エピローグ 船出
船は、朝の港に白い煙を吐いていた。
荷箱がいくつも積まれていく。鉱山用の測量器具、帳簿箱、保存食、ロレッタの筆箱、ハンナの薬箱。それから父が最後まで渋った小型の通信盤。
「ちょっと、それは置いていくんじゃなかったの」
「船の上で壊れたら困る」
「壊れないように作ったんでしょう?」
「壊れない機械はない」
父はそう言って、木箱の留め金をもう一度確認した。
ハートウェル記念記録室およびヴェイル技術学校が開いてから、ひと月が過ぎていた。食堂ではエルシーの名を冠したパンが出るようになり、記録室の入口にはトマスの鍵束の写しが収まった。母の花壇には、白と青の小さな花が咲き始めている。
私はそこを離れる。
捨てるのではない。置いていくのでもない。動かすために、少し離れる。
「本当に行くのですね」
ロレッタがしみじみと横でつぶやく。
今日の彼女は、黒でも灰色でもない。深い青の外套を着ている。手には帳簿鞄。中には、航路の契約書と、次の鉱区の測量予定と、船会社への支払い控えが入っていた。
「あなたも行くのよ。分かっていて?」
「はい」
「不安?」
「かなり」
「正直でよろしい」
「ですが、行きます」
ロレッタは船の方を見る。
「奥方としてではなく、秘書見習いとして」
「もう見習いを外してもいい頃かしら」
「まだです」
「頑固ね」
「誰かに似ました」
ハンナが横で小さく咳をする。父は聞こえなかったふりをしている。都合の悪い時だけ耳が悪くなるのは、昔からだ。
見送りは多くなかった。派手な出発にするつもりはなかったし、町に告げてもいない。
ただ、ピーターが鍵の形の小さな金具を持ってきた。マーガレットは紙袋いっぱいのパンを押しつけた。ネッドの弟は、船に積む馬具でもない荷縄の結び方に文句を言い、ルーシーの妹はロレッタの外套の袖口を直して帰った。
メイの姉は、白い布を一枚くれて、こう言った。
「旅先で、何か包むものが要るでしょう」
私は有り難く受け取った。何を包むのかは、まだ分からない。
港の端に、ヘンリーの姿はなかった。来ないと、短い手紙が届いていた。
――見送りに立つ資格があるとは思いません。
――ですが、行き先であなたがする仕事が、うまく進むことを願っています。
――名は、覚え続けます。
それだけだった。返事は出していない。
でも、その手紙は捨てなかった。記録室ではなく、私の箱に入れた。許しではない。ただ、ひとつの記録として。
汽笛が鳴った。港の人々が動き出す。
ハンナが先に船へ上がり、荷物の位置を確かめる。ロレッタがその後に続き、乗船名簿へ自分の名を書いた。
――ロレッタ・グレイ。
まだ少し硬い字だった。
でも、迷いはなかった。
父は最後まで桟橋に残っていた。
「父さんは?」
「一便遅らせる。学校の機械室が気に入らん」
「それでも、来る気はあるのね」
「通信盤を積ませた」
「それは返事?」
「十分だろう」
私は笑った。
父は、私の右手を見る。火傷の痕は、朝の光では薄い。
指輪はしていない。母の指輪は、記録室の奥に保管してある。真珠も、肖像入れも、そこにある。身につけなくてもいい。もう、誰のものかを証明するために首へ巻く必要はない。
「行ってきます」
「ああ」
「いつかは戻るわ」
「知っている」
「今度は、ちゃんと」
父は少しだけ黙った。
◇
船へ私も上がる。板が足の下で小さく鳴った。潮の匂いが強くなる。甲板へ出ると、港が少し高いところから見えた。
桟橋に父がいる。少し離れて、ピーターたちもいる。
町の屋根の向こうに、記念館の尖った屋根が見えた。まだ新しい木の色をしている。母の花壇は、ここからは見えない。けれど、そこにある。
船がゆっくり動き出した。桟橋が離れる。
父が片手を上げた。私も上げた。
クレア・ハートウェルの名は、あの町へ戻った。母と祖父と、皆の名も戻った。
だから私は、《《そこに》》縛られたままではなく、《《そこから》》出ていける。
ロレッタが隣に来た。
「最初の寄港地で、鉱区管理局との面談が二件あります」
「休む予定は?」
「半日だけ入れてあります」
「少ない」
「増やすと、ご自分で予定を入れ直されるので」
「信用がないわね」
「実績があります」
ハンナが背後でうなずく。
船は沖へ出る。港の音が遠くなる。かわりに、水を切る音がはっきり聞こえ始めた。
私は手すりに右手を置いた。痕は消えない。消えなくていい。
クレアを置いていくのではない。ヴィヴィアンだけで進むのでもない。
両方の名を持って、私は船に乗った。
次の帳簿は、まだ白い。潮風で頁がめくれそうになったので、手で押さえる。
そこに、最初の一行を書く。
――ヴィヴィアン・ヴェイル、出航。
END




