17 逃げた花嫁の話
ウォード家の跡取りであるアーネストが独身のまま四十を越えたことについて、町では昔からいくつかの話があった。
一番よく使われたのは、仕事が忙しすぎた、というものだ。
ウォード家の事業が伸びていた時期、アーネストは父セドリックの片腕として、鉱区、輸送路、銀行との折衝、契約書の管理まで見ていた。嫁を迎える暇もないほど家に尽くしている。
そう言えば聞こえはいい。だが、古い使用人たちは知っていた。
一度、縁談はあった。相手は隣州の商家の娘で、持参金も家柄も悪くなかった。婚約披露の準備まで進み、エレノーラはその娘に似合う宝石を選び、セドリックは新しい取引先へ得意げに話して回った。
それが、式の三月前に流れた。
表向きは、先方の令嬢が急に体調を崩したため。実際には違う。
娘は逃げた。
理由は一つではなかったらしい。アーネストが使用人を人前で叱りつけたこと。支払いの遅れを相手の商会のせいにしたこと。酒席で、女は家の飾りと帳簿の担保を兼ねれば十分だと口を滑らせたこと。
決定打は、婚約者の父親がウォード家の金回りを調べたことだった。
それから先は早かった。先方は娘を療養名目で遠方へ移し、婚約はなかったことになった。エレノーラは怒り、セドリックは不快を隠さず、アーネストはしばらく口を利かなくなった。
その後、ウォード家はヘンリーの縁談を急いだ。
次男でも、外から見て感じのよい息子が結婚すれば、家の体面は保てる。そこで選ばれたのがロレッタだった。
ロレッタは、その話を嫁いでから知った。
正確には、古い侍女たちの声の落とし方で察した。アーネスト義兄の縁談が流れたのは、先方のお嬢様の体調不良で、と皆が言う。そのたびに、少しだけ目が合わなくなる。
ああ、逃げたのだな、とロレッタは思った。今なら、その娘は賢かったのだと思う。
◇
アーネストが拘束された翌日、ウォード家の食堂にはまた閑散としていた。
アーネストの席は空いている。セドリックは警備詰所から戻っていない。エレノーラは自室にこもったまま。残ったのはヘンリーとロレッタ、それから気配を消して動く使用人たちだけだった。
「兄上には、昔、婚約者がいた」
ヘンリーは冷めたスープを前に、ふいにそう言った。
「存じております」
「君も知っていたのか」
「嫁いでから、少し」
「私は、先方の体調不良だと聞いていた」
「私も、表向きは」
ヘンリーは匙を取らなかった。
「逃げたのだろうな」
「おそらく」
「君も逃げればよかった」
ロレッタは夫を見た。
「今さらです」
「そうだな」
「ただ、今から出ていくことはできます」
ヘンリーの手が、テーブルの下で止まる。
「ロレッタ」
「すぐに、とは申しません。ですが、考えております」
「離婚を」
「ええ」
ヘンリーは目を伏せる。ロレッタはその様子を見ている。
以前なら、ここで彼を傷つけたかもしれないと慌てただろう。言葉を足し、違うのですと否定し、あなたが悪い訳ではないと慰めたかもしれない。
けど、今は、しなかった。
「私は、あなたが十五年前の襲撃を知らなかった可能性を見ています」
ロレッタは言った。
「けれど、それと夫婦を続けるかどうかは別です」
「そうだな」
「あなたは、死んだはずの少女を大切にしていた。いえ、大切にしていると思っていた。私はその影の横で暮らしてきました」
「すまない」
「謝罪は受け取ります。けれど、それで過去が変わる訳ではありません」
ヘンリーはうなずいた。
「私は、何も知らないまま君を傷つけていたのだな」
「そうです」
即答だった。ヘンリーは苦く息を吐いた。
その時、玄関の方で馬車の音がした。使用人が食堂の扉まで来て、声を低くする。
「奥様、旦那様がお戻りです」
旦那様。この家でそう呼ばれるのはセドリックだ。
ヘンリーは立ち上がった。ロレッタも席を立つ。
「君は部屋へ」
「行きません」
「ロレッタ」
「聞きます」
ヘンリーはそれ以上止めなかった。
◇
玄関ホールへ出ると、セドリックが外套を脱がせているところだった。足取りに乱れはない。むしろ、昨日より落ち着いている。
警備詰所で何を聞かれ、何を答えたのか、使用人たちはちらちらと見ていたが、誰も声をかけない。
「父上」
ヘンリーが呼んだ。セドリックは息子を見る。
「何だ」
「兄上は」
「知らん」
「知らん?」
「自分のしたことは自分で話すだろう」
「父上は、何を聞かれたのですか」
「十五年前の古い取引だ。覚えていないことも多い」
「覚えていない」
「そうだ」
ヘンリーは、廊下の燭台へ視線を落とした。
昼なのに火が入っている。昨日から家の中が暗いと言って、エレノーラが灯させたものだ。
「父上は、本当に覚えていないのですか」
「しつこいぞ」
「書斎の紙束に、ハートウェル家の名がありました」
「古い取引先だ。名くらいある」
「火事の直前の日付も」
「仕事だ」
「母上の真珠も」
「お前は母を責めるのか」
「責めるべきなら」
セドリックの指が、外套の襟を押さえたまま止まった。
「親に向かって、よく言う」
「親なら、何をしても責められないのですか」
「言葉を選べ」
「十五年間、選んできた結果が今です」
ロレッタは、横で夫の言葉を聞いていた。ヘンリーは震えている。声も、指先も。だが、逃げてはいない。
セドリックは外套を使用人に渡した。
「お前は、ヴィヴィアン・ヴェイルに何を吹き込まれた」
「何も」
「嘘をつくな。昨日までのお前なら、そんな口は利かなかった」
「昨日までの私なら、何も知らなかったからです」
「知らない方が幸せなこともある」
「誰にとってですか」
セドリックは答えなかった。その時、階段の上からエレノーラの声がした。
「何の騒ぎです」
彼女は薄い室内着の上にショールを羽織っていた。首元には何もない。真珠がないだけで、首の細さばかり目につく。
「あなた、アーネストは」
「戻らん」
「戻らない?」
「今夜は警備詰所だ」
エレノーラは手すりを握った。
「そんな。あの子は跡取りなのに」
「跡取りだからといって、何でも許される訳ではない!」
セドリックは階段の下から言う。エレノーラの手が、手すりを握り直した。
「あなた、アーネストを」
「勝手に動いた」
「あなたが動かしたのでしょう!」
「エレノーラ」
「そうでしょう? あの子は、あなたの言う通りにしてきた。昔からずっと。婚約者が逃げた時も、あなたはあの子を慰めず、家の体面の話ばかりした」
「今、その話をするな」
「するわ」
エレノーラは階段を一段降りた。
「ヘンリーの結婚を急いだのも、アーネストの縁談が壊れたから。ロレッタさんを迎えたのも、家の見栄えのため。みんな、みんな家のため」
ロレッタは静かに義母を見ていた。自分のことが、ようやく本人の口から出た。
家の見栄えのため。
分かってはいた。だが聞けば、やはり別の重さがある。
「エレノーラ、黙れ」
「嫌よ」
「部屋へ戻れ」
「嫌!」
セドリックは階段の下まで歩いた。見上げる形になる。それでも、声だけで押さえつけようとした。
「これ以上喋るなら、お前も切る」
エレノーラの手が手すりから離れかけた。
「私を?」
「アーネストだけで済むなら、それでいい」
ヘンリーが息を呑んだ。ロレッタも、口を開かなかった。
エレノーラは階段の上で立ち尽くした。
「……真珠を持っていったのは私よ」
彼女は言った。
「でも、あの夜、私が殺した訳ではない。私は血を見ていない。私は火もつけていない。私は、あなたが持ってきたものを受け取っただけ」
「黙れ」
「マリアの真珠を、あなたがくれた。死んだ女には要らないと。なら私のものにしていいと」
「黙れ!」
セドリックの声がホールに響いた。使用人たちが一斉に身を縮める。
だが、もう遅かった。玄関ホールの扉が開いていた。
そこに、警備隊長が立っていた。後ろには記録官と、町の法務補佐。
セドリックは振り返る。隊長は帽子を取った。
「失礼。扉が開いておりましたので」
開いていた。いや、使用人が開けたのだろう。誰の指示かは分からない。ヘンリーか。ロレッタか。あるいは、もうこの家を守る気のなくなった誰かか。
エレノーラの言葉は、届いた。記録官のペンが、すでに動いている。
「セドリック・ウォード様」
警備隊長が言った。
「先ほどの発言について、奥様にも改めてお話を伺う必要がありそうです」
「妻は混乱している」
「ええ。ですので、落ち着いた場所で」
「家の中の話だ」
「十五年前のハートウェル家の物品と、地下より発見された遺体に関わる可能性があります」
「可能性ばかりだな」
「その可能性を調べるのが、我々の仕事です」
セドリックは隊長を睨む。だが、もう大声だけでは下がらない相手だった。
エレノーラは階段に座り込む。誰もすぐには駆け寄らない。
ヘンリーが動きかけ、止まる。ロレッタが一歩だけ前へ出た。
「奥様、部屋へ戻られるなら、侍女を呼びます」
エレノーラはロレッタを見た。
「あなただって、私の首の真珠を綺麗だと言ったわ」
「ええ」
ロレッタは否定しなかった。
「そう思っておりました。ですが、持ち主を知った今は、違います」
「知らなければよかったのよ」
「そうかもしれません」
「なら」
「けれど、知ってしまいました」
ロレッタの声は静かだった。
「知った後で、知らないふりはできません」
その言葉に、ヘンリーは少しうつむく。自分へも向けられた言葉だと分かったのだろう。
セドリックは警備隊長と共に書斎へ向かった。
エレノーラは侍女に支えられ、自室へ戻された。ただし、扉の外には警備隊の者が一人置かれた。
ウォード家の屋敷は、まだ同じ形をしている。だが、その日から、廊下を自由に歩ける者が減った。
◇
午後、私はホテルでその報告を受けた。
――エレノーラ発言。セドリック、マリア・ハートウェルの真珠を持ち帰った疑い。アーネスト、警備詰所にて拘束継続。ウォード家書斎、追加捜索。使用人複数名、任意聴取に応じる意向。
私は報告書を読み、机に置いた。
「アーネストの縁談の件も出ました」
ハンナが言った。
「逃げた花嫁?」
「ええ。古い侍女が話したそうです。ウォード家の金回りを先方が調べた後、婚約が流れたと」
「それも記録へ」
「はい」
「ロレッタの縁談が急がれた理由にもなりますね」
「そうですね」
ロレッタは、家の体面のために迎えられた。ヘンリーは、知らない役目を与えられた。
アーネストは、知って動く役目を与えられた。エレノーラは、奪ったものを身につけ、勝ったつもりでいた。
そしてセドリックは、それらすべてを家のためと呼んだ。
「当主の尻尾がようやく少し出たな」
窓際で父が言う。
「ええ」
「まだ逃げる」
「逃げるでしょうね」
「次は使用人だ」
「はい」
私は机の上に、十五年前のハートウェル家使用人名簿を出した。
トマス。エルシー。ビル。馬丁のネッド。裁縫係のルーシー。洗濯女のメイ。
まだ名前の戻っていない骨がある。
ウォード家の使用人の中にも、十五年前に何かを見た者がいる。
次は、その口を開く。
私は指先で名簿の端を押さえた。
アーネスト、エレノーラ、セドリック。
敵の名前ばかりが増えていくと、どうしてもそちらへ目が向く。
だが、忘れてはいけない。取り戻すべきは、罪人の名だけではない。
奪われた者たちの名だ。




