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死んだはずの令嬢は鉱山女王となって戻る〜奪われたもの、消された名前を取り戻すために〜  作者: さんけい


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25 肖像入れの女

 肖像入れは、翌朝、父の手で開かれた。

 小さな銀の蓋は黒ずみ、縁には細かな傷がある。十五年の間、誰かが何度も開け閉めした痕だと父は言った。私は机の向こうに座り、その言葉だけを聞いた。


「見るか」

「見ます」


 そう答えるまでに、少し時間がかかった。

 父は肖像入れを布の上に置き、こちらへ向けた。

 中の絵姿は、私の知っている母より少し若い。髪をゆるく結い、首元に真珠を巻いている。口元は笑っていると言うほどではないが、怒ってもいない。こちらを見る目が、ただ静かだった。

 母だ。それだけで、息が浅くなる。

 火事の夜の母ではない。血に濡れ、髪を乱し、私の手に指輪を押し込んだ母ではない。まだ穏やかな部屋で、椅子に座り、誰かに描かれている母だ。


「これは、いつのもの?」

「お前が生まれる前だろう」


 父の声は低かった。


「父さんが持っていたものでは」

「ない」

「では、祖父が?」

「たぶん、オーガスト殿のものだ。マリアがハートウェル家へ戻る前後の頃かもしれない」


 父は肖像入れから目を離さなかった。

 私は初めて、父が母を見ているところを、きちんと見た気がした。十五年間、父は母の名を何度も口にした。調査の中で、書類の中で、私が怒った時も、泣いた後も。けれど、今の父はそれとは違っていた。

 ただ一人の女を見ていた。


「エレノーラは、これを持っていたのね」

「ああ」

「何のために?」

「自分が彼女に勝ったことを確かめるためだろう」


 父の答えは短かった。短いが、外れていないと思った。

 真珠を首に巻く。香水瓶を棚に置く。肖像入れを開ける。母のものを一つずつ手元に置き、まだ自分の方が生きていると確かめる。

 ぞっとするほど寂しい勝ち方だった。


 ◇


 その日の昼、エレノーラから面会の申し出があった。

 場所はウォード家ではなく、役場の小部屋。警備隊の立ち会いあり。本人が希望したという。

 父は反対した。


「今、会う必要はない」

「会います」

「向こうは崩れている。何を言うか分からん」

「だから聞くのです」

「お前が傷つく」

「今さらです」


 父は私を見た。十五年前なら、そこで命令したかもしれない。行くな、と。だが今は、言わなかった。


「私も行く」

「ええ」


 役場の小部屋は、昨日の会議室よりずっと狭かった。机が一つ、椅子が四脚。窓は高い位置にあり、外の通りは見えない。部屋の隅に警備隊の女が立っている。

 エレノーラはすでに座っていた。

 首元には何もない。髪も飾っていない。白粉は塗っているが、昨日より薄い。いや、薄いのではなく、塗る手が乱れたのだろう。頬の端に粉が残っている。

 彼女は私を見ると、最初に首元を見た。真珠があるかどうかを確かめたのだと分かった。

 何もつけていない。


「来たのね」

「お望みだと聞きました」

「望んだわ」


 彼女は机の上に両手を置いた。指先が乾いている。


「あなたに聞きたいことがあるの」

「どうぞ」

「あなたは、あなた方は、一体マリアの何なの」


 父がわずかに動く。私は手を膝の上で重ねた。


「なぜそう思うのですか」

「あなたがマリアに似ているから」

「セドリック様にも言われました」

「あの人も言ったの」


 エレノーラは小さく笑った。


「嫌ね。あの人、そういうところだけはよく見るの」

「何が似ていますか」

「目」


 即答だった。


「静かなふりをして、人を責める目」

「母は、あなたを責めたのですか」


 エレノーラは目を大きく見開く。


 ――母。


 その言葉を、私は初めて彼女の前で使った。

 父の手が、椅子の肘掛けにかかる。エレノーラは私を見つめた。


「母」

「ええ」

「そう―― そうなの」


 彼女は息を吸った。


「あなたやっぱり、生きていたのね」

「私は、火事の夜に死んだことにされたようですから」

「消えたのよ」


 エレノーラの声が急に細くなった。


「あの夜、あの子がいないと聞いた。クレアが見つからないと。セドリックは、燃えたのだろうと言った。アーネストは、探すなと言った。私は、それを聞いた」

「探そうとは」

「しなかったわ」


 彼女は逃げなかった。その一点だけは、正直だった。


「どうして?」

「怖かったから」

「私が生きていることが?」

「違う」


 エレノーラは首を振った。


「あなたが生きていたら、全部戻ると思ったの。ハートウェル家も、マリアの名も、真珠も、あの人たちの目も。全部」

「だから死んだことにした」

「私がしたんじゃない」

「止めなかった」

「止められる訳がないでしょう!」


 声が跳ねた。警備隊の女が一歩動きかける。私は手で止めた。


「私は()()だったの。家のことは夫が決める。アーネストが動く。私は、部屋で待っていた。持ってこられたものを受け取った。それだけ」

「それで、十五年間使ってきた」

「そうよ」


 エレノーラは机に置いた手を握った。


「使ったわ。だって、持ってきたのだもの。私の前に置いたのだもの。使ってよいと言ったのだもの。私だって、家を守っていた。セドリックの妻として、ウォード家の奥方として」

「母の肖像入れも?」

「あれは」


 初めて、エレノーラの声が途切れた。


「あれは、捨てるつもりだった」

「捨てなかった」

「捨てられなかったのよ」

「なぜ」

「あの女の顔を、忘れたくなかったから」


 エレノーラは続けた。


「嫌いだった。大嫌いだった。静かで、上品で、夫がいなくても崩れなくて、父親に大切にされて、娘までいて。あの女は、何も欲しがらない顔をしていた。でも、全部持っていた」

「母は父を失ったと思っていたでしょう」

「知っているわ」


 エレノーラは笑った。


「だから余計に嫌だったの。失った女でさえ、私より綺麗に見えた」


 父の息が、少しだけ乱れた。

 母は、父を失った女として見られていた。

 でも、父は隣にいる。生きているのに、十五年前までは母のそばにいなかった。いられなかった。


「私は、あの女になりたかった訳じゃない」


 エレノーラは言った。


「でも、あの女に勝ちたかった」

「……それで、勝てましたか」


 私が聞くと、彼女は私を見た。今度は怒鳴らなかった。笑いもしなかった。


「勝ったと思ったわ」

「真珠で?」

「ええ。真珠で。香水で。肖像入れで。あの女のものが私の部屋にあるだけで、勝ったと思えた。馬鹿みたいでしょう」

「ええ」


 私は答えた。


「馬鹿みたいです」


 エレノーラの唇が震える。泣くのかと思ったが、そうではなかった。


「あなたは、母親に似ていないところもあるのね」

「そうでしょうね」

「マリアは、そんなふうには言わなかった」

「母なら、もっと優しかったかもしれません」

「嫌な娘だわ」

「あなたに好かれるために来たのではありません」


 父が低く私の名を呼びかけ、止めた。

 ヴィヴィアン、と言いかけたのか、クレア、と言いかけたのかは分からない。

 エレノーラはそれに気づいた。


「クレア」


 彼女は、初めてその名を呼んだ。返事はしない。


「あなた本当に、クレアなのね」

「その名を呼ぶ権利が、あなたにあると思いますか」


 エレノーラは口を閉じた。


「いいえ」


 少しして、そう言った。


「ないわね」


 その返事は意外だった。

 彼女は椅子の背にもたれた。急に年を取ったように見える。


「私は、あの日から一度も眠れていないの」

「眠っていたでしょう」

「眠ったわ。でも、起きるの。真珠が首にあるか確かめるために。肖像入れを開けるために。あの女がまだ箱の中にいるか見るために」

「それを私に言って、何になるのですか」

「何にもならない」

「では、なぜ」

「あなたが生きているなら、言える相手がいると思ったのよ」


 勝手だ。あまりにも勝手だ。

 死んだことにした相手が生きていたから、自分の眠れない夜を聞いてほしいというのか。

 私は机の下で右手を握る。火傷は痛まない。けれど、握る癖は残っている。


「私は、あなたを慰めません」

「分かっているわ」

「許しません」

「それも」

「母のものは戻していただきます」

「もう取られたわ」

「違います、()()()のです」


 エレノーラは目を閉じる。その頬に、ようやく涙が落ちた。

 泣けば済むと思って欲しくはなかった。けれど、泣くことすら、彼女にはもう遅すぎるように見えた。


「セドリックを愛していたのですか」


 その問いに、エレノーラは目を開けた。


「愛?」

「ええ」

「分からないわ。あの人に選ばれたかった。あの人の妻でいたかった。あの人の家の奥方でいたかった。それを愛と呼ぶのかしら」

「知りません」

「でしょうね」


 彼女は小さく笑った。


「あなたも、優しくない」

「母ほどは」

「マリアは優しかった?」

「ええ」


 私は答えた。


「でも、火事の夜、母は男に花瓶を叩きつけました」


 エレノーラが目を見開いた。


「そう」

「ええ」

「それは、見たかったわ」


 その言葉に、怒りより先に、奇妙な疲れが来た。

 この人は本当に、最後まで母を見ている。嫌い、勝ちたい、忘れたくない、見たかった。

 母を奪いながら、母に縛られていた。


「見せません」


 私は言った。


「これは、私だけの記憶です」


 エレノーラはうなずいた。


「そうね」


 面会はそこで終わりにした。彼女がこれ以上話しても、同じところを回るだけだ。記録に必要な言葉はもう出た。私に必要な言葉があったかどうかは、まだ分からない。


 ◇


 部屋を出ると、廊下にロレッタがいた。


「大丈夫ですか、とは聞きません」

「それ、昨日も聞いたわ」

「覚えています」

「なら、お茶を」

「用意してあります」


 私は少しだけ息を吐いた。父が隣で、ようやく肩の力を抜いた。


「よく怒鳴らなかった」

「怒鳴った方がよかった?」

「いや」

「父さんこそ」

「私は花瓶のところで危なかった」

「でしょうね」


 ロレッタが何も言わずに先へ歩き、私たちに少し距離をくれた。そういうことも、覚え始めている。



 その夜、エレノーラは自室へ戻された。

 宝石箱は空に近い。警備隊の確認が終わるまでは、持ち出されたものは戻らない。そしておそらく、戻らない。

 彼女は鏡の前に座った。首に手を当てる。真珠の冷たさはもうない。けれど、そこには何かが残っている。

 重みではない。跡でもない。十五年、自分がそこに巻いていたものの正体だ。

 盗んだ女の名。勝ったつもりでいた自分。眠るたびに確かめなければならなかった不安。

 全部が、真珠より重かった。

 エレノーラは鏡の中の自分を見た。


「あの女になりたかった訳じゃない」


 もう一度、呟いた。返事はない。

 肖像入れの中のマリアも、もういない。

 鏡の中には、エレノーラだけが残っていた。

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