13 紙と真珠が同じ方を向く
真珠の確認は、町医師の診療室ではなく、役場の小会議室で行われた。
町医師、記録官、警備隊長、ハンナ。それから、証拠を持ち込んだ者としてヘンリーとロレッタが同席した。
ヴィヴィアンは来なかった。来れば、場が彼女を見る。真珠ではなく、彼女の顔色や言葉を見ようとする。だから来ない。そういう判断だった。
箱が開けられ、白い布の上に真珠が置かれる。
三連の古い真珠。ところどころ艶は鈍っているが、手入れはされていた。長く使われてきたものだと、宝石商でなくても分かる。
町医師は留め金の内側を小さな拡大鏡で覗いた。
「M・H」
記録官が書く。
「留め金内側に、M・Hの刻印を確認」
「ハートウェル家の所有物と断定できますか」
警備隊長が尋ねた。
「刻印だけでは断定できません。ただし、ヴェイル様から提出された装身具一覧には、マリア・ハートウェル夫人の真珠三連、留め金内側にM・H刻印あり、と記載されています」
町医師は別の紙をめくった。
「さらに、十五年前にハートウェル家の裁縫係が親族へ送った手紙の写しにも、夫人が三連真珠を晴れの日だけ身につける、とあります。祖父君からの贈り物だとも」
ヘンリーは椅子の上で指を組む。声は出さない。
ロレッタも黙っている。ただし、彼女の視線は真珠から離れなかった。
記録官は一つずつ書いていく。
真珠の長さ。留め金の形。刻印。古い擦り傷。ハートウェル家側資料との照合。
ヘンリーは、その作業を見ながら、母の首元を思い出していた。
幼い頃から、あの真珠は家にあったと思っていた。だが本当にそうだったか。十三歳の頃、火事の前、母はあれを持っていただろうか。
思い出そうとすると、十五年前の前後がぼやける。
クレアを失ったと聞かされ、家の中の大人たちはやさしくなった。母は彼を抱きしめ、父は肩を叩き、兄は黙っていろと言った。
その頃からだ。母の首に、あの真珠があった。
「ウォード様」
警備隊長に呼ばれ、ヘンリーは顔を上げた。
「この真珠は、いつからウォード家にありましたか」
「分かりません」
「ご記憶にない」
「はい。ただ、十五年前より前に母がつけていた記憶はありません」
「十五年前より後には?」
「あります」
「それを記録します」
記録官のペンが動く。ヘンリーはその音を聞いていた。
紙の上に自分の言葉が残っていく。
十五年前、クレアの名で偽の委任状が出た。紙は人を勝手に動かす。けれど、今は自分の口から出した言葉が紙に載っている。
逃げられない。そう思った。そして、少しだけ息がしやすくなった。
◇
真珠の確認が終わる頃、役場の別室にはラドクリフ法務士が着いていた。
年老いた男だった。背は曲がり、手には細い杖を持っている。昔はもっとふっくらしていたらしいが、今は頬が落ち、首元の皮膚がたるんでいた。
連れてきたのはマルクだった。彼は役場の廊下でエイドリアンを見つけると、短くうなずいた。
「来ました」
「喋りそうか」
「喋らないと自分だけが切られる、と言ったら、馬車に乗りました」
「いい」
エイドリアンは会議室へ入る。ヴィヴィアンは今回はいない。
ラドクリフは椅子に座ると、額の汗を布で拭いた。
「私は、もう引退した身でして……」
「十五年前は現役だった」
言葉を遮る。
「ええ。まあ、それは」
「クレア・ハートウェル名義の委任状に、立会人として名を書いている」
「私は、正規の手続きだと聞かされました」
「本人確認は」
「あの頃、ご令嬢は体調不良で」
「顔は見ていないと」
「……見ておりません」
記録官が書く。
ラドクリフはそのペン先を見て、さらに汗を拭いた。
「ですが、ウォード家の当主が保証すると。ご令嬢は火災でひどく衰弱し、顔にも火傷があるため、人前には出せないと」
「署名済みの書類を渡された」
「はい」
「誰から」
ラドクリフの喉が鳴った。
「セドリック・ウォード氏から」
「同席者は」
「アーネスト氏。それから、奥方のエレノーラ夫人」
「ヘンリー・ウォードは?」
「いませんでした」
「その時、ハートウェル家の令嬢本人がどこにいるか聞いたか?」
「遠縁の家で療養中と」
「その遠縁の名は?」
「聞いておりません」
「聞かずに、立会人として名を書いたと」
ラドクリフは黙った。エイドリアンは机の上に、委任状の写しを置く。
「この署名を、本人のものだと思ったか」
「……若い令嬢の字にしては、少し整いすぎているとは思いました」
「なぜ、その時に言わなかった」
「ウォード家の方々が」
「怖かったか」
ラドクリフは布を握りしめた。
「怖かったのです……」
記録官のペンは止まらない。
「当時のウォード家は、勢いがありました。ハートウェル家は火事で混乱している。ご令嬢は行方も曖昧。私は法務士とはいえ、地方の小さな仕事を受ける者にすぎません。断れば、仕事を失うと思いました」
「だから、偽の委任状に立ち会った」
「偽と知っていた訳では」
「本人を見ていない。遠縁の名も聞いていない。署名にも違和感があった。それでも名を書いた」
ラドクリフは、今度は反論しなかった。
「はい」
小さな声だった。だが聞こえた。
「……私は、名を書きました」
◇
その証言が記録に載った頃、ウォード家ではエレノーラが宝石箱をひっくり返していた。
真珠はもうない。ヘンリーとロレッタが持ち出した。
あの子が。あのロレッタが。嫁に来た時はおとなしく、何を言われても微笑んでいたあの娘が。
エレノーラは引き出しの奥を探った。別の真珠はある。ダイヤの耳飾りも、ルビーのブローチも、金の腕輪もある。だが、どれを見ても落ち着かない。
あの真珠だけが欲しい。マリア・ハートウェルのものだと分かってから、なお欲しくなった。
なぜなら、十五年前からそれは自分の勝利の印だったからだ。
美しいマリア。静かに笑うマリア。死んだと思われた男を、なおも胸の奥に大事に置いていたマリア!
だからそのマリアの真珠を、自分の首に巻いた。
最初は怖かった。けれど、誰も気づかなかった。セドリックは似合うと言った。アーネストは余計なことを言わなかった。ヘンリーは泣いていた。
それから十五年。真珠はエレノーラのものになったはずだった。
なのに、留め金の小さな二文字が、今さら声を上げた。
「奥様」
侍女は恐る恐る声をかける。
「お茶を……」
「要らない」
「旦那様が、お呼びです」
「行かないわ」
「ですが」
「行かないと言ったの!」
宝石箱の蓋が床へ落ちる。侍女は肩を震わせ、すぐに拾おうとした。
「触らないで!」
エレノーラは叫んだ。
「誰も触らないで! ……みんな、私から奪っていく……」
侍女は手を止める。その時、部屋の扉が開き、セドリックが入ってきた。
「何をしている」
「……あなたが私に渡したのよ……」
エレノーラは床に散らばった宝石を見下ろしたまま呟く。
「真珠を。あなたが、もう彼女には要らないと」
「黙れ……」
「そう言ったわ。死んだ女に宝石はいらないと」
「黙れと言っている」
「私は嫌だと言った」
「言っていない」
「言ったわ!」
エレノーラは顔を上げた。白粉の下で、頬がまだらになっている。
「最初は嫌だと言った。怖いと言った。けれどあなたが、家を守るためだと。あの女のものはもう、こちらのものだと」
「使用人が聞いている」
「聞けばいいわ」
セドリックは目を眇める。二人の様子を目にしながら、侍女は扉のそばで固まっていた。
「出ていけ」
侍女は飛び跳ねるようにして出ていった。扉が閉まる。
セドリックは妻へ近づいた。
「エレノーラ、正気に戻れ」
「私は正気よ」
「正気なら、今は黙れ。真珠一つで家は潰れん」
「真珠一つではないでしょう……」
エレノーラは笑う。かすれた笑いだった。
「地下から骨が出た。箱が出た。あなたの手紙が出た。アーネストの名が出た。今度は私の真珠。次は何?」
「まだ終わらん」
「何が?」
「こちらには手がある」
「どんな」
「ラドクリフを切る」
セドリックは迷いなく言う。
「あの委任状は法務士が勝手に揃えた。混乱に乗じて金を取った。こちらも騙されたのだ、と」
「ラドクリフが喋ったら?」
「喋る前に黙らせる」
「……もう喋っているかもしれない」
セドリックは一瞬だけ黙る。エレノーラは気付く。夫も怖がっている。
十五年前、声を大きくすれば皆が黙った。金を出せば記事が出た。人を脅せば書類は動いた。けれど今は、声も金も遅い。
ヴィヴィアン・ヴェイルは、先に人を置いている。
先に書類を置いている。先に記録を取っている。
「嫌な女……」
エレノーラは呟いた。
「マリアに似ている……」
「黙れ」
「あの静かな目。人を責める時に、大声を出さないところ。嫌な女」
「マリアは死んだ」
「本当に?」
セドリックの手が、妻の腕をつかんだ。
「何を言っている」
「ヴィヴィアン・ヴェイル。あの女、本当に誰?」
「鉱山成金だ」
「あなた、あの目を見た?」
「見た」
「何も思わなかった?」
「……馬鹿馬鹿しい」
だが、セドリックの返事は少しだけ遅れていた。エレノーラはそれを聞き逃さなかった。
「クレアは」
「死んだ」
「遺体は?」
「燃えた」
「見たの?」
「お前は黙っていろ!」
今度こそ、セドリックは怒鳴った。
エレノーラは笑わなかった。ただ、自分の腕をつかむ夫の手を見た。
昔は、その手を頼もしいと思った。家を守る手だと思った。今は、ただ強いだけの手だった。
「あなたも、見ていないのね」
セドリックは妻を突き放した。
「お前はしばらく部屋から出るな。誰とも話すな。真珠の件も、医師から聞かれたら覚えていないと言え」
「もう持っていないわ」
「持っていたことも覚えていないと言え」
そう言って、彼は部屋を出た。
◇
廊下にはアーネストがいた。
「聞いていたか」
「少し」
「母親を見張れ」
「はい」
「ラドクリフは」
「人をやりました」
「遅いかもしれん」
「それなら、次を考えます」
アーネストは、父の目を見た。
昨日、警備隊に同行した男とは思えないほど、声は落ち着いている。追い詰められると、かえって動く種類の人間だった。
「記録官を買います」
「買えるか」
「本人は難しいでしょう。ですが、助手がいます。写しを一枚消すだけなら」
「医師は」
「息子の借金があります」
「隊長は」
「ヴェイルが先に手を回しています。正面からは無理です」
「なら、別の火を起こせ」
アーネストはうなずいた。
「ヴェイル鉱業の下請けを一つ、潰します。調査の機械に不備があったことにすれば、昨日の掘削そのものを疑わせられる」
「やれ」
「はい」
◇
父と兄が廊下でそう話している頃、ヘンリーはロレッタと共に屋敷へ戻っていた。
馬車の中で、彼は真珠を預けた後の手を見ていた。
手は空だ。けれど重い。
「ラドクリフ法務士が証言したそうです」
ロレッタの声に、ヘンリーは顔を上げた。
「もう?」
「ええ。町医師のところにハンナ様がいらした時、短く」
「何と」
「委任状の本人確認はしていない。セドリック様、アーネスト様、エレノーラ様が同席していた、と」
ヘンリーは目を閉じた。
母だけではない。父と兄だけでもない。三人そろっていた。
「私は、そこにいなかった」
「そうですね」
「私は本当に、何も知らなかった」
「そうかもしれません」
「ロレッタ」
「はい」
「私は、それを言えば言うほど、情けなくなる」
ロレッタは夫を見る。目を閉じたままだった。
「知らなかった。そう言えば、私は十五年前の罪から離れられるのかもしれない。けれど、離れたところで何が残る? 何も知らされず、何も見ず、死んだ婚約者を思っているつもりで、自分だけを慰めていた男が残る」
「今、それに気づいたのなら」
「遅すぎる」
「遅いです」
ヘンリーは目を開ける。
「君は優しくないな」
「今は、優しさを差し上げる場面ではありません」
「ヴィヴィアン嬢にも、そう言われそうだ」
「ヴィヴィアン様なら、もっと短くおっしゃるでしょう」
ヘンリーは今度こそ、ほんの少し笑う。だがすぐ消えた。
「私は、一体どうすればいい」
「私に聞くのですか?」
「ああ」
「では、まずは逃げないことです」
「逃げる」
「ご自分が知らなかったことを、盾にしすぎないことです」
ヘンリーは黙った。
◇
馬車が屋敷の前で止まる。
白い壁。緑の屋根。窓の奥に、灯りがともっている。
ロレッタは先に降りた。ヘンリーも続く。
玄関へ入ると、家の中が妙に静かだった。使用人たちは目を伏せる。誰も真珠のことを口にしない。だが、知っている。家の中では、隠したい話ほど早く流れる。
階段の上で、エレノーラの侍女が目元を赤くしていた。
ヘンリーは彼女を見て、初めて思った。この家の使用人たちは、十五年前にも何かを見たのではないか。
見て、黙ったのか。黙らされたのか。
その違いを、自分は今まで考えたこともなかった。
屋敷の奥で、何かが割れる音がした。母の部屋の方だった。
ヘンリーは足を止めた。ロレッタは止まらなかった。
「行かないのか」
「今、私が行っても、お義母様は私に怒るだけです」
「では」
「あなたが行くかどうかは、あなたが決めてください」
ロレッタはそう言って、自分の部屋へ向かう。
ヘンリーは階段の下に立ったまま、しばらく動かなかった。
その間にも、ウォード家の中では次の手が動いている。
セドリックは書斎で手紙を書く。アーネストは裏口から人を出す。エレノーラは割れた香水瓶のそばで、真珠のない首元を押さえる。
そして町では、真珠と委任状の証言が、同じ日の記録に並んだ。
紙と真珠が、同じ方を向き始め、十五年前の嘘は、ひとつずつ、持ち主の手を離れていく。




