24 奥方の首に残ったもの
セドリックが役場から警備隊へ移された頃、ウォード家の奥では、エレノーラが宝石箱を床に落としていた。
箱は二つあった。ひとつは正面の棚に置かれていた普段使いのもの。もうひとつは衣装部屋の奥、古いショールの下に隠されていた小箱だ。
真珠はすでにない。青い石の髪飾りも、警備隊が確認のため持って行った。けれど小箱の中には、まだいくつか残っていた。
銀の香水瓶。刺繍入りのハンカチ。小さな肖像入れ。青い石の片耳飾り。母のものだと、私はまだ断定していない。だがエレノーラには、もう分かっていたのだろう。
「私のものよ」
彼女は銀の香水瓶を握りしめた。
部屋にいたのは、古い侍女アンと、警備隊から派遣された女の立会人、それからロレッタだった。
ロレッタは義母の部屋へ入ることを望まなかったが、ウォード家の内部を知る者として同席を求められた。彼女は断らなかった。
「誰にも渡さない」
「奥様、それは確認のために」
アンが言いかけると、エレノーラは彼女を睨んだ。
「あなたも裏切るのね」
「私は」
「薬代を出してやったでしょう。妹を助けてやったでしょう。それなのに」
アンは唇を引き結んだ。
昔なら、ここで謝っただろう。奥様のおかげです、と頭を下げただろう。だが今日は違った。
「……だから、黙っておりました」
アンは言った。
「十五年、黙っておりました」
「なら最後まで黙っていればいいのよ!」
エレノーラは香水瓶を床へ投げつけた。銀は割れなかった。床板に跳ねて、鈍い音を立てる。立会人がすぐに拾い、布の上へ置いた。
そしてエレノーラは、今度はじっと注視していたロレッタへ向いた。
「あなたが持っていったのね」
「真珠のことでしたら、はい」
「よくも」
「持ち主の確認のためです」
「持ち主? あれは私が十五年つけていたのよ。私の首に、私の服に、私の家にあったの」
「留め金には、M・Hとありました」
「だから何!」
エレノーラの声が高くなった。
「刻まれていたから何だというの。死んだ女の名でしょう。死んだ女のものを、生きている私が使って何が悪いの」
ロレッタは少しだけ目を伏せる。怒りではない。たぶん、失望でもない。言葉を受け止めて、余計なものを足さないためだ。
「それを、記録していただけますか」
彼女は立会人へ向いた。女の立会人はうなずき、紙に書きつける。
エレノーラはそれを見て、初めて自分の言葉が残されることに気づいたらしい。
「……違うわ」
「何が違うのですか」
「そういう意味では」
「では、どういう意味でしょう」
静かなロレッタの声に、エレノーラは答えられなかった。
彼女は衣装部屋へ逃げるように飛び込む。だがそこにも逃げ場はない。棚は開けられ、箱は並べられ、布包みは一つずつ確認される。
昔なら、彼女が一言言えば誰も触れなかった場所だ。今は、警備隊の立会人が番号を振り、アンが中身を読み上げ、ロレッタが確認する。奥方の部屋ではなく、証拠の置き場になっていた。
「これは」
アンが小さな肖像入れを開く。中には、色褪せた細密画が入っていた。若い女。暗い髪。柔らかく結われ、首元には真珠がある。
――マリアだ。
ロレッタはそれを見て、息を止めた。エレノーラが振り返る。
「見ないで……」
「確認が必要です」
「見ないでと言っているの!」
彼女は肖像入れを奪おうとする。アンがとっさに手を引く。立会人が間に入る。エレノーラの指が空をつかみ、爪が手の甲を引っかく。
細い血が出た。彼女はそれを見下ろし、急に低い声で言った。
「……私は血は見ていない」
ロレッタが義母を見る。
「奥様」
「私は血は見ていない。火もつけていない。誰も刺していない。私は、セドリックが持ってきたものを受け取っただけ」
アンの手が、肖像入れを持ったまま震えた。立会人が急いで書く。
「私は奥方だった…… 家を守るのが仕事だった…… 夫が、もうあの女はいないと言った。マリアはいない。ハートウェル家は終わった。だから、使えるものは使えと……」
「それで、お使いになったのですね」
ロレッタは問いかける。
「ええ、使ったわ!」
エレノーラは笑う。笑い? いや、喉を削る音と言っていい。
「使ったわよ! 真珠も、香水瓶も、ハンカチも! だって、彼女はもういないのよ? いない女が、いつまでも人の目を奪うなんておかしいでしょう!」
「マリア夫人が、ですか」
「あの人は、何も言わないくせに、いつも勝つの……」
言葉が崩れ始める。エレノーラは椅子に腰を下ろす。足がもたなかったのだろう。
「セドリックは私の夫よ。ウォード家は私の家よ…… それなのに、あの女を見る時だけ、皆、少し声を変えた。上品だ、静かだ、賢い―― ハートウェル夫人はよくできた方だ、と。私の前で……」
アンは黙っていた。ロレッタも黙っていた。
「だから、あの真珠をつけた時、やっと私の方が上になったと思ったの。死んだ女のものを、生きている私がつける。私の首で光る…… 皆、似合うと言う…… セドリックも……」
エレノーラは首元へ手をやる。そこには何もない。指が空をなぞる。
「……ない」
彼女は呟いた。
「……返して……」
「確認が終わるまでは戻りません」
立会人は告げる。エレノーラはその女に目をやる。
「戻って、くるの?」
誰も答えなかった。
戻らない。おそらく、それを全員が分かっていた。
真珠も、香水瓶も、肖像入れも、持ち主が確認されればハートウェル家の遺品として扱われる。エレノーラの首へ戻ることはない。
エレノーラは立ち上がりかけ、また座った。
「……ヴィヴィアン・ヴェイル」
彼女はその名を口にした。
「あの女が来てからよ」
「いいえ」
ロレッタが言った。
「違います」
「何が」
「十五年前からです」
エレノーラはロレッタを見た。
「あなたも、そうやって私を責めるのね」
「ええ、責めています」
ロレッタははっきり言った。
「ですが、ヴィヴィアン様が来たから壊れたのではありません。隠していたものが見えるようになっただけです」
「あなたまで」
「はい」
ロレッタの指は少し震えていた。それでも言葉は止めない。
「私も、この家に嫁いでから、見ないで済ませてきたことがあります。ですから、私は奥様だけを責めて綺麗な場所へ立つつもりはありません。でも、今見えたものを、また隠すことはしません」
エレノーラは声を出さなかった。その代わり、青い石の片耳飾りを手に取った。
まだ番号札をつける前だった。
「奥様」
アンが止める。エレノーラは耳飾りを握りしめた。
「これは違う」
「確認させてください」
「違うと言っているでしょう!」
彼女は窓の方へ向かった。外へ投げるつもりだと、ロレッタはすぐに分かった。
「止めて!」
短く言うと、立会人とアンが動く。
エレノーラは窓を開ける前に押さえられた。耳飾りは手の中にある。指を開かせようとしても、彼女は離さない。
「これは私の」
「奥様」
「私のよ。真珠も取られた。髪飾りも取られた。これくらい」
「それがマリア夫人のものなら」
「違う!」
「違うなら、確認すれば済みます」
「確認、確認、確認!」
エレノーラはその言葉を真似るように繰り返した。
「紙に書く、箱に入れる、番号をつける、まるで私が、盗人みたいに!」
アンが小さく言った。
「あの、奥様……」
「何よ」
「その…… 盗んだものを持っていたなら、盗人です」
部屋の中が静まりかえる。
エレノーラはアンを見た。長年仕えた侍女に、そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
「あなた」
「奥様に育てていただいた恩はあります。妹の薬代も、感謝しております。でも、それとこれは別です」
アンは頭を下げた。下げたまま言った。
「私は、あなた様に、もっと早く言うべきでした!」
エレノーラの手から、耳飾りが落ちた。床に当たり、小さな音がする。
立会人がすぐに拾った。
「青石片耳飾り、一点」
彼女は書く。
エレノーラは椅子の前に立ったままだった。首元には何もない。手にも何もない。
部屋の中の宝石は、ひとつずつ布の上に並べられ、番号をつけられていく。
家の奥方が、飾るものを失っていく。
◇
その日の夕方、エレノーラの部屋から確認品が運び出された。
真珠三連はすでに町医師のもと。青い髪飾り、銀の香水瓶、刺繍入りのハンカチ、肖像入れ、青石片耳飾り。どれも正式な確認へ回る。
屋敷の使用人たちは、廊下の端でそれを見送った。
誰も声を出さない。けれど、かつて奥方の部屋にしかなかったものが箱へ入れられ、外へ出ていくのを、全員が見た。
エレノーラは部屋に残された。扉の外には立会人と警備隊の女が一人。侍女アンは、部屋へ戻ることを求められたが、少し休ませてほしいと願い出た。
許され、アンは廊下の椅子に座り、両手で目元を覆う。泣き声は出さなかった。
その姿を、ロレッタは少し離れた場所から見ていたが、声はかけなかった。
今はどんな言葉をかけても軽くなる。代わりに、彼女は小さな紙へ書いた。
――アン。十五年沈黙。理由、妹の薬代。今日、奥様へ盗人と告げる。
そこまで書いて、ペンを止めた。人の名を書くのは、やはり重い。
◇
夜、ホテルへ報告が届いた。
ロレッタが自分で持ってきたのだ。彼女は部屋へ入るなり、鞄から書類を出した。
「エレノーラ夫人の部屋から、追加で五点」
私は受け取った。一覧に目を通す。
青い髪飾り。銀の香水瓶。刺繍入りハンカチ。肖像入れ。青石片耳飾り。
肖像入れの欄で、指が止まった。
「中身は」
「マリア夫人の肖像と思われます」
ロレッタの声は少しかすれていた。
私は紙を置く。すぐには言葉が出なかった。母の肖像。そんなものまで、あの家にあったのか。
「見ますか」
ロレッタが聞いた。
「今はいいわ」
声は出た。思ったより普通だった。父が部屋の奥からこちらを見ている。
「あとで」
「はい」
ロレッタはうなずいた。
「エレノーラ夫人は、かなり崩れています。マリア夫人への嫉妬を口にしました。セドリック様から、死んだ女には要らないと言われたとも」
「記録は」
「あります」
「アンは」
「証言を続けると思います。ただ、少し休ませた方が」
「そうね」
私は報告書を箱に入れる。箱が重くなる。
母のものが戻る。戻るたびに、私の中のどこかがきしむ。
真珠だけではなかった。髪飾りも、香水瓶も、肖像入れも。母のそばにあったものが、十五年、エレノーラの部屋にあった。
あの女は、それを勝利の印として見ていた――
私は机の端に手を置く。右の掌の火傷は痛まない。痛まないのに、指が少し曲がった。
「ヴィヴィアン様」
ロレッタが声をかけた。
「大丈夫ですか、とは聞きません」
「賢明ね」
「ただ、お茶を」
「ありがとう」
ハンナがすぐに動いた。父が私の近くへ来る。
「肖像入れは、私が先に見る」
「なぜ」
「お前が今見ると、仕事にならん」
「父さんは」
「私はもう何度も仕事にならなくなった」
少しだけ、返事に詰まる。
父は母を失った。私より長く、別の形で。それを私は時々忘れる。
「お願いします」
「ああ」
ロレッタは黙って聞いている。その沈黙は、仕事の邪魔をしないためのものだった。
この人は、少しずつ覚えている。何を言うかより、何を言わないかを。
◇
その夜、ウォード家では、エレノーラが鏡の前に座っていた。
宝石箱は空に近い。首元には何もない。髪にも何もない。香水の匂いもない。肖像入れもない。
彼女は鏡を見た。
そこにいるのは、奥方ではなかった。少なくとも、彼女が信じてきた奥方ではない。
真珠を巻き、夫に選ばれ、家を守り、死んだ女に勝ったはずの女ではない。
ただ、年を取った女がいる。
エレノーラは自分の首に両手を当てた。真珠の重みはもうない。
だが、そこだけがまだ冷たかった。




