18 名を呼ぶための証言
最初に口を開いたのは、ウォード家の古い洗濯女だった。名をマーサという。
五十を過ぎた女で、若い頃からウォード家の洗濯場にいた。手の指は節くれ立ち、爪の間には石鹸と灰の色が染みている。
彼女は警備詰所の裏部屋に通されると、椅子に座る前に何度も手を拭いた。何も持っていないのに、手に何かついているような仕草だった。
「十五年前の火事の翌朝です」
記録官がペンを構える。
「ウォード家の裏口に、大きな麻袋が三つ運び込まれました。旦那様とアーネスト様が、誰にも触るなとおっしゃって」
「中身を見たのか」
警備隊長は紙から目を上げた。
「いいえ。ただ、袋の底から水のようなものが垂れていました。雨ではありません。あの朝は晴れていましたから」
マーサは膝の上で手を握った。
「それから、血のついた布を洗わされました。男物の袖、手袋、馬車の敷物。焦げ臭くて、油の匂いもしました」
「誰のものか分かったか」
「はっきりとは。ただ、袖口にAの刺繍がありました。アーネスト様のものだと思います」
記録官のペンが紙を走る。マーサはその音に肩を縮めた。
「言えば、首になると思いました。私は夫を亡くしたばかりで、子供が二人いました。ウォード家を追い出されたら、食べていけませんでした」
「今まで黙っていた理由は」
「同じです」
彼女は膝に目を落としたままだった。
「同じでした。でも、昨日、骨が出たと聞いて。使用人も逃げたことになっていたと聞いて。……逃げたなら、どうして血があったのかと、ずっと思っていたんです」
次に来たのは、当時の下働きの少年だった。
今はもう少年ではない。ジョナスという名の、馬具修理屋になっている男だった。十五年前、彼はウォード家の厩で水桶を運んでいた。
「火事の夜、ウォード家の馬車が一台戻りました」
「誰が乗っていた」
「アーネスト様と、見知らぬ男が二人。それから、ウォード家の御者サミュエルです」
私は別室でその記録を聞いていた。
サミュエル。十五年前、名を知らなかった御者。
左頬に傷。右耳の上が少し欠けている男。やっと名前がついた。
「馬車の床に、何か長いものが包まれていました。旦那様が、厩の灯りを消せとおっしゃって。私は消したふりをして、隙間から見ました」
「何を見た」
「人の手です」
部屋の中で、誰かが息を呑んだ。ジョナスは唇を舐めた。
「布から、手が出ていました。細い手でした。女の人か、若い人か。分かりません。でも、手首に細い紐が絡んでいて、小さな裁縫鋏が下がっていました」
裁縫鋏。
裁縫係のルーシーは、小さな鋏を手首に結んでおく癖があった。布を裁つ大きなものではない。糸を切るための、銀色の小さな鋏だ。
母が笑って注意していた。食事の時までつけていると、スプーンが鳴りますよ、と。
私は手元の名簿を見た。
――ルーシー・ベル。裁縫係。小さな鋏を手首に結んでおく癖。
名簿の横に、父が短く書き足した。
確認候補。まだ決めない。決めないが、近づいている。
◇
午前だけで、三人が話した。午後には、さらに二人が来た。
一人はウォード家を十年前に辞めた元侍女で、エレノーラの部屋に運ばれた装身具の箱を見たという。
真珠の他に、青い石の髪飾り、銀の香水瓶、刺繍入りのハンカチ。どれも、急に増えたものだった。
もう一人は、ウォード家の古い帳簿係の甥だった。叔父はすでに亡くなっていたが、死ぬ前に、十五年前の数か月だけ帳簿が別の手に移されたと話していたという。
「その時、アーネスト様が帳簿室へ入るようになったそうです。普段は帳簿など見ない方なのに」
「セドリックは」
「旦那様は、別帳面をお持ちだったと」
「見たことは」
「叔父は、見たと言っていました。ですが、あれは見なかったことにしろと、アーネスト様から金を渡されたそうです」
「その帳面は」
「分かりません。ただ、叔父は、火のついた晩に帳簿も人も一緒に消えると、酒を飲むたびに言っていました」
火のついた晩。警備隊長のペンが止まった。
「火事の晩ではなく?」
「はい。叔父はそう言っていました。火のついた晩、と」
記録官は、そのまま書いた。
火のついた晩。火は勝手についたのではない。つけられたものだ。
◇
夕方近く、町医師からも報告が来た。
正式な身元確認にはまだ時間がかかる。だが、遺留品から候補は絞れるという。
鍵束はトマス。腰に下げていた鍵束と一致する可能性が高い。
太い櫛は料理人エルシーのものと思われる。櫛の背にEの傷。彼女が自分で入れたものだと、姪が証言した。
片眼鏡の縁は庭師ビル。彼は右目が悪く、細い針金で直した片眼鏡を使っていた。
馬具の小さな飾り金具は馬丁ネッド。持ち馬につけるはずだったものを、自分の腰袋に入れていたと弟が話した。
裁縫鋏はルーシー。
洗濯女メイのものと思われる木の櫛も出ている。メイの姉が、同じ模様を見たことがあると答えた。
名前が戻っていく。紙の上に、使用人複数名ではない名が並んでいく。
私はそれを一つずつ読んだ。
トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。
まだ確定ではない。医師はそう書いている。父も横から口を挟む。
「断定するな」
「分かっています」
「その返事では足りない」
「分かっています」
父はそれ以上言わなかった。
私は名簿の端を押さえる。
十五年前、左手で書いた名がある。煤の中、火傷の痛みの中、思い出せるだけ書いた名だ。
字は歪んでいる。ところどころ、インクではなく鉛筆の黒が擦れて薄くなっている。
それでも残った。残っていたから、今照合できる。
記憶は証拠そのものにはならない。けれど、証拠が出た時、誰のものかを探す道になる。父はそう言っていた。
今、その意味が分かる。
やがて、ハンナが部屋へ入ってきた。
「ウォード家の使用人が、さらに二人、明日話したいと」
「こちらへ来られる?」
「一人は来られます。もう一人は、まだ屋敷を出られないようです」
「理由は」
「エレノーラ夫人の侍女です。奥様から離れにくいと」
「無理はさせないで」
「はい」
「ただ、逃げ道は用意して」
「もう」
ハンナは言いかけて、今度は最後まで続けた。
「用意しています」
私は微かにうなずいた。ウォード家の中も、もう静かではない。
◇
その夜、屋敷の使用人部屋では、誰も大きな声を出さなかった。
下働きの若い女が、古い侍女へ囁く。
「マーサさんが話したって本当ですか」
「本当らしいね」
「じゃあ、私たちも」
「何を見たの」
「奥様が、真珠を隠すところを」
「それはもう出た」
「あと、旦那様の書斎から古い紙を運ぶよう言われたことがあります」
「いつ」
「去年の冬です。暖炉へ」
古い侍女は手を止めた。
「燃やしたの?」
「旦那様が」
「紙は見た?」
「少しだけ。ハートウェルという字が」
古い侍女は黙った。
こういう時、昔なら黙らせた。余計なことを言うな。家に仕える者は家を守るものだと。
だが今、その言葉が喉まで来て止まった。
家を守る―― 誰の家を? 何をして守るのか?
十五年前にハートウェル家の使用人たちが逃げたことにされたのなら、ウォード家の使用人も、いつそうされるか分からない。
古い侍女は、若い下働きの肩に手を置いた。
「明日、私と一緒に警備詰所へ行こう」
「でも」
「一人で行くよりいい」
「奥様は」
「奥様は、もう誰も守っちゃくれない」
その言葉を、使用人部屋の何人かが聞いた。誰も否定しなかった。
◇
エレノーラはその頃、自室の長椅子に座っていた。首元には何もない。
宝石箱は閉じられている。侍女は隣室に下がっていた。いつ呼ばれてもいいように起きてはいるが、扉のそばには来ない。
鏡を見る。真珠のない首は、年齢相応に細い。白粉を塗っても、昨日より老けて見える。
マリアは、あの真珠をつけていた。静かな女だった。あまり多くを言わない。けれど、部屋にいるだけで誰かがそちらを見る。セドリックも見た。
エレノーラはそれを覚えている。だから嫌いだった。死んでからも嫌いだった。
真珠を首に巻いた夜、エレノーラは初めてマリアに勝った気がした。
その勝ちが、今日、記録官の紙に戻された。
M・H。マリア・ハートウェル。あの女は、死んでも自分の名を残した。
エレノーラは立ち上がり、宝石箱を開けた。真珠はない。ないのに、手が探す。
代わりに出てきたのは、小さな青い石の髪飾りだった。これも、あの夜の後にセドリックが持ってきたものだ。
「もう彼女はいない」
そう言っていた。
「だから、使えるものは使えばいい」
エレノーラはその髪飾りを握った。
これも持っていかれる。そう思った。
いや、持ち主へ戻されると言うべきなのか。
嫌だ。嫌だ。なぜ、死んだ者に返さなければならないのか。生きている自分が使って何が悪いのか。
そう思った瞬間、廊下の向こうで誰かが泣く声がした。若い使用人だろう。
エレノーラは扉の方を見た。
この家の者たちまで、自分から離れていく。ヴィヴィアン・ヴェイル。あの女が来てから、何もかも奪われていく。
◇
セドリックは書斎にこもっていた。
警備詰所から戻って以来、扉を閉めている。外には警備隊の者が一人、形ばかりではあるが見張りに立っていた。任意同行の後、家に戻されたとはいえ、自由ではない。
机の上には、押収を免れた紙が数枚ある。昔の控えではない。最近の手紙だ。
銀行、鉱区管理局、運搬業者、精錬所。どこも返事が遅くなっている。あるいは、返事が来ない。ヴェイル鉱業に乗り換えた者たちだ。
セドリックはペンを取った。古い取引先へ手紙を書こうとする。
――ウォード家はまだ倒れていない。根も葉もない噂に惑わされるな。十五年前の件は調査中であり、事実は明らかになっていない――
そこまで書いて、手が止まった。
事実。
今、事実という言葉を使うと、書かれた紙がこちらを笑うような気がした。
彼はその便箋を丸め、暖炉へ投げた。火はつけていない。紙は燃えず、灰の上に転がった。
◇
ヘンリーは自室で眠れずにいた。
机の上には、古い箱がある。子供の頃のものだ。中には、四つ葉を挟んだ紙が一枚残っていた。茶色く変色し、葉の形も崩れている。クレアが見つけたものだ。
正確には、クレアが見つけ、ヘンリーがもらったものだ。彼はそれを自分の宝物にした。
十五年間、それを見て、クレアを思っているつもりでいた。
だが、クレアの家が汚されていた時、自分は何をした? 死んだと聞かされ、泣いた。可哀想なヘンリーでいた。兄はそう言った。
父は、知らないことが役目だったと言った。母は、盗んだ真珠を首に巻いていた。
ヘンリーは、四つ葉の紙を箱へ戻す。その手は震えていた。
◇
ロレッタは隣の部屋で、また帳面をつけていた。
――使用人が明日話すらしい。
――義母の青い石の髪飾り。見覚えあり。
――義父、古い書類を暖炉へ入れようとしたが未遂。
――夫、古い四つ葉を所持。
最後の一行を書いて、ロレッタはペンを止めた。
夫の四つ葉。それは罪ではない。けれど、見たものとして書く。
感情と証拠を混ぜるな。ヴィヴィアンなら、そう言うかもしれない。いや、言うだろう。
ロレッタは小さく息を吐き、帳面を閉じた。
◇
翌朝、警備詰所の前には、ウォード家の使用人が三人立っていた。一人ではなく、三人。
古い侍女。若い下働き。厩の男。誰も堂々とはしていない。だが逃げもしない。
警備隊長が彼らを裏口から入れ、町の者たちは、その姿を見た。
見て、また隣の者と囁いた。
――ウォード家の中から、人が話しに来ている。
それは、告知よりも早く町へ広がった。
そして私は、ホテルの部屋でその知らせを聞いた。
「三人」
「はい」
ハンナが答える。
「明日にはもっと増えるかもしれません」
「増えますね」
父が窓の外を見たまま言った。
「一人が話せば、次が楽になる」
「黙っていた罪は」
私は言いかけて、やめた。父の視線がこちらへ来る。
「言え」
「黙っていた罪は、どこまで責めるべきなのでしょう」
ハンナは何も言わなかった。父もすぐには答えなかった。
「相手による」
「便利な答えですね」
「本当だ。脅されていた者と、得をしていた者は違う。見て見ぬふりをした者と、手を貸した者も違う」
「では、一人ずつ」
「一人ずつだ」
面倒だ。けれど、それしかない。
まとめて裁けば早い。まとめて憎めば楽だ。だが、それをすればウォード家と同じになる。
家のため。不正のため。体面のため。
そう言って、人をまとめて消した連中と。
「一人ずつですね」
「ああ」
私は名簿を閉じた。机の上には、戻りつつある名がある。
トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。
まだ、全員ではない。でも、昨日より増えた。
十五年前、逃げたことにされた人たちが、少しずつ帰ってくる。
生きてではない。それでも、名を呼べるところまでは。




