21 努力は代金ではない
ヘンリーが最初に訪ねたのは、トマスの甥だった。
町の南側で小さな金物屋をしている男で、名をピーターという。十五年前はまだ見習いだったらしい。今は店の奥で錠前の修理をし、棚には釘、蝶番、鍋の取っ手、馬車の金具がぎっしり並んでいる。
ヘンリーが名乗ると、ピーターは手にしていた錠前を机へ置いた。
「ウォード様が、うちに何のご用で」
「トマスのことで」
「叔父の」
「話を聞きたい」
ピーターは笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、ひどく疲れたようにヘンリーを見た。
「十五年経ってから?」
「……ああ」
「なぜ今になって」
「知らなかったことが多すぎた」
「それは、こちらには関係ない」
ヘンリーは言葉を失う。ピーターは錠前を手元へ戻した。だが作業はしない。指だけが、金属の縁をなぞっている。
「叔父は逃げたことにされました。ハートウェル家の金庫と一緒に消えたのでは、などと言われたこともあります。うちはしばらく、店の客が減りました。叔父が泥棒なら、甥も信用できないと」
「そんな」
「言った人間は忘れます。言われた方は覚えています」
ヘンリーは、棚の上に並んだ鍵を見た。
トマスの鍵束。十五年前、彼はハートウェル家の廊下で倒れていた。その鍵が土の下から出た。
「すまなかった」
「あなたに謝られても、叔父は戻りません」
「分かっている」
「分かっていないでしょう」
ピーターは机の下から、古い布袋を出した。中には壊れた鍵が数本入っている。
「これは叔父が私にくれた練習用の鍵です。鍵は嘘をつかない、とよく言っていました。無理に開けた鍵穴は痕が残る。合わない鍵を使えば削れる。人間は嘘をつくが、金物は正直だと」
ヘンリーは布袋を見た。
「ヴィヴィアン嬢も、似たようなことを」
「でしょうね。あの方は十五年前から探していたのでしょう」
ピーターの声には、少しも甘さがなかった。
「あなたは、今からですか」
「そうだ」
「では、遅いです」
その言葉は、まっすぐだった。ヘンリーはうなずく。
「遅い。だが、聞きたい」
「何のために?」
「覚えるために」
「それで償いになると?」
「ならない」
ピーターは初めて、錠前から視線を外した。
「なら、なぜ」
「分からないまま、可哀想な自分でいたくない」
言ってから、ヘンリーは自分の言葉にひどく苦いものを感じた。可哀想な自分。
兄に言われ、ヴィヴィアンにも突きつけられたもの。
ピーターはしばらく黙っていた。
「叔父は、朝一番に店の前を通ると、必ず鐘を鳴らしました」
「鐘?」
「ここの扉の。私が寝坊していると、鍵束で扉を叩くんです。金物屋が朝寝してどうすると」
ピーターは店の扉を見た。
「叔父は逃げる人じゃない。泥棒でもない。もし危ないことがあれば、最後まで誰かを逃がす人です」
ヘンリーは唇を噛む。クレアは火事の夜にトマスを見たと――
いや、ヴィヴィアンはまだそうは言っていない。だが彼女の集めた名簿と、土の中の鍵束が、その場にトマスがいたことを示している。
「ありがとう」
「礼は要りません」
「それでも」
「ウォード様」
ピーターは低く声を落とした。
「あなたが本当に聞く気なら、エルシーの姪にも会ってください。あの人は、あなたの姿を見るだけで塩を撒くかもしれませんけど」
「会う」
「なら、塩を撒かれても怒らないことです」
ヘンリーは、少しだけ笑いかけようとした。だが、うまく笑えなかった。
◇
午後、彼は料理人エルシーの姪に会った。
塩は撒かれなかった。代わりに、玄関先で十分ほど待たされた。
姪の名はマーガレット。丸い腕をした中年の女で、パン屋をしている。店の中には焼きたてのパンの匂いが満ちていたが、ヘンリーに椅子は出なかった。
「叔母は、ハートウェル家の厨房を自慢していました」
マーガレットは粉のついた手を前掛けで拭いた。
「ハートウェル夫人は、使用人の食事を粗末にしない方だったと。残り物ではなく、ちゃんと鍋を分ける家だと」
「そうだったのか」
「あなたは食べていたでしょう? あの家で菓子くらい」
言われて、ヘンリーは思い出した。
庭で遊んだ後、厨房から出された小さな焼き菓子。クレアが四つ葉を見つけた日に、皿に一つ多く載っていたことがある。彼は、それを当たり前のように食べていた。
誰が作ったか、考えもしなかったのだ。
「エルシーが作ったのか」
「たぶん」
「覚えていなかった」
「でしょうね」
マーガレットはそう言って、棚から丸いパンを一つ取った。
「叔母は逃げたことにされました。料理人が主人の金を持って逃げたとまで言う人がいた。うちの母は、それを聞いて泣きました。エルシー姉さんは、鍋を置いて逃げるような人じゃないと」
彼女はパンを紙に包み、ヘンリーへ渡した。
「持っていって」
「これは」
「叔母がよく作っていたパンに近いものです。どうせ覚えていないなら、食べて思い出してください」
ヘンリーは紙包みを受け取った。手の中で、まだ温かい。
「ありがとう」
「礼はいりません。次からは買ってください」
その言い方に、ほんの少しだけ救われた気がした。救われる資格があるのかは、分からない。
◇
夕方、ヘンリーはホテルへ戻った。ロレッタに会うためだった。
彼女はヴィヴィアンの部屋ではなく、隣の小部屋にいた。机の上には名簿と契約書が並んでいる。手袋は外され、指先にはまたインクがついていた。
「戻ったのですね」
「少し、話がしたい」
「どうぞ」
彼女は椅子を示した。夫婦でありながら、客のようだった。
ヘンリーは座らなかった。パンの包みを机の端に置く。
「エルシーの姪からもらった」
「エルシー」
「ハートウェル家の料理人だ。今、身元確認が進んでいる」
「ええ」
「トマスの甥にも会った。ピーターという。金物屋をしている」
「そうですか」
「彼らは怒っていた」
「当然でしょう」
「分かっている」
ヘンリーは言った。
「分かっているつもりだ。いや、つもりと言うとまた違うな。少なくとも、分かろうとしている」
「ええ」
「私は今日、名を覚えた。トマス、エルシー。ネッドやルーシーやメイにも、縁者がいるなら会うつもりだ。父にも兄にも、もう黙って従うつもりはない。真珠も出した。書斎の紙も止めた。私は」
言葉が少し早くなる。ロレッタは黙って聞いていた。
「私は、自分なりに見ようとしている」
「ええ」
「だから」
そこで初めて、ロレッタはペンを置いた。
「だから?」
ヘンリーは息を吸った。
「君に、戻ってきてほしい」
ロレッタはすぐには答えなかった。机の上の名簿を閉じ、インク壺の蓋をした。それから、まっすぐヘンリーを見る。
「戻りません」
短かった。ヘンリーの喉が詰まる。
「なぜだ」
「理由は、昨日から申し上げています」
「私は変わろうとしている」
「そうですね」
「君の言葉を聞いた。ヴィヴィアン嬢に馬鹿にされても、町の人間に冷たくされても、それでも行った。名も覚えた。逃げなかった」
「ええ」
「それでも駄目なのか」
「はい」
ヘンリーは机に手をついた。紙が少し揺れた。
「ここまでしてもか」
「ヘンリー」
「私は知らなかった。知らなかったが、それを盾にするなと言われた。だから見た。聞いた。謝った。覚えた。これ以上、何をすればいい」
「それは、私との結婚を続けるための代金ではありません」
「代金?」
「ええ」
ロレッタの声は静かだった。
「あなたが今日したことは、あなたがすべきことです。私が妻として戻るための支払いではありません」
「そんなつもりでは」
「今、そう聞こえました」
ヘンリーの首筋が熱くなった。
「君は、私がどれだけ」
「どれだけ苦しんだか?」
ロレッタは言葉を重ねた。
「ええ、苦しかったのでしょう。ですが、《《苦しんだから報われるべき》》だとお考えなら、それは違います」
「私は君を失いたくない」
「私は、もうずっと前から、あなたの隣で自分を失っていました」
ロレッタは立ち上がった。
「あなたがクレア様を忘れられないことを、私は責めきれませんでした。死者に嫉妬する自分が醜いと思っていました。あなたはやさしい人だから、いつか私を見てくれるはずだと考えました。けれど昨日、分かりました」
「何が」
「あなたは、《《クレア様を見ていたのではなく、クレア様を失った自分を見ていた》》。私は、その横であなたを見ていた」
「違う」
「違わないと思います」
ロレッタは机の上の名簿に手を置いた。
「でも、それを責めるためだけに離れるのではありません。私は、ここで仕事を始めました。まだ何もできません。字を書くだけで遅い。契約書は半分も読めない。けれど、初めて、自分が何を見ていなかったのかを自分の手で書いています」
「それは、ヴィヴィアン嬢のそばでなくても」
「できますか?」
「私が」
「あなたは今、自分のことで手一杯です」
同じ言葉だった。昨日も聞いた。だが今日は、昨日より刺さった。
「私は正式に、離婚を申し出ます」
ヘンリーの手が机から離れた。
「ロレッタ」
「書面は後日、代理人を通します。ただ、その前にあなたへ直接申し上げたかった」
「待ってくれ」
「待ちません」
「私はまだ」
「あなたがまだ途中であることは分かっています」
「なら」
「でも、《《私の人生も》》途中です」
ロレッタは、そこで少しだけ息を吸った。
「私は、あなたが改心し終えるまで横で待つための人間ではありません」
椅子が鳴る。ヘンリーが一歩下がったのだ。
怒りだった。悲しみではない。少なくとも最初に出たのは怒りだった。
「君まで」
「はい?」
「君まで、私を置いていくのか」
「置いていくのではありません。離れるのです」
「同じだ!」
声が部屋に響く。隣室で何かが動く音がした。たぶんハンナか、ヴィヴィアンが聞いたのだろう。けれど誰も入ってこない。
ロレッタは動かなかった。怯えもしなかった。
「今の言い方は、お義父様に似ていました」
ヘンリーの怒りは、そこで途切れた。
「何だって」
「自分の望む場所に相手がいないと、裏切りのように言うところです」
「私は父とは違う」
「そうあろうとしているのは分かります」
「なら」
「でも、今は似ていました」
ヘンリーは口を閉じた。
胸の奥で、言葉にならないものが暴れている。
ここまでした。見た。聞いた。謝った。傷ついた。それなのに。
――それなのに、まだ足りないのか。
その考えが出た瞬間、ロレッタの言葉がまた刺さった。
――代金ではありません。
努力は、妻が戻るための支払いではない。ヘンリーは、ようやく椅子に座った。
座ったというより、落ちた。
「……私は、どうすればいい」
「それは、私に聞かないでください」
「では、誰に」
「ご自分で」
ロレッタは書類を一つにまとめた。
「私は明日、ヴィヴィアン様と共に小応接室を使います。あなたにも来ていただきます。そこで正式に、離婚の意思をお伝えします」
「今ではなく?」
「今は、あなたが激昂しました。私はそのまま話を進めたくありません」
「……私は」
「ええ。止まりました。そこは、昨日までとは違うのかもしれません」
ヘンリーは視線を上げた。
ロレッタの声は、彼を慰めるためのものではなかった。
「でも、止まったことと、私が戻ることは別です」
それだけ言って、彼女は部屋を出た。ヘンリーはひとり残される。
机の上には、エルシーの姪からもらったパンがある。紙包みの中で、もう温かさは薄れていた。
彼はそれを見て、急に何もかもが馬鹿らしくなった。馬鹿らしくて、情けなくて、腹立たしくて、どうしようもなかった。
窓の外では町が夕方になっている。
トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。
名は覚えた。だが、覚えたからといって、誰も戻らない。
ロレッタも戻らない。
そのことを、ヘンリーはようやく知った。
◇
翌日、ロレッタは予定通り、ホテル二階の小応接室へヘンリーを呼んだ。
ヴィヴィアンは窓際に座っていた。紅茶は三つ用意されていた。
そしてロレッタは、夫に離婚を告げた。




