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死んだはずの令嬢は鉱山女王となって戻る〜奪われたもの、消された名前を取り戻すために〜  作者: さんけい


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22/35

20 奪われたと思う男

 ロレッタが屋敷へ戻らなかった夜、ヘンリーはほとんど眠れなかった。

 妻から届いた手紙は短かった。


 ――今夜は戻りません。

 ――明日、必要なものを取りに参ります。

 ――ロレッタ。


 それだけだ。責める言葉はない。説明もない。泣き言もない。

 今までなら、それだけでヘンリーはむしろ困ったはずだ。怒ってくれれば謝れる。泣いてくれれば慰められる。責めてくれれば、こちらにも言い訳ができる。

 だが、ロレッタは何も渡してこなかった。

 今夜は戻らない。ただ、その事実だけが机の上にある。

 ヘンリーは何度も手紙を読んだ。読んでも、字は変わらない。

 ロレッタの字は整っていて、少し硬い。結婚した頃、彼女はもっと丸い字を書いていた気がする。招待状や礼状を書くうちに、家の字になったのだろうか。


 ――家の字。


 その言葉が、嫌な形で胸に残った。

 ロレッタは今、ヴィヴィアン・ヴェイルのいるホテルに泊まっている。正確には同じホテルの別室だと聞いた。だが、そんな細かいことはヘンリーの頭には入らなかった。

 ロレッタが戻らない。そしてヴィヴィアン側にいる。

 その二つだけが、夜の間じゅう、机の上で灯りより明るく見えていた。


 ◇


 翌朝、ヘンリーは屋敷を出た。

 セドリックは警備隊とのやり取りで書斎にこもっている。エレノーラは自室から出てこない。アーネストはまだ戻らない。使用人たちは、ヘンリーが外出帽を取っても、いつものようには馬車の手配を尋ねなかった。

 屋敷の中で、誰もが何かを待っている。その待つ気配に耐えられなかった。

 ホテルに着くと、受付の男がヘンリーの名を聞いて、一瞬返事を飲んだ。


「ヴェイル様はご面会の予定が」

「伝えてくれ。ヘンリー・ウォードが来たと」

「ですが」

「伝えてくれ」


 声を荒げたつもりはなかった。けれど受付の男は一歩下がり、すぐに使いを走らせる。

 少し待たされる。その時間が、ヘンリーを余計に苛立たせた。

 昔なら、ウォード家の名を出せば通る場所が多かった。今は違う。ホテルの廊下で立ったまま、相手の返事を待たされる。

 やがてハンナが現れた。


「ヴィヴィアン様がお会いになります」

「ロレッタは」


 思わず聞いていた。ハンナはまばたきもしなかった。


「奥様は、別の部屋でお仕事中です」

「仕事?」

「はい」


 それだけ言って、ハンナは歩き出した。

 仕事。ロレッタが、ヴィヴィアンのところで仕事をしている。

 その響きが、ヘンリーにはどうにも呑み込めなかった。ロレッタは家のことをしていた。客を迎え、手紙を書き、使用人に指示し、食卓を整えた。もちろん、それも仕事だ。だがヘンリーは、それを仕事と呼んでこなかった。


 ――では、何だと思っていたのか?


 考える前に、案内された扉の前に着いた。ハンナは扉を軽く叩く。


「ウォード様です」

「通して」


 中から声がする。

 ヴィヴィアンは机の前にいた。黒い外出着ではなく、仕事用の深い緑のドレスを着ている。袖口は邪魔にならないよう細く、机の上には書類が何束も置かれていた。窓際には地図。壁には旧ハートウェル邸跡地の図面と、町の地図が並んでいる。

 ヘンリーは、その地図の上に赤いビンと糸が張られているのを見た。ウォード家から、役場へ。役場から警備詰所へ。旧邸跡地へ。リード運搬社へ。町医師の家へ。

 蜘蛛の巣のようだと思った。

 いや、蜘蛛の巣にかかったのはこちらかもしれない。


「お掛けになる?」

「ロレッタはどこだ」


 ヴィヴィアンはペンを置いた。


「挨拶の前に、それですの?」

「答えてくれ」

「奥様は仕事をしていらっしゃるわ」

「君がさせているのか」

「ご本人が望んだのです」

「そんなはずはない」


 言った瞬間、ヴィヴィアンの目がこちらへ向く。それが腹立たしかった。

 怒鳴られるなら、こちらも言える。軽蔑されるなら、まだ分かる。

 だがヴィヴィアンは、今の言葉をただ机の上に置いて、どこに傷があるのか見るように、こちらを見ていた。


「そんなはずはない、とは?」

「ロレッタは、ああいうことを望む人ではなかった」

「あなたの知っている奥様は、そうだったのね」

「あなたが唆したんだろう」

「何を」

「私の家を壊すだけでは足りないのか!?」


 声が大きくなる。自分でも分かった。けれど止まらなかった。


「父も、兄も、母も、もう滅茶苦茶だ。使用人まで警備詰所へ行き、町中が噂している。そこに今度はロレッタだ。君は、私から妻まで奪うつもりなのか」


 言い切った時、部屋の中が妙に静かになった。

 ハンナは扉のそばに立っている。少しも動かない。

 ヴィヴィアンはしばらく黙っていた。それから、椅子の背に軽く指を置いた。


「奥様は、物ではありません」


 短い言葉だった。ヘンリーは口を閉じる。


「奪う、奪われる、と口にするものではないわ」

「言葉の綾だ」

「そういう言葉の綾を、今までどれだけ奥様へ向けてきたのかしら」

「私は、ロレッタを粗末にしたつもりは」

「つもり」


 ヴィヴィアンは、その一語だけ繰り返す。ヘンリーの喉が詰まる。


「あなたの家の方々は、よくその言い方をなさるのね。殺したつもりはない。奪ったつもりはない。騙したつもりはない。粗末にしたつもりはない」

「私は父たちとは違う」

「そうね。十五年前の襲撃について、あなたが知らなかった可能性はある」


 その言い方に、ヘンリーは息を呑んだ。

 許された訳ではない。むしろ一つ、線を引かれた。


「なら」

「でも、奥様があなたの隣で何を呑み込んできたかについては、どう?」

「それは」

「死んだ婚約者の影。家の中での役目。義母の機嫌。義兄の横柄さ。義父の命令。あなたは、それをどこまで見ていたの」

「私は」


 知らなかった。そう言いかけて、止まった。

 まただ。また、その言葉だ。

 知らなかった。便利な言葉だ。あまりにも便利で、口にした瞬間、自分の足元だけ少し高くなる。周囲の泥から離れられる。だが、その高さで何が見える。

 ロレッタは、そこから見えたのか。


「奥様は、あなたから奪われたのではありません」


 ヴィヴィアンは紙の端を揃えた。


「ご自分の足で歩いてきただけです」


 ヘンリーは机の端をつかんだ。


「あなたは私を、憎んでいるのか」


 その問いは、予定していたものではない。けれど、出た。

 ヴィヴィアンの指が、机の上の紙に触れる。そこには何人もの名前が並んでいる。ウォード家の使用人名簿だろうか。ハートウェル家の名簿だろうか。


「憎んでいるかどうかが、今のあなたに必要な答え?」

「私には必要だ」

「なぜ」

「あなたは、私を見ているとき、まるで」


 言葉が続かない。

 まるで昔から知っているように。まるで、私が何をしたか知っているように。まるで、私の知らない私まで見ているように。


「まるで、何?」

「あなたは誰なんだ」


 ヴィヴィアンは答えなかった。ただ、ペンを手に取った。


「私はヴィヴィアン・ヴェイルです」

「それだけか」

「今のところは」

「今のところ」


 ヘンリーは一歩近づく。ハンナが静かに動いた。止めるほどではないが、止められる位置へ。

 ヴィヴィアンは少しも下がらなかった。


「なぜハートウェル家のことをそこまで知っている。なぜクレアの名を、そんなふうに扱う。なぜ、私の知らない十五年前を、まるで自分の傷のように」

「ヘンリー・ウォード様」

「答えてくれ」

「答えは、あなたの家の書類と土の中から出てきます」

「私はあなたに聞いているんだ」

「なら、聞き方を間違えているわ」


 ヴィヴィアンは紙に一つ印をつけた。


「あなたは今、妻を返せと言いに来た。私が家を壊したと責めに来た。自分から何が奪われたかを数えに来た」


 ヘンリーは何も言えなかった。


「でも、()()()()()()()()()()()()を、まだ本当に数えていない」

「数えている」

「いいえ」


 ヴィヴィアンの声は低かった。


「あなたは、()()()()()()()()()を数えているだけです」


 ヘンリーは息を詰めた。

 その言葉だけは、まっすぐ入った。入ってしまった。


「違う」

「違うなら、証明なさい」

「どうやって」

「クレアではなく、ハートウェル家で殺された人たちの名を覚えなさい」


 ヴィヴィアンは机の上から一枚の紙を取った。


「トマス。家令。鍵束で確認中。エルシー。料理人。櫛で確認中。ビル。庭師。片眼鏡で確認中。ネッド。馬丁。馬具の金具で確認中。ルーシー。裁縫係。裁縫鋏で確認中。メイ。洗濯女。木櫛で確認中」


 ひとつずつ、彼女は読む。ヘンリーは、その名をほとんど覚えていなかった。

 トマスは覚えている。白髪の家令。クレアが走ると、廊下で叱った男。だが他は。

 顔が曖昧だった。ハートウェル家へ何度も行ったのに。彼女の家で遊んだのに。彼女の家の人々に世話をされたのに。

 ヘンリーは椅子の背に手を置いた。


「私は」

「あなたが知らなかったことは、あとで調べればいい」


 ヴィヴィアンは紙を置いた。


「でも、知らなかったと口にする前に、何を知らなかったのか数えなさい」


 扉の外で、小さな物音がした。ヘンリーは振り向く。ロレッタがいた。

 いつからそこにいたのか分からない。手には書類の束を持っている。たぶん、隣の部屋から戻ってきたのだろう。彼女はヘンリーを見て、次にヴィヴィアンを見た。


「入ってもよろしいでしょうか」

「ええ」


 ヴィヴィアンが答えに、ロレッタは部屋へ入った。

 ヘンリーは妻を見た。


「ロレッタ」

「はい」

「君は、本当にここで」

「仕事をしています」

「なぜ」


 ロレッタは少しだけ首を傾けた。


「昨日、お手紙に書いた通りです。今夜は戻らないと」

「それは理由ではない」

「では、今申し上げます」


 持っていた書類を机へ置く。


「私は、知った後で知らないふりをしたくありません。それから、自分がどの家の奥方として振る舞ってきたのかを、もう一度見直したいのです」

「私では駄目なのか」

「あなたは、まだご自分のことで手一杯です」


 ヘンリーは返せなかった。ロレッタの声は冷たくない。だが、戻る余地を与えるものでもなかった。


「私はあなたを見捨てに来た訳ではありません。けれど、あなたの隣に立ったままでは見えないものがありました」

「ヴィヴィアン嬢の隣なら見えるのか」

「見えます」


 即答だった。ヘンリーの舌の奥に、苦いものが残った。


 ――嫉妬か。


 そう思って、さらに情けなくなる。


「君まで、私を責めるのか」

「あなたは責められたいのですか?」


 ロレッタは問い返す。その問いは決して優しくない。


「責められれば、あなたは謝れる。謝れば、少し楽になる。そういうことではありませんか」


 ヴィヴィアンは口を挟まなかった。ハンナも動かない。

 ロレッタは続けた。


「私はまだ、あなたをどうするか決めていません。でも、自分をどうするかは決め始めています」

「離婚か」

「その可能性もあります」

「ロレッタ」

「ヘンリー。今、私を止めたいなら、ヴィヴィアン様を責めるのではなく、ご自分が何を見てこなかったのかを見てください」


 ヘンリーは妻を見る。

 彼女は、少し疲れていた。声には眠れていないかすれがあった。手袋を外した指には、インクがついている。今までのロレッタなら、そんな手で夫の前に出なかっただろう。だが今は、インクのついた指を隠しもしない。

 その指で、彼女は自分の名を書き、他人の名を書いている。ヘンリーの知らない仕事をしている。


「私は、君を何も知らなかった」


 ようやく出た言葉だった。ロレッタはうなずいた。


「そうですね」

「すまない」

「受け取ります。でも、戻る理由にはなりません」


 短い。それで終わった。

 ヘンリーは、もうここにいる理由を失った。それでも、最後にヴィヴィアンを見た。


「私は、クレアを忘れてはいなかった」


 ヴィヴィアンの手が止まった。ほんの一瞬。だが、止まった。

 ヘンリーはそれを見た。


「忘れてはいなかったんだ」


 言い訳だと分かっていた。それでも、言わずにいられなかった。

 ヴィヴィアンは、ゆっくり顔を上げた。


「忘れなかったことを、誰かへの償いだと思わないことね」


 ヘンリーは息を止めた。


「覚えているだけなら、誰でもできるわ。大事なのは、何を覚えていたかです」

「私は」

「クローバー姫?」


 その呼び方に、ヘンリーの背筋が強張った。ロレッタもヴィヴィアンを見た。

 ヴィヴィアンは淡々と続けた。


「四つ葉を見つけた子。死んだ婚約者。可哀想なあなたを作るための、綺麗な思い出」

「やめてくれ」

「ええ。やめましょう」


 ヴィヴィアンは紙へ視線を落とした。


「次に来る時は、トマスの名から覚えていらして」


 ヘンリーは立っていた。立っているだけで精一杯だった。

 やがて、小さく頭を下げた。礼なのか、謝罪なのか、自分でも分からない。


 部屋を出る時、ロレッタは追ってこなかった。

 廊下へ出ると、ホテルの窓から午後の光が入っていた。白い壁、磨かれた床、遠くで誰かが笑う声。

 世界は、まだ普通に動いている。

 ヘンリーは階段の手すりに手を置いた。

 トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。

 声に出さず、ひとつずつ繰り返す。

 初めて彼は、クレアの周りにいた人たちの名を、クレアの飾りではなく、その人自身の名として覚えようとした。

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