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死んだはずの令嬢は鉱山女王となって戻る〜奪われたもの、消された名前を取り戻すために〜  作者: さんけい


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22 戻らない人

 扉の向こうで、ヘンリーの声がまだ聞こえていた。


「ロレッタ!」


 廊下の壁に声が当たり、少し遅れて薄くなる。

 ロレッタは足を止めない。黒い書類鞄を持つ指は白いままだったが、歩幅は乱れていない。


「気にしなくていいわ」


 私がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。


「はい」


 隣の部屋は、先ほどの小応接室より少し狭かった。窓は一つ。机が二つ。壁際に書類棚。紅茶は用意していない。ここは慰めるための部屋ではなく、仕事をするための部屋だった。

 ロレッタは中へ入ると、扉の前で一度だけ振り返る。ヘンリーの声はもう聞こえない。

 それでも、彼女の耳には残っているのだろう。


「お座りになって」

「ありがとうございます」


 ロレッタは椅子に腰を下ろした。鞄を膝の上に置いたまま、留め金へ指をかける。開けるのに少し手間取った。指先が震えている。


「急がなくていいわ」

「いえ」


 彼女は留め金を開けた。中から書類を出す。

 離婚の申立てに必要な控え、ウォード家の使用人名簿、ロレッタ自身の持参金に関する記録、婚姻時の契約書の写し。

 数日前まで彼女が見向きもしなかった種類の紙が、今はきちんと分けられている。


「こちらで、よろしいでしょうか」


 差し出された束を受け取り、私は上から順に確認した。


「ええ。持参金の分は、あなたの実家の代理人にも写しを送る必要があるわ」

「すでに使われている可能性は」

「あります」

「やはり」

「ただし、使われていたなら取り戻します。婚姻契約に条項があるから」


 ロレッタはそこで、ようやく少し息を吐いた。


「今まで、その条項を読んだことがありませんでした」

「大抵の人はそうよ」

「読まなくても守られると思っていました」

「守る者がまともならね」


 ロレッタは口元をわずかに引く。笑みというには弱い。だが、泣くよりはずっといい。


「私は、ずいぶん何も見ていませんでした」

「今、見ているでしょう」

「遅いですね」

「遅くても、見ないよりはいいわ」


 自分で言って、少しだけ嫌な気分になった。

 同じことをヘンリーへは言わなかった。彼にも遅くても見ないよりはいい、と言えたかもしれない。だが、言いたくなかったのだ。

 ロレッタは紙の端を揃える。


「ヘンリーは、昨日より怒っていました」

「ええ」

「私も、あの人を怒らせたかった訳ではありません」

「そうでしょうね」

「ですが、怒らせずに離れる方法は、もう残っていなかったのだと思います」


 私は返事をしなかった。ロレッタは、自分でそこへ辿り着いている。なら、こちらが余計な言葉を足す必要はない。


「ヴィヴィアン様」

「何」

「私は、あの人を嫌いになりきれません」

「そう」

「でも、戻りません」

「ええ」

「嫌いにならなければ離れられないと思っていました」


 彼女は膝の上の手を見た。


「でも、それは違いました」

「違うわね」

「はい」


 短い返事だった。その後、ロレッタは自分で一枚の紙を引き寄せた。


「では、次は何を」

「まず、この持参金契約の条項を読みます。声に出して」

「声に?」

「ええ。自分のものに関わる紙は、声に出した方がいい。どこで息が詰まるか分かるから」


 ロレッタはうなずき、紙を持った。

 読み始める声は少し硬い。けれど、止まらなかった。


 ◇


 一方その頃、ヘンリーは小応接室に一人残されていた。

 冷めた紅茶が三つある。ヴィヴィアンのカップは少し減っている。ロレッタのカップは、ほとんど手つかずだった。自分のものは、最初から飲んでいない。

 部屋の中には、今までにロレッタに、ヴィヴィアンに先ほど自分が荒げた声の残りだけがある。

 思い返すと、どれもひどい言葉だった。

 分かっている。分かっているのに、まだ腹の底で何かが煮えている。

 ここまでした。そう思ってしまう。

 トマスの甥に頭を下げた。エルシーの姪に冷たくされた。それでも聞いた。真珠を出した。父の書類を止めた。ロレッタに謝った。ここまでした。

 それでも、ロレッタは戻らない。

 その事実が、どうしても呑み込めない。

 努力は代金ではない。ロレッタはそう言った。ヴィヴィアンも、きっと同じことを言うだろう。

 ヘンリーは椅子に座った。座ると、急に膝から力が抜けた。

 テーブルの上に、ロレッタの残した紙片が一枚あった。離婚の正式書面は代理人から届く、と彼女は言った。これはその控えではない。ただの覚書だ。

 そこに、彼女の字で数行書いてある。


 ――夫婦であった間に話す機会はあった。

 ――知らなかったことと、戻ることは別。

 ――自分の人生は自分で動かす。


 ヘンリーは、その三行目で手を止めた。


 ――自分の人生を自分で動かす。


 ロレッタは、そんなことを考えていたのか。いつから?

 いや、いつから考え始めたのかではない。なぜ、自分はそれを知らなかったのか。

 ……また、知らなかった。

 ヘンリーは覚書を置いた。知らなかった、という言葉が、もう喉につかえる。


 廊下に出ると、ハンナがいた。


「お帰りですか」

「……ああ」

「馬車をお呼びしましょうか」

「いや、歩く」

「雨になります」

「構わない」


 ハンナはそれ以上止めなかった。

 ホテルの外に出ると、空は確かに暗かった。夕方にはまだ早いのに、雲が低い。石畳には乾いた馬車の跡がいくつも残っている。

 ヘンリーは歩いた。屋敷へ戻る道ではなく、町の南側へ。

 金物屋の前を通ると、ピーターが戸を閉めるところだった。ヘンリーを見たが、声はかけない。ヘンリーもかけられなかった。

 パン屋の前では、マーガレットが店先の籠を片づけていた。彼女はヘンリーを見ると、少しだけ眉を上げた。


「今日は買うのですか」


 ヘンリーは立ち止まった。


「一つ、ください」

「何を」

「昨日のものと同じものを」


 マーガレットは何も言わず、丸いパンを一つ紙に包んだ。ヘンリーは代金を払う。


「昨日のパンは」

「食べた」

「味は?」

「同じかどうか、わからなかった」

「でしょうね」


 彼女は代金を箱へ入れた。


「わからないなら、また買えばいいです。パンは焼けますから」

「でも、人は戻らない」

「そうです」


 短い返事だった。

 ヘンリーは紙包みを持って店を出る。雨が降り始めた。細い雨だった。

 屋敷へ着く頃には、肩が濡れていた。玄関の使用人が慌ててタオルを持ってくる。ヘンリーは礼を言い、受け取った。

 使用人はタオルを持つ手を一瞬止めた。礼を言われると思っていなかったのだろう。

 ヘンリーはそれにもまた、少し傷ついた。傷つく資格などないのに。


 ◇


 食堂には誰もいなかった。

 エレノーラは部屋にこもり、セドリックはまだ警備隊との書類対応で書斎にいる。アーネストは拘束されたままだ。

 ヘンリーは自室へ戻り、濡れた上着を脱いだ。机の上には、四つ葉を挟んだ古い紙がある。

 その横に、今日買ったパンを置いた。

 四つ葉。パン。どちらも、クレアの家にいた人々がいたから自分の手元に来たものだ。

 彼は紙を一枚出した。そこに名前を書く。

 トマス。家令。鍵束。甥ピーター。金物屋。

 エルシー。料理人。姪マーガレット。パン屋。

 ビル。庭師。片眼鏡。

 ネッド。馬丁。馬具飾り。

 ルーシー。裁縫係。裁縫鋏。

 メイ。洗濯女。木櫛。

 字は乱れていた。書きながら、何度も止まった。

 これは償いではない。ロレッタは戻らない。ヴィヴィアンは許さない。

 それでも書く。それ以外に、今できることがない。


 ◇


 その夜、ウォード家の屋敷では、別の動きもあった。セドリックが、ロレッタの離婚申立てを知ったのだ。

 知らせたのはヘンリーではない。実家側の代理人から、ウォード家当主宛てに正式な連絡が入った。

 セドリックは書斎でそれを読み、机へ叩きつけた。


「……ロレッタまで」


 部屋にはエレノーラがいた。首には何もない。青い石の髪飾りも、宝石箱から消えている。警備隊が確認のため預かったからだ。


「……ヘンリーが悪いのよ」


 彼女は言った。


「あの子が妻をつなぎとめられないから」

「黙れ」

「皆、出ていってしまう! 真珠も、アーネストも、ロレッタさんも」

「黙れと言っている」

「次は何を取られるの……」


 セドリックは返事をしなかった。

 取られる。彼女はそう言った。まるで最初から自分たちのものだったように。

 その言い方に腹を立てる余裕すら、もうセドリックには薄くなっていた。

 彼は引き出しから別の書類を出す。ロレッタの持参金に関する記録だ。ウォード家は、それにも一部手をつけていた。事業整理の穴埋め。すぐ返すつもりだった。返せるはずだった。そういう金がいくつもある。

 返せるはずだった金。燃やせるはずだった紙。黙らせられるはずだった人間。

 そのすべてが、戻ってこないところへ流れ始めている。


「ヘンリーを呼べ」


 セドリックが言った。使用人が呼びに行く。

 ヘンリーはすぐ来た。雨に濡れた後で着替えたらしく、髪が少し湿っている。


「ロレッタが離婚を申し出た」

「知っています」

「止めろ」

「止まりません」

「止めろと言っている」

「私には、止められません」


 セドリックは目を眇める。


「何をした」

「何も」

「だから逃げられる」


 ヘンリーは父を見る。その言葉は、少し前なら刺さっただろう。今も痛い。

 だが、痛む場所が変わっていた。


「ロレッタは逃げたのではありません」

「では何だ」

「ただ、離れたのです」


 昼間、ロレッタに言われたことを、そのまま返す。セドリックは笑った。


「女の言葉をそのまま覚えて、賢くなったつもりか」

「少なくとも、父上の言葉だけを覚えていた頃よりは」


 エレノーラが息を呑む。セドリックは椅子から立ち上がった。


「お前は、自分の立場が分かっていない!」

「分かっていなかったのだと思います」

「今もだ」

「そうかもしれません」

「なら、黙って言う通りにしろ!」

「嫌です」


 ヘンリーの声は大きくなかった。

 だが、今度は震えなかった。


「父上は、ロレッタの持参金に手をつけましたか」


 セドリックの指が、書類の端で止まった。ほんの少し。

 だが、ヘンリーは見逃さなかった。


「つけたのですね」

「……家の金として扱っただけだ」

「彼女のものです」

「夫婦の財産だ」

「契約書では違うはずです」

「誰に吹き込まれた」

「自分で読みました」


 ヘンリーはそう言った。

 自分で。その一言を、今までどれだけ使ってこなかったのか。

 セドリックは机の上の書類をつかんだ。


「ロレッタの実家へは、こちらから話をつける。お前は妻を迎えに行け」

「行きません」

「ヘンリー」

「彼女は戻らないと言いました。私は、それを聞きました」

「お前は本当に役に立たない」

「ええ」


 ヘンリーはうなずいた。


「《《父上のお役には》》、もう立てないと思います」


 セドリックは書類を机へ叩きつけた。


「出ていけ」

「はい」


 廊下には、使用人が一人立っていた。話を聞いていたのだろう。ヘンリーは何も言わず、自室へ戻った。

 机の上の紙を見る。名が並んでいる。その下に、新しく一行書いた。


 ――ロレッタ。妻。戻らない人。


 書いてから、すぐ線を引いた。妻、の横に、小さく書き直す。


 ――ロレッタ。自分から離れた人。


 これも償いではない。ただ、間違えていた言葉を直しただけだ。


 ◇


 翌朝、ロレッタは予定通り、持参金契約の写しを実家の代理人へ送った。

 私はその横で、別の書類に目を通していた。ウォード家からロレッタの持参金に手がつけられた痕跡。金額。日付。移動先。セドリックの署名。


「思ったより早く出ましたね」


 ロレッタが言った。


「向こうが隠す余裕を失っているのよ」

「私の金も、家の穴埋めに使われていたのですね」

「ええ」

「怒るところなのでしょうね」

「怒っていいわ」

「怒っています」


 彼女は静かに言った。


「ただ、あまり驚いていません」

「その方が嫌ね」

「はい」


 ロレッタはペンを取った。


「では、取り戻します」

「ええ」


 その時、ハンナが部屋へ入ってきた。


「ヴィヴィアン様。警備隊からです」


 渡された紙には、セドリックの追加聴取の日程が書かれていた。

 書斎から押収した紙束の一部に、十五年前のハートウェル家襲撃前後の支出と、最近の証拠隠滅に関わる支払いが含まれていたという。

 つまり、当主が本格的に出てくる。

 私は紙を閉じた。


「次は、セドリックね」


 ロレッタの手が止まる。


「私も同席できますか」

「あなたは当事者になりつつあるわ。持参金の件で」

「では、同席します」

「辛いわよ」

「辛いかどうかで、決めないことにしました」


 いい返事だ。私はうなずいた。

 窓の外では、雨が上がっていた。町の石畳に、薄い光が戻っている。

 だがウォード家の屋根の上には、まだ重い雲が残っていた。

 次は、家の頂にいる男を下ろす番だった。

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