30 奥方ではない仕事
追悼式の翌朝、ロレッタはいつもより早く仕事部屋へ来た。
黒い服ではなかった。濃い灰色の簡素な服で、袖口に飾りはない。髪もきっちりまとめている。喪に服すためではなく、紙を扱うための格好だった。
「おはようございます」
「早いわね」
「眠れませんでしたので」
「眠れないなら休む、という選択もあるわ」
「眠れないまま部屋にいるより、こちらの方がましです」
ロレッタはそう言って、机の前に立った。
鞄から出したのは、昨日の名簿ではない。持参金契約の写し、離婚申立ての控え、ウォード家へ残してきた私物の一覧、そして使用人への未払い給金の推定表だった。
「未払い給金?」
私が見ると、彼女は少し顎を引いた。
「屋敷の帳簿を思い出せる範囲で書きました。使用人への支払いが遅れている可能性があります」
「あなたの持参金より先に?」
「いいえ。私のものも取り戻します」
返事は早かった。
「ただ、屋敷が差し押さえや整理に入れば、下の者たちが先に困ります。私も、つい数日前まで奥方としてその家の中におりました。見ていなかったとはいえ、知らない顔はできません」
ハンナが机の横で、少しだけ目を細めた。ロレッタは続ける。
「これは情けではありません。未払い給金は、家の借金です」
「その通り」
私は表を受け取った。
アン、ベス、料理番、御者、庭師、厩の男、下働き。月ごとに支払い予定と遅れの可能性が書かれている。完全ではない。空欄も多い。けれど、空欄にはきちんと『不明』と書かれていた。
「よくできています」
「まだ推測が多いです」
「だから使えるのよ。推測を事実のように書いていない」
少しだけロレッタは息を吐いた。褒められることにまだ慣れていない、と昨日言っていた。今日も同じらしい。
「では、今日はこの表をもとに、ウォード家の使用人保護の仮払い案を作ります」
「仮払い」
「ヴェイル鉱業が肩代わりする。ただし慈善ではなく、あとでウォード家資産から回収する形にする」
「働いた方の給金を、先に」
「そう。食べる人間を待たせない」
ロレッタはうなずいた。
「分かりました」
「それから、あなたの私物の移送。今日、ウォード家へ人を出します」
「私も行きます」
「行く必要はないわ」
「必要があります」
彼女は静かに言う。
「私は、自分のものを自分で選んで出て行きます。持っていくものと、置いていくものを、誰かに任せたくありません」
私は少しだけ考えた。
止める理由はある。ウォード家はまだ危うい。エレノーラは崩れ、セドリックとアーネストは拘束中。屋敷の中には味方とも敵ともつかない者がいる。
けれど、ロレッタが自分からと言うなら、それも仕事の一つだ。
「ハンナをつけます」
「ありがとうございます」
「私も行くわ」
「ヴィヴィアン様まで?」
「あなたの私物だけではなく、屋敷内の支払い台帳と使用人名簿の確認もする。仕事よ」
ロレッタは一度だけ瞬きし、それから少し微笑みながらうなずいた。
「はい」
◇
昼前、私たちはウォード家へ向かった。
馬車は二台。私とロレッタ、ハンナ。もう一台には書類箱と、ヴェイル鉱業の係員二人。警備隊からも立会人が来る。
ウォード家の門は、もう以前のように大きく見えなかった。
白い壁はまだ白い。緑の屋根も変わらない。玄関の石段も磨かれている。けれど、門の横に立つ使用人の目は、前と違っていた。誰を迎えているのか、分からない目だった。
「ロレッタ奥様」
玄関で古い執事が呼び止めた。ロレッタは足を止める。
「その呼び方は、もうじき変わります」
執事の喉が動いた。
「……失礼いたしました」
「まだ手続き上は間違いではありません。ただ、今日は私物の整理と、使用人台帳の確認に来ました」
「承知しております」
屋敷の中は静かだった。静かすぎた。
エレノーラは自室から出ていないという。ヘンリーは在宅だが、私たちを迎えには出なかった。そうしてほしいと、ロレッタがあらかじめ伝えていた。
まず向かったのは、ロレッタの部屋だった。彼女が結婚してから使っていた部屋。壁紙は淡い花模様で、窓際に小さな書き物机がある。棚には贈答用の茶器、刺繍枠、未整理の招待状、季節の便箋。
ロレッタは部屋の入口で、少しだけ止まった。
「ここで何年も暮らしたのですね」
「ええ」
「持っていくものは?」
「少ないと思っていましたが、思ったよりあります」
彼女は机の引き出しを開けた。
まず取り出したのは、実家から持ってきた便箋と封蝋。次に、母親から贈られた古い筆箱。数冊の本。刺しかけの布。小さな銀の栞。結婚祝いの品は、手をつけずに別に分けた。
「これは置いていくの?」
私が聞くと、ロレッタは銀の花瓶を見た。
「ウォード家からの贈り物です」
「あなたのものでは」
「そうかもしれません。でも、持って出たいものではありません」
「分かりました。財産整理の一覧には入れておきましょう」
彼女はうなずいた。思い出まで捨てる必要はない。でも、持っていかないと決めるものもある。
ロレッタは一つずつ選ぶ。
服は実用的なものだけ。宝石は実家からのものだけ。ウォード家の紋が入ったものは置いていく。手紙は、自分宛のものと、自分が書いた控えだけ。
ただ、夫からの古い短い手紙が数通出てきた時、彼女の手が止まった。
「持っていってもいいのよ」
「はい」
彼女はしばらく手紙を見ていたが、一番古い一通だけを取り、他は箱に戻した。
「一通だけ?」
「結婚してすぐ、ヘンリーが私に初めて謝った時の手紙です。遅刻の謝罪でした」
「それを?」
「はい。あの人が、最初から何も見ていなかった訳ではないと、自分で覚えておくために」
私は何も言わなかった。ロレッタはもう、ヘンリーを夫として取り戻すために見ていない。ただ、自分の過去を雑に捨てないために選んでいる。
それなら、それでいい。
部屋の整理が半分ほど進んだ頃、廊下に足音がした。ヘンリーだった。彼は扉の外で止まったが、中には入らず、問いかけた。
「入っても?」
ロレッタが少しだけ考えた。
「どうぞ」
彼は最初に私へ会釈し、それからハンナと警備隊の立会人へも頭を下げた。以前なら、こういう小さな礼をしていただろうか。分からない。
彼は箱に詰められていくロレッタの私物を見た。
「本当に出るんだな」
「はい」
「もう止めない」
「ええ」
短い会話だった。だが、これで十分なのだろう。
ヘンリーは部屋の棚を見た。
「その筆箱は、君が嫁いだ日に持ってきたものだ」
「覚えていたのですか」
「覚えていた。だが、今まで言ったことはなかった」
「そうですね」
「すまない」
「受け取ります」
ロレッタは同じ返事をした。許すでも、戻るでもない。ただ、受け取るだけ。
ヘンリーは小さくうなずいた。
「父の書斎の支払い台帳は、まだ残っていると思う。昨日、警備隊が主なものは押さえたが、使用人給金の控えは、別棚にある」
「案内してくださいますか」
「する」
ロレッタは私を見た。
「先に台帳を確認しましょう。荷物は後で」
「ええ」
◇
私たちは書斎へ向かった。
セドリックの書斎は、以前見た時よりも空いていた。警備隊が押収した紙束の跡が、棚にくっきり残っている。机の上には何もない。暖炉の灰も、すでに調べられた後だった。
ヘンリーは壁際の細い棚を開けた。
「ここだ」
中には、使用人への支払い控えが何冊もあった。ハンナがすぐに確認する。
「ロレッタ様の表と照合します」
「はい」
ロレッタは机に向かい、持ってきた表を広げた。私も横から見る。
予想通り、遅れが出ていた。給金の一部未払い、薬代名目での前借り、返済分の過剰控除、退職した使用人への最後の支払い未処理。家は大きくても、中は穴だらけだ。
「アンの妹の薬代は」
ロレッタが指で追う。
「ここですね。前借り扱いになっています」
「利息は?」
「ついています」
彼女の声が少し低くなった。
「奥様の恩ではありませんでした。借金です」
「そういうことね」
アンは恩で縛られたと思っていたが、実際には、恩の顔をした借金だった。
ハンナが紙へ書き写す。
「ベスへの支払いも遅れています」
「保護対象に前払いを」
「はい」
「オーウェンは」
「厩の男たちは三か月分遅れがあるようです」
ヘンリーが横で聞いていた。唇の色が少し薄い。
「知らなかった、と言ってはいけないのだろうな」
「言うだけなら自由よ」
私は答えた。
「でも、そこで止まればいつもと同じ」
「分かっている」
彼は台帳を一冊取った。
「どこを見ればいい」
ハンナが少しだけ眉を上げた。
「支払い日と実際の渡し日です。あと、控除欄」
「教えてくれ」
「仕事として?」
「仕事として」
ハンナはロレッタを見る。ロレッタは少し迷い、それからうなずいた。
「では、そこを」
ヘンリーは椅子に座った。ロレッタの向かいではない。少し離れた席だ。
彼は台帳を開き、ハンナに教わりながら、支払い日の遅れを書き出していく。
夫婦の話ではなく、家の金の話だ。それが、かえってよかった。
そして数時間後、未払いと不当控除の一覧ができあがった。
ヴェイル鉱業が一時立て替え、後でウォード家資産から回収する。警備隊と記録官の立ち会いで、各使用人へ確認する。すでに辞めた者にも連絡を取る。
ロレッタはその案を読み、最後に自分の名を書いた。ロレッタ・ウォード。書いた後、少しだけ止まる。
「まだ、この名です」
「手続きが終わるまでは」
「はい」
彼女は次の行に、補足として書いた。
――離婚申立人。
それを見ても、ヘンリーはもう何も言わなかった。
◇
夕方、荷物の箱が馬車に積まれた。
ロレッタの部屋は、半分ほど空になった。全部ではない。まだ手続きが終わるまで残すものもある。けれど、彼女が今日から使うものは、もう屋敷の外へ出してしまった。
玄関で、ヘンリーが見送った。
「手伝えてよかった」
「ええ。助かりました」
「これで、何かが変わるとは思っていない」
「はい」
「でも、君の仕事を少し見られた」
「そうですね」
ロレッタは外套を着た。
「ヘンリー」
「何だ」
「今日、台帳を見てくださったことは、覚えておきます」
「ありがとう」
「それ以上の意味は、今はありません」
「分かっている」
彼の返事は、今度もすぐ戻ってきた。ロレッタは一度だけ頭を下げ、馬車に乗る。私は後から乗り込む。
窓の外で、ヘンリーは少し離れて立っていた。彼は馬車が動き出しても、追っては来なかった。
ロレッタは窓の外を見ていた。屋敷が遠ざかる。白い壁、緑の屋根、広い門。
彼女が奥方として入った家。今日、仕事をして出てきた家。
「泣いてもいいわよ」
私が言うと、ロレッタは少しだけ首を振った。
「泣くなら、今夜にします」
「予定に入れるの?」
「はい」
「誰かに似てきたわね」
「どなたでしょう」
彼女はほんの少しだけ笑った。その笑いは、昨日より軽かった。
◇
ホテルへ戻ると、彼女の新しい部屋に荷物が運び込まれた。
筆箱、本、便箋、実家の宝石、服、古い手紙一通。
ロレッタは机の上に筆箱を置いた。それから、今日作った使用人未払い一覧を広げる。
「今夜の仕事は」
「泣く予定があるのでしょう」
「それは、寝る前に」
「強くなりすぎるのも困るわ」
「強くなった訳ではありません」
彼女はペンを取った。
「やることがあるだけです」
その言葉は、とてもよかった。ロレッタは奥方ではなくなりつつある。
まだ秘書でもない。ただ、やることのある人になった。
◇
その夜、私は父とハンナに、ロレッタの未払い給金案を見せた。
「良いな」
父は短く言った。
「少し甘いかと思いました」
ロレッタが言うと、父は首を横に振った。
「甘くない。先に食わせるのは、後で仕事を続けるためだ」
「はい」
「ただし、記録を残せ」
「残します」
「誰にいくら、何の名目で、いつ払ったか」
「はい」
ロレッタはすぐに書き留める。父はその様子を見て、私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「使える」
「でしょう」
「良い人材を拾ったな」
「拾ったのではないわ。歩いてきたの」
「そうだった」
父は少しだけ笑った。
窓の外では、町の灯りが一つずつ増えている。
旧ハートウェル邸跡地の方は暗い。けれど、そこに戻った名は、もう暗がりだけのものではない。
裁きはまだ続く。返す金も、戻す名誉も、守る働き手も残っている。
ただ、今日ひとつ、ロレッタはウォード家の奥方としてではなく、自分の手で台帳を開いた。
それは小さなことではなかった。




