14 火をつける相手を間違える
アーネストが最初に選んだのは、ヴェイル鉱業の下請けの一つだった。
リード運搬社。
町の北外れにある、小さな運搬業者である。馬車は十台に満たない。倉庫も古い。だが、鉱山へ機械を運ぶには道をよく知る者が要る。大きな会社の磨かれた馬車より、泥道で車輪を取られた時にすぐ木板を噛ませられる御者の方が役に立つこともある。
十五年前のウォード家なら、こういう小さな業者を脅せば済んだ。
支払いを止める。取引を切る。別の業者を使うと匂わせる。そうすれば相手は頭を下げる。
アーネストは、まだそのつもりでいた。
「調査機械に積み替えの傷があったことにしろ」
彼はリード運搬社の事務所で、社長のエドガー・リードにそう言った。
雨の降りそうな午後だった。事務所の天井は低く、窓の桟には古い泥がこびりついている。壁には馬具の修理代と飼葉代を書いた黒板。机の上には、支払い待ちの請求書が積まれていた。
アーネストは、そういう場所が嫌いだった。
貧しさではない。小ささが嫌いなのだ。小さいくせに、こちらの言葉をすぐ理解しないところが。
「傷、ですか」
「そうだ。ヴェイルの探査器具は、運搬中に一度落ちた。だから地下反応も正確ではなかった。そういう話だ」
「実際には落としておりません」
「落としたことにすればいい」
「誰が」
「お前の若い御者がいるだろう。あの赤毛の」
「トビーですか」
「そいつに言わせろ。積み替えの時に箱を傾けた、とな」
エドガーは机の上の請求書を見た。ウォード家からの未払いが、まだ二枚ある。
十五年前から、ウォード家は小さな業者へ支払いを遅らせることが多かった。払わない訳ではない。完全に踏み倒すと次が動かない。だが遅らせる。相手が困る頃に払う。そうして、相手に自分の金で生きているような錯覚を与える。
そのやり方を、エドガーはよく知っていた。だからこそ、今年に入ってヴェイル鉱業と契約した。
「ウォード様」
「何だ」
「うちは今、ヴェイル様と契約しております」
「知っている。だから言っている」
「契約書には、虚偽報告をした場合の違約金が入っております」
「そんなもの、こちらでどうにでもする」
「ヴェイル様の契約書は、どうにもなりません」
アーネストの眉が動いた。
エドガーは引き出しから一枚の紙を出した。ヴェイル鉱業との運搬契約書の写しだ。支払い日、積荷の状態確認、事故報告の手順、作業員の怪我への補償。細かい。細かすぎる。昔のウォード家なら、こんな小さな運搬社相手にここまで書類を作らなかった。
「失礼ながら、ヴェイル様は支払いが早い。飼葉代も、修理代も、遅れません。怪我をした者には見舞金も出ました。うちのようなところには、ありがたいお客様です」
「ウォード家に逆らう気か」
「逆らうほど、大きな会社ではありません」
「では、言う通りに」
「ですから、大きくないので、嘘をついて潰れる余裕もありません」
エドガーは静かに言う。するとアーネストは椅子を蹴るように立ち上がった。
「後悔するぞ」
「もうしております」
「何だと」
「昔、もっと早く支払いを求めるべきでした」
アーネストの手が机を叩く。黒板が揺れ、飼葉代の数字が白く崩れる。だがエドガーは動かなかった。
「よく考えろ。町で商売を続けたいなら」
「考えた結果です」
その時、奥の扉が開く。赤毛の若い御者、トビーが立っていた。手には油のついた布を持っている。車輪の手入れをしていたのだろう。
「親方、ヴェイル様の使いの方が外に」
アーネストが振り向いた。外には、ハンナがいた。昔と同じように灰色の髪をまとめ、黒い外套を着ている。
傘は差していない。雨がまだ落ちていないからだ。隣にはヴェイル鉱業の記録係が一人。手には革の書類鞄。
「ウォード様」
ハンナは軽く礼をした。
「こんなところでお会いするとは」
「何の用だ」
「リード運搬社との月次確認です。積荷確認と、作業員の安全報告を」
「ずいぶん熱心なことだ」
「小さな事故を放っておくと、大きな事故になりますので」
ハンナは事務所へ入る。エドガーが椅子を引く。トビーは壁際へ下がったが、目はアーネストから離さない。
ハンナは机の上の契約書を見た。
「お話し中でしたか」
「済んだところだ」
アーネストは帽子を取った。
「エドガー。よく考えろ」
「はい」
「本当によく考えろ」
「考えます」
アーネストは事務所を出て行った。
扉が閉まる。少しして、馬車の音が遠ざかった。
エドガーはその音が消えるまで待ち、深く息を吐いた。
「助かりました」
「間に合ってよかった」
ハンナは椅子に座らなかった。代わりに記録係へ目を向ける。
「今の件を記録して」
「はい」
記録係が紙を出す。エドガーの手が、口髭に触れたところで止まった。
「記録を?」
「ウォード家のアーネスト様が、ヴェイル鉱業の探査器具に運搬中の傷があったと虚偽報告するよう求めた。日時、場所、同席者。リード社長、御者トビー、私、記録係」
「そこまで」
「後で揉めます」
「でしょうな」
エドガーは口髭を撫でた。
「うちの名前は」
「勝手には出しません。ただし必要になれば、証言をお願いするかもしれません」
「その時は出しますよ」
トビーが笑う。エドガーは振り向く。
「お前は黙って」
「だって親方、あの人、俺に嘘つけって言ったんでしょ。俺、箱落としてません」
「分かってる」
「落としてないのに落としたって言ったら、俺の腕が悪いことになります」
ハンナはトビーを見た。
「そこが大事なのです」
「え?」
「嘘の報告は、会社だけではなく、実際に働いた人間の腕を汚します」
トビーは少し口を開け、それから閉じた。
「……そうです」
「だから記録します」
ハンナはようやく椅子に座った。
「ヴィヴィアン様は、働いた人の名を粗末にするなとおっしゃいます」
◇
その日の夕方、アーネストの失敗はヴィヴィアンの机に届いた。
報告書は短い。
――アーネスト、リード運搬社に虚偽報告を要求。
――内容、探査器具の運搬事故偽装。証人、エドガー・リード、トビー、ハンナ、記録係。
私はそれを読み、父へ渡した。
「火をつける場所を間違えましたね」
「まだ次をやる」
「でしょうね」
「下請けのどこまで押さえた」
「運搬、道具、宿、修理工房、飼葉屋、鉱夫の組合長。全部ではありませんが、ウォード家よりは話が通ります」
「金で?」
「金と、支払い日を守ることと、怪我人を捨てないこと」
父は少しだけうなずいた。
「強いな」
「当たり前のことをすると、強いのです」
「ウォード家が当たり前をしていなかったからだ」
私は報告書を箱へ入れる。箱にはすでに、真珠の確認記録、ラドクリフ法務士の証言、地下貯蔵庫の図面写し、祖父の覚書の写しが入っている。紙が増えるたび、箱は重くなる。
いい重さだ。まだ足りないが。
「アーネストは、次にどこを狙うと思いますか」
「記録だ」
「記録官?」
「本人は難しい。助手か、保管庫」
「同じことを思いました」
私は机の上の地図に目を落とす。
役場、警備詰所、町医師の家、記録官の自宅、旧ハートウェル邸跡地、ウォード家、ホテル。
十五年前、私の家を襲った者たちは、火を放ち、書類を奪い、新聞に嘘を載せた。今も同じことをするなら、まず記録を潰したくなる。
「保管庫に人を置きます」
「置いてある」
「父さん」
「お前が置く前に置いた」
「また、腹が立つほど早いですね」
「褒め言葉として聞く」
「褒めていません」
父は返事の代わりに、ほんの少し息を漏らした。たぶん笑ったのだ。
そこへハンナが戻ってきた。
「リード運搬社の件、写しを作りました。役場と警備隊へ送ります」
「お願い」
「それから、ロレッタ様からお手紙です」
封は小さい。昨日と同じ、ウォード家の蝋ではない。実家のものだ。
――真珠の件以降、義母は不安定です。
――義父と義兄は、ラドクリフ法務士および記録官関係へ手を回す話をしていた模様。
――具体的な名は不明。
――屋敷内の使用人が怯えています。
ロレッタの字は整っていた。最初に見た時より、少しだけ線が強い。
私は手紙を父へ渡した。
「早いな」
「ええ」
「戻れなくなるぞ」
「もう戻っていないでしょう」
ハンナが静かに茶を置いた。
「ロレッタ様には、こちらから何か」
「いいえ。まだ」
ロレッタを急いでこちらへ引き寄せすぎると、ウォード家の中が見えなくなる。彼女は今、あの家の中で目を開けたばかりだ。
危険でもある。けれど、危険を全部こちらで取り上げれば、彼女は自分で立てなくなる。それは、たぶん違う。
「ただ、彼女の侍女には帰り道を二つ用意して」
「もう」
ハンナが言いかけ、私を見た。
「いえ。手配します」
父は少しだけこちらを見る。私は何も言わなかった。
父が先に置くなら、こちらも先に置く。十五年もやっていれば、そうなる。
◇
その夜、役場の保管庫には灯りが残っていた。
表向きは、記録官が昨日の現場記録を整理していることになっている。実際には、記録官本人は隣室で別の写しを作っていた。保管庫にいるのは、助手の一人と、ヴェイル鉱業から派遣された帳簿係。それから、警備隊の若い隊員二人。
雨が降り始めた。その窓を細く叩く音に紛れて、裏口の錠前が鳴る。
助手が顔を上げた。帳簿係はペンを置かない。ただ、足元の鈴紐を軽く引いた。
廊下の向こうで、小さな鈴が鳴る。
裏口が開いた。
入ってきたのは、役場の雑用係だった。だが、彼は今日休みのはずだった。肩に古い外套を羽織り、手には掃除道具の籠を持っている。
「忘れ物を」
彼はそう言った。助手は立ち上がる。
「こんな時間に?」
「明日の朝だと間に合わないんで」
「何が」
「掃除が」
下手な嘘だった。だが、下手な嘘でも、通ると思っている者はいる。
雑用係は籠を机へ置いた。その下に、油の小瓶と細い火口が隠れていた。
警備隊員が廊下の暗がりから出た。
「何を掃除するつもりだった」
雑用係は逃げようとする。だが、裏口の外にも一人いた。リード運搬社のトビーだ。彼は役場へ荷物を運んだ帰りという名目で、裏口の馬を見ていた。
雑用係はすぐ捕まり、籠から出た油の小瓶と火口が、保管庫の机に並べられる。
記録官はそれを見て、唇を引き結んだ。
「本当に来るとは」
警備隊員が言った。
「来ましたね」
帳簿係は淡々と記録を取る。
誰が、何時に、どこから、何を持って入ったか。
雑用係は最初、何も言わなかった。だが警備詰所へ連れて行かれ、油の小瓶を誰から受け取ったか問われると、半刻ももたなかった。
「知らない男です」
「名は」
「知りません」
「どこの」
「ウォード家の裏口で」
「誰に会った」
「アーネスト様の従者に」
従者の名も出た。警備隊長は記録官に目を向けた。
「書け」
「書いています」
◇
その報告がホテルへ届いたのは、夜半だった。
私は寝ていなかった。父も寝ていなかった。ハンナも、たぶん寝る気がなかった。
報告を読んだ父が、紙を私へ渡す。
「来たぞ」
「ええ」
私は目を通す。
役場保管庫への放火未遂。油と火口。雑用係の証言。ウォード家従者の名。
アーネストは、書類を消すために火を選んだ。十五年前と同じように。
「愚かですね」
「慣れた手を使っただけだ」
「慣れた手」
「一度うまくいった手は、また使いたくなる」
父の声は低かった。私は報告書の角を揃える。
「十五年前、火は彼らの味方でした」
「ああ」
「今回は違います」
ハンナが新しい箱を持ってくる。私はそこへ報告書を入れた。
箱の中で、紙がまた増えた。
「明日、アーネストをもう一度呼べますか」
「警備隊が呼ぶ」
「セドリックは」
「まだ自分は表に出ていないつもりだろう」
「では、出ていただきましょう」
私は立ち上がる。窓の外は雨だ。
旧ハートウェル邸跡地の土は、濡れているだろう。掘り返された穴には布がかけられ、警備員が立っている。母と祖父と使用人たちの骨は、町医師の手で一つずつ調べられている。
十五年前、あの夜も煙の中に湿った木の匂いがあった。
火が、すべてを持っていったと思っていたが、違った。火は、彼らの癖を残していた。
次に追い詰められた時も、彼らはまた火を選ぶ。
なら、それを待っていればよかった。
◇
翌朝、役場の掲示板に一枚の告知が貼られた。
――旧ハートウェル邸跡地発見物に関する記録保管庫へ、夜間侵入および放火未遂あり。
――容疑者を拘束。関係者について捜査中。
町の人々は、それを読んだ。
十五年前の火事。昨日の骨。真珠。委任状。
そして、今度は保管庫への火。
ばらばらだったものが、町の中でもつながり始めた。
ウォード家の屋敷では、アーネストが朝食の席に現れなかった。
セドリックは新聞を広げていたが、一行も読んでいない。エレノーラは首元に何もつけていない。
ヘンリーは掲示板の告知を見てから帰ってきた。
ロレッタは何も言わず、夫の前に茶を置く。だがヘンリーはカップに手を伸ばさなかった。
「また火だ」
彼は言った。誰も答えなかった。
答えないことが、答えになり始めていた。




