もう少し先だ。
私は帳面をまだ閉じない。開いたまま、インクが乾くのを待つ。
クレア・ハートウェルの名は、記録へ戻った。
ヴィヴィアン・ヴェイルは、その名を胸にしまったまま、次の仕事を始める。
それが、私の戻り方だった。




