28 裁きは紙の上から始まる
裁きは、誰かが高らかに鐘を鳴らして始まるものではなかった。
まず始まったのは、やはり様々な紙の整理だった。
十五年前のハートウェル家火災に関する記録。火災当日の通報。失われたとされた金庫と帳簿。ウォード家が翌日に出した資産保全の申し出。クレア・ハートウェル名義の委任状。ラドクリフ法務士の証言。地下貯蔵庫から見つかった骨と遺留品。小箱の中の覚書と裏帳簿。マリア・ハートウェルの真珠と装身具。ウォード家の使用人たちの証言。ロレッタの持参金に関する契約書と資金移動の記録。
それらが一つずつ写され、番号を振られ、封をされていく。
派手な処刑台より、ずっと地味なものだ。
だが、私はその地味さを信じていた。燃え残るものは、たいてい地味なものだ。鍵の傷。帳簿の数字。留め金の刻印。誰かが聞いた声。誰かが黙っていた理由。
それを一枚ずつ積むしかない。
「セドリックは、殺害の指示だけは否認しています」
警備隊長は資料の束を開いた。
役場の会議室には、もう見慣れた面々が並んでいた。隊長、記録官、町医師、父、ハンナ、ロレッタ、そして私。
ヘンリーはいない。今日は呼ばれていない。
「資産横領、偽造文書、遺体遺棄、証拠隠滅、放火未遂教唆、持参金不正流用。このあたりは崩せます」
隊長は淡々と続けた。
「ただ、十五年前に誰が誰を殺したか、誰が生きていた者を地下へ運ばせたかは、まだ詰める必要があります」
「アーネストの証言は」
父は訊ねる。
「父親を道連れにする意図が強い。使えますが、それだけでは弱い」
「声がした、という部分は?」
「重要です。ですが、誰の声かはまだ分からない」
その言葉で、部屋の中が少し重くなった。
母かもしれない。ルーシーかもしれない。メイかもしれない。あるいは、別の誰か。
分からない。でも分からないことを、分かったことにしてはいけない。
十五年前、ウォード家はそれをやった。逃げた。死んだ。不正を隠した。そういう言葉で、分からないものを都合よく埋めた。
私たちは、それをしない。
「医師の確認はどこまで」
「遺骨の数は、少なくとも七人分。状態が悪く、完全な一致は難しいものもあります。ただし、遺留品との照合で、トマス、エルシー、ビル、ネッド、ルーシー、メイはかなり近い」
「祖父と母は?」
自分で聞く。声は、普通に出た。
町医師は、少しだけ言葉を選んだ。
「オーガスト・ハートウェル氏と思われる遺骨は、杖の金具と近くで見つかった骨の特徴から、可能性が高いです。マリア夫人については、装身具の一部と、布の刺繍、骨格から見て、候補として最も強い」
「そう」
「正式には、近親者の確認資料も合わせます」
近親者。私だ。父もだ。
私は膝の上の手を見る。右の掌には、青い石の痕がある。
母が残した指輪の痕。十五年前、母の手から私へ渡ったもの。
「必要なものは出します」
父が言った。
「私も」
医師はうなずいた。
◇
会議の後、ロレッタは小部屋で持参金の書類を整えていた。
彼女はもう、ウォード家へ戻っていない。実家の代理人が来るまで、ホテルに滞在している。離婚の手続きは始まったばかりだが、少なくとも彼女自身は、もう戻るつもりがない。
「こちらの金額、二度動いています」
ロレッタが紙を差し出した。
「最初は昨年冬。次は今年の春。名目は設備投資ですが、実際は旧負債整理口座へ」
「よく見つけたわね」
「同じ数字が、別の帳面にありました」
「いい目になってきたわ」
ロレッタは少しだけ困ったように瞬きした。
「褒められると、まだ落ち着きません」
「慣れなさい」
「はい」
その返事も、以前より早くなった。
机の上には、ウォード家の使用人名簿も置いてある。アン、ベス、オーウェン、マーサ、帳簿係補佐ダン。名前の横には、証言内容と、関与の程度が書き分けられていた。
脅されて黙った者。事情を知らずに手を貸した者。知っていて何度も手を貸した者。直接命じた者。曖昧な者。
それらは全て分ける。面倒でも、分ける。
「ダンは、軽くは済まないでしょうね」
「ええ。帳簿を改竄して金を受け取った。事情は記録するけれど、そこは消えない」
「アンは」
「薬代で縛られていた。証言もした。責められない訳ではないけれど、同じ扱いにはしない」
「ベスは保護対象」
「そう」
ロレッタは静かに息を吐いた。
「こうして分けると、家という言葉がずいぶん乱暴に見えます」
「そうね」
「今まで私は、ウォード家の者、とまとめて考えていました」
「自分のことも?」
「はい」
彼女は紙の端を揃えた。
「でも、今は少し違います。ウォード家にいた私と、ロレッタという私を、分けなければならないのだと思います」
「簡単ではないわ」
「分かっています」
「分かっていないことは、分かっていないと書く」
「はい」
ロレッタは小さく笑う。まだ疲れた表情だったが、自分から笑った。
◇
午後、ヘンリーが来た。
会議室ではなく、ホテルの受付で名を告げ、ハンナに取り次ぎを頼んだ。以前のように押し通ろうとはしなかった。
私が会ったのは、小応接室だった。ロレッタは同席しない。父もいない。
ハンナだけが扉のそばに立っている。
椅子の横に立ったまま、ヘンリーは帽子を両手で持っていた。
「今日は、何の用かしら」
「これを」
差し出されたのは、紙束だった。そこには、彼の字で名前が書かれている。
トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。
それぞれの横に、彼が聞いて回ったことが添えてある。
ピーター。金物屋。トマスの甥。鍵は嘘をつかない。
マーガレット。パン屋。エルシーの姪。使用人の食事を粗末にしない家だった。
ネッドの弟。馬具飾りの由来。
ルーシーの妹。手首に結んでいた小さな裁縫鋏の話。
メイの姉。木櫛の模様。
字は整っていなかった。書き慣れた事務の字ではない。迷いながら書いた字だった。
「記録に使えるかは分からない」
ヘンリーは紙束を両手で持ったままだった。
「だが、縁者から聞いた話だ。正式な証言は別に取るべきだが、誰に会えばいいかは分かると思う」
「受け取ります」
私は紙束を手元へ置く。ヘンリーは少しだけ頭を下げた。
「ロレッタに会いに来たのではないのね」
「会いたいとは思っている」
「そう」
「だが、会わせてくれとは言わない」
「なぜ」
「彼女が戻らない人ではなく、離れた人だから」
私は紙束から目を上げる。ヘンリーはまっすぐこちらを見てはいなかった。少し横、机の端あたりを見ている。
「言葉を直したのね」
「直しただけだ」
「ええ」
「それで何かが戻る訳ではない」
「そうね」
「分かっている」
以前なら、この「分かっている」は聞き流したかもしれない。だが今は少しだけ、違って聞こえた。
ヘンリーは帽子を持ち直す。
「父は、最後まで家のためと言った」
「ええ」
「兄は、父に似たと言った」
「そうね」
「私は、知らないままにされた。だが、それに甘えていた」
「その紙にも書いた?」
「書いた」
「なら、残しておきなさい」
「見せるものではないと思った」
「見せなくていいわ。消さなければ」
ヘンリーは小さくうなずいた。
「あなたは―― 君は」
言いかけて、止まった。私は待つ。
「いや。今日は、これだけだ」
「そう」
「ロレッタに、仕事の邪魔をしたと伝えてほしい」
「伝えるかどうかは、こちらで決めます」
「そうだな」
ヘンリーはもう一度、頭を下げる。だが部屋を出る時、扉の前で一度だけ止まった。
「クレア」
今度は、すぐに言い直さなかった。私は返事をしない。
ヘンリーは振り返らないまま続けた。
「その名を呼ぶ権利が、私にないことは分かっている」
「ええ」
「だから、これは返事を求める呼びかけではない。ただ、私はその名も覚える」
「好きになさい」
「そうする」
彼は出て行き、ハンナが扉を閉める。
「変わりましたね」
「少しね」
「許しますか?」
「いいえ」
「でしょうね」
「でも、紙は使わせてもらう」
「はい」
私はヘンリーの紙束を見た。感情とは別に、役に立つ。
それでいい。
◇
夕方、町の掲示板に次の告知が貼られた。
――十五年前のハートウェル家火災について、再調査結果の一部を公示する。
――当時、逃亡したとされた使用人たちは、旧ハートウェル邸跡地地下より発見された遺留品と照合中であり、逃亡説は取り消しを前提に調査が進められている。
――ハートウェル家の不正疑惑についても、ウォード家による偽造文書および資産横領の疑いが強く、記録の訂正手続きに入る。
町の人々は、その告知を読んだ。読んで、昨日より長く立ち止まった。
誰かがトマスの名を口にした。別の誰かが、エルシーのパンの話をした。庭師のビルに叱られた子供時代を思い出す老人がいた。メイの姉が、掲示板の前で泣いた。
泣いてはいたが、声は上げなかった。
◇
その夜、私は旧ハートウェル邸跡地へ行った。
父も来た。ハンナは少し離れて待っている。
掘り返された場所には布がかけられ、警備員が立っている。土の匂いがまだ濃い。雨の後の湿り気も残っていた。
「ここから始まったのね」
「正確には、もっと前だ」
父が言った。
「そうね」
融資。嫉妬。野心。金。見栄。黙った口。遅れた支払い。使われた女たち。逃げられた婚約者。知らされなかった次男。
火がつく前から、火種はいくつもあった。けれど、私にとってはここだ。この土の下へ、皆が押し込まれた。
私は目を閉じなかった。見るために戻ってきたのだから。
「追悼式をします」
「いつ」
「身元確認の正式記録が出たら。旧邸跡地で」
「人が集まる」
「集まればいいんです」
「ウォード家の者も来るかもしれん」
「来たければ、後ろで聞けばいい」
父は少しだけうなずいた。
「マリアの肖像は?」
「追悼式の後で見ます」
「今でなくていいのか」
「今は、まだ仕事が多いから」
「逃げているだろう」
「少し」
「なら、少しで済ませろ」
「父さん」
「何だ」
「母さんも、そう言いそうね」
父は黙った。
土の匂いの中で、私達はしばらく二人で立っていた。
十五年前、私は父に怒った。母を置いて行った人。死んだことになっていた人。
今でも、その怒りが全部消えた訳ではない。
でも、同じ場所で同じ土を見ている。それくらいには、ここまで共にやって来た。
「追悼式の名簿は、私が読みます」
「読めるか」
「読むわ」
「止まったら」
「続きを読んで」
「分かった」
父の返事は短い。だがそれで十分だった。
裁きはまだ始まったばかりだ。判決も、処分も、財産の返還も、持参金の回収も、身元確認も、記録の訂正も残っている。
けれど、逃げたことにされた人たちの名は、もう町の掲示板に近いところまで戻ってきた。
私は右手を開く。火傷の痕が、暮れかけた光の中で少しだけ白く見えた。
痛まない。でも、そこにある。
同じように、名前も戻す。痛まなくなっても、消えないように。




