29 名を戻す日
身元確認の正式記録が出たのは、セドリックが正式拘束されてから七日後だった。
紙は厚く、封蝋には町医師と警備隊の印が並んでいた。中には、遺骨の状態、発見場所、遺留品、証言との照合結果が一人ずつ記されている。
オーガスト・ハートウェル。ハートウェル家当主。旧邸地下貯蔵庫より発見。杖の金具、骨格、当時の年齢記録と照合。
マリア・ハートウェル。同家令嬢、クレア・ハートウェルの母。布地、装身具、骨格、家族の証言資料と照合。
トマス・リード。家令。鍵束および親族証言と照合。
エルシー・バンクス。料理人。櫛および親族証言と照合。
ビル・ホーク。庭師。片眼鏡および親族証言と照合。
ネッド・グレイ。馬丁。馬具飾りおよび親族証言と照合。
ルーシー・ベル。裁縫係。裁縫鋏および親族証言と照合。
メイ・カーター。洗濯女。木櫛および親族証言と照合。
私はその紙を一人ずつ読んだ。読んで、机の上に置く。
声には出さなかった。声に出すのは、追悼式の日に決めていた。
父は黙って隣に座っていた。ハンナは少し離れて、必要な写しを作る準備をしている。ロレッタは正面の机で、式に必要な名簿と参列者の席順を書いていた。
席順。以前の彼女なら、どの家をどこに座らせるかで頭を使っただろう。
今は違う。遺族を前へ。ハートウェル家に仕えていた者の親族を前へ。町医師、警備隊、記録官は横。ウォード家関係者は、来るなら後方。
「ウォード家の方々へは、正式に案内を出しますか」
ロレッタが聞いた。
「出します」
「全員に?」
「セドリックとアーネストは拘束中だから、警備隊判断。エレノーラ夫人とヘンリーには」
「分かりました」
エレノーラ・ウォード。
ヘンリー・ウォード。
その二つの名は、後方参列者の欄に置かれた。彼女の手は止まらない。
離婚の書類はすでに代理人へ渡っている。持参金の返還請求も始まった。彼女はまだ法的にはウォード夫人だ。だが、名簿の上で自分をその家の側へは置かなかった。
「あなたはどこに座るの?」
訊ねると、ロレッタはペンを止めた。
「私は、仕事をする側におります」
「参列者ではなく?」
「はい」
「辛くない?」
「辛いと思います」
ロレッタは少し考え、それから言った。
「ですが、参列者として泣くより、名を間違えないように紙を持っていたいです」
「なら、そうして」
「はい」
追悼式は、旧ハートウェル邸跡地で行うことになった。
瓦礫は危険な部分だけ片づけられ、西側倉庫跡のそばに仮の台が作られた。豪華な祭壇は置かない。白い布をかけた机に、戻ってきた遺品の写しと、花を置く。
真珠は置かなかった。母の真珠は、まだ確認と保存の手続き中だ。私の首にも、祭壇にも、今は置かない。
その代わり、母の肖像入れを布の上に置くことにした。
父が前夜に確認し、状態を整えた。
「本当に置くのか」
「ええ」
「お前はまだ、ちゃんと見ていない」
「見ます。式の前に」
父は反対しなかった。
◇
式の朝、町はよく晴れていた。
雨の後の土がまだ少し湿っている。仮設の椅子が並べられ、町の人々が早くから集まり始めた。
招かれた者だけではない。遠巻きに立つ者もいた。十五年前の火事を覚えている者、噂だけ聞いていた者、ウォード家の顔色をうかがっていた者、最近ようやく口を開いた者。誰も大声では話さなかった。
ロレッタは黒い服で、机の横に立っていた。手には式次第と名簿。髪はきちんとまとめられているが、飾りはない。彼女の隣にハンナがいる。
ヘンリーは、開式の少し前に来た。黒い服だった。帽子を手に、参列者の後ろへ立つ。案内係が椅子を示そうとしたが、彼は首を横に振った。
エレノーラは来なかった。来られなかったのか、来なかったのかは分からない。代理の花だけが届いた。白い花束。名札にはエレノーラ・ウォードとあった。
その花は祭壇の脇には置かせず、後方の献花台へ回した。ロレッタは何も言わず、その位置を記録した。
式の前に、私は白い布の前へ立った。肖像入れが開かれている。若い母がいた。真珠を巻き、静かにこちらを見ている。
火事の夜の母ではない。でも、同じ人だ。
「……母さん」
声に出した。父が隣に立っている。
「見えた?」
「ああ」
「父さんも、見えている?」
「ああ」
短い返事だった。
私はそこで初めて、父の手が震えているのを見た。工具を持つ時も、通信盤を動かす時も、帳簿をめくる時も、滅多に震えない手だ。その手が、わずかに震えている。私は何も言わなかった。
ロレッタが静かに近づいてきた。
「お時間です」
「ええ」
私は名簿を受け取った。紙は厚い。ロレッタの字で、名が整えられている。
私は台の前に立った。人々の視線が集まる。
旧ハートウェル邸跡地。十五年前、火事のあとに嘘が走った場所。
その土の上で、私は息を吸った。
「本日、ここに名前を戻します」
声は少し低く出た。
「十五年前、この場所で失われ、長く逃亡者、不正の関係者、行方不明者として扱われてきた人々の名を、正式記録に基づき読み上げます」
町のどこかで、鳥が鳴いた。
紙を開く。最初の名を見る。
「オーガスト・ハートウェル」
祖父の名を声に出す。杖の音がした気がした。もちろん、実際にはしない。
「ハートウェル家当主。事業家。祖父」
そこで声が一度止まった。父の気配が、すぐ後ろにある。私は続けた。
「不正を隠して逃亡した者ではありません。十五年前の火災とその後の隠蔽により、命と名誉を奪われた者です」
次。
「マリア・ハートウェル」
息が浅くなる。でも読んだ。
「オーガストの娘。クレア・ハートウェルの母」
母。その言葉が、土の上に落ちた。
「彼女の遺品は不当に持ち出され、別の家で保管、使用されていました。彼女は逃げた者でも、不正を隠した者でもありません」
次の行へ進む。
「トマス・リード。家令」
前の席で、ピーターが帽子を握った。
「最後まで屋敷に残り、鍵束と共に発見されました」
ピーターの肩が震えた。
「エルシー・バンクス。料理人」
マーガレットが顎を上げる。
「使用人の食事まで粗末にしない厨房を守った人でした」
これは記録ではなく、親族の証言から選んだ言葉だ。マーガレットは口を引き結び、手にした布を握った。
「ビル・ホーク。庭師」
老人が一人、遠くで帽子を取った。
「ネッド・グレイ。馬丁」
厩の男たちが、並んで頭を下げる。
「ルーシー・ベル。裁縫係」
若い女が布で目元を押さえた。
「メイ・カーター。洗濯女」
メイの姉が、座ったまま両手で顔を覆った。
私は一人ずつ読んだ。役職ではなく、名前を。
逃げた者ではない。盗んだ者ではない。火事に紛れて消えた者ではない。ひとりずつ、そう言った。
最後まで読み終えると、紙を閉じた。少しだけ、指先が震えていた。
ロレッタが横へ来て、何も言わず次の紙を受け取る。
町医師が正式確認の概要を読み、警備隊長が再調査の経過を短く述べた。記録官が、旧記録の訂正手続きに入ることを告げた。
その後、献花になった。
ピーターは、古い練習用の鍵を一つ置いた。マーガレットは、小さな丸いパンを布に包んで置いた。
庭師ビルの縁者は、片眼鏡の代わりに小さな剪定ばさみを置いた。ネッドの弟は、馬具の飾り金具に似た新しい金具を置いた。
ルーシーの妹は、小さな裁縫鋏を一つ。メイの姉は、木櫛を一つ。
誰も派手に泣かなかった。ただ、一人ずつ前へ出て、置いて、戻る。
ヘンリーは最後まで後ろにいた。献花の列が途切れた後、彼は少しだけ前へ出た。手には何も持っていない。迷っているようだった。
やがて、彼は祭壇のかなり手前で立ち止まり、深く頭を下げた。そこまでだった。前へは来なかった。
それでよかった。
◇
式が終わると、町の人々はすぐには帰らなかった。あちこちで小さな声が交わされる。
トマスさんは逃げなかった。エルシーさんのパンを食べたことがある。ビルじいさんに花壇へ入るなと叱られた。 メイは歌が上手かった。
名前が、人の口へ戻っていく。その様子を見て、私はようやく少し息を吐いた。
「ヴィヴィアン様」
ロレッタが呼んだ。
「今だけは、クレアがいいわ」
そう言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「クレア様」
「何」
「読み終えましたね」
「ええ」
「止まりませんでした」
「父さんが後ろにいたから」
父を見ると、少し離れたところで町医師と話している。いつも通りに見せているが、今日はいつもより背中が疲れていた。
「ロレッタ」
「はい」
「ありがとう。名簿、読みやすかった」
彼女は一瞬だけ、返事に詰まった。
「お役に立てたなら」
「立ったわ」
「では、明日も」
「ええ。明日は持参金の回収と、ウォード家使用人の保護手配」
ロレッタはうなずいた。追悼式のすぐ後でも、仕事はある。それでいい。
生きている人間は、明日の食事と住む場所を考えなければならない。
式の片づけが始まる頃、ヘンリーが近づいてきた。ロレッタはその場にいた。離れなかった。
ヘンリーは彼女を見て、それから私を見た。
「今日、名を聞いた」
「ええ」
「全部、覚える」
「そう」
「私は前へ出なかった」
「見ていたわ」
「出る資格はないと思った」
「そうね」
ヘンリーは痛そうな顔をしていたかせ、言い返すことはなかった。そしてロレッタへ視線を向けた。
「君の名簿だと分かった」
「はい」
「読みやすかった」
ロレッタの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「ありがとうございます」
「仕事をしている君を、初めてちゃんと見た気がする」
「遅いですね」
「ああ」
「でも、見たことは覚えておいてください」
「覚える」
ヘンリーはそれだけ言い、下がる。
ロレッタは彼の背中を見ていた。未練かどうかは分からない。情かもしれない。痛みかもしれない。
けれど、戻るための視線ではなかった。
◇
夕方、旧邸跡地に人が少なくなった後、私は父と二人で祭壇の前に残った。
肖像入れはまだ布の上にある。母は静かにこちらを見ている。
「母さんに、何て言えばいいのか分からない」
私は言った。父は少し間を置いた。
「私もだ」
「父さんも?」
「ああ」
「ずるいわね。そこは父親らしく答えてくれるところじゃないの」
「無理だ」
短い返事だった。少し笑いそうになったが、笑えなかった。
「母さんは、怒るかな」
「私には怒るだろう」
「私には?」
「泣く」
「そうかな」
「たぶん」
私は肖像入れを見た。若い母は何も言わない。言ってくれたらいいのにと思った。
でも、言わないからこそ、こちらで考え続けるしかない。
「父さん」
「何だ」
「私は、クレアに戻るのかな」
「戻りたいのか」
「分からない」
「なら、今決めなくていい」
「ヴィヴィアンでもある」
「ああ」
「クレアでもある」
「ああ」
「面倒ね」
「名前は面倒だ」
父はそう言った。私は少しだけ笑った。今度は、ちゃんと笑えた。
そして式で使った名簿を、私は肖像入れの横に置く。母と祖父と、皆の名が並んでいる。
今日、完全に終わった訳ではない。裁判はこれからだ。金も戻さなければならない。ウォード家の下で働いていた者たちの生活も、急に途切れさせる訳にはいかない。
でも、今日は一つ終わった。逃げたことにされた人たちが、逃げていなかったと町の前で読まれた。
それだけで、十五年分の嘘に初めて穴が開いた気がした。
私は右手を開いた。掌の痕は、夕方の光ではほとんど見えない。それでも、そこにある。
名も同じだ。
見えなくされても、消えた訳ではなかった。




