10 ウォード家の食卓
その日のウォード家の夕食は、予定より一時間遅れて始まった。
食堂の燭台には火が入っていたが、卓についた者は誰も料理に手をつけなかった。銀の蓋を開けられた肉料理は、脂が白く固まり始めている。給仕の若者は壁際に立ったまま、何度も足先を揃え直した。
当主セドリック・ウォードは、卓の上座に座っていた。
十五年前より肩幅は狭くなったが、声の大きさだけは変わらない。大声で笑い、大声で命じ、大声で誰かを黙らせる。そうしている限り、この家はまだ自分のものだと思えるのだろう。
その右に、妻のエレノーラ。白粉はいつもより厚い。首元には真珠が三連で巻かれている。亡くなったハートウェル夫人が持っていたものに似ている、と古い使用人が一度だけ漏らしたことがあったが、それを聞いた者は皆、聞かなかったことにした。
左にはアーネストがいた。警備詰所から戻ったばかりで、上着は着替えている。だが髪はわずかに乱れ、指先にはまだ土の汚れが残っていた。本人は気づいていない。あるいは、気づいていても洗う余裕がなかった。
ヘンリーとロレッタは、向かい合う席に座っていた。
ロレッタは背筋を伸ばし、膝の上に手を重ねている。食卓の話に口を挟むつもりはない、という姿勢だった。けれど、耳は閉じていない。目も伏せていない。
ヘンリーはまだ外出着のままだった。帰ってから着替えろと言われたが、部屋へ行かなかった。食堂へ入ってからも、椅子に座るまで少し時間がかかった。皿の前に置かれたナイフに指を伸ばし、触れただけで止めている。
「くだらん騒ぎだ」
最初に口を開いたのは、セドリックだった。
「十五年前の焼け跡を今さら掘り返して、何が出ようと、どうにでもなる。古い骨など、誰のものとも分からん」
「鍵束が出ました」
ヘンリーが言う。給仕の若者が思わず顔を上げ、すぐに下を向く。
セドリックは息子を睨んだ。
「お前は黙っていろ」
「トマスの鍵束だと、彼女は言いました」
「彼女?」
「ヴィヴィアン・ヴェイルです」
「あの成金女か」
セドリックは鼻で笑った。
「鉱山をいくつか当てたからといって、調子に乗っている。女が事業の顔になど立つから、ああいう見世物まがいのことをする」
「見世物ではありませんでした」
ロレッタが静かに言う。皿の上の肉から、白く固まった脂が端へ流れているが、誰もそれを見ていない。
セドリックの眉が上がる。
「ロレッタ、お前に聞いてはいない」
「失礼いたしました。ただ、私はあの場におりましたので」
「だから何だ」
「町の方々も見ておりました。警備隊も、医師も、記録官も。あれをただの見世物として片づけるのは、少し無理があるかと」
エレノーラが細く息を吸った。
「ロレッタさん、あなたは疲れているのよ。今日はひどいものを見たのでしょう。そういう時には、余計なことを考えない方がいいわ」
「余計なことかどうかは、まだ分かりません」
「まあ」
エレノーラの声が少し高くなった。
「随分と、あの女の肩を持つのね」
ロレッタはすぐには答えなかった。皿の横に置かれた水杯へ視線を落とし、それから義母を見た。
「あの方が何者で、何を望んでいるのか、私は存じません。ただ、今日出てきたものから目をそらす理由も、私にはありません」
「ロレッタ」
ヘンリーが名を呼ぶ。責める声ではなかった。助けを求める声でもない。どう言えばいいのか分からないまま、ただ妻の名を口にしただけだった。
ロレッタは彼を見た。
「あなたは、お聞きになるべきです」
「何を」
「十五年前のことを」
ヘンリーの指がナイフの柄に触れ、すぐに離れる。アーネストは舌打ちした。
「あの女に毒されたか」
「兄上」
ヘンリーが顔を上げる。
「今日、あなたは言いました。私は知らなくてよかったと。泣いていればよかったと。クローバーが死んだ、可哀想なヘンリーでいればよかったと」
「混乱していた」
「混乱している時に出た言葉の方が、本当のこともあります」
「お前に何が分かる!」
アーネストは卓を叩いた。皿が鳴る。給仕の若者が肩を震わせた。
「お前は何も知らなかった。それでよかったんだ。家のことも、金のことも、父上が何を背負っていたかも、俺が何を片づけていたかも。お前は庭で花でも見て、死んだ婚約者の思い出に浸っていればよかった」
「アーネスト!」
エレノーラが鋭く呼ぶ。だが遅かった。
ヘンリーは、兄を見ていた。ナイフから離れた指が、膝の上で丸まる。
「兄上は、知っていたのですね」
「何をだ」
「クレアが死んだ時のことを」
「死んだと決まった訳ではない」
アーネストは言い返す。だが言ってから、口を閉じる。
ヘンリーは椅子から立ち上がった。
「では、なぜ皆、死んだと言ったのですか」
誰も答えなかった。食堂の端で、時計だけが規則正しく動いている。
「父上。母上。兄上。私は、クレアは火事で死んだと聞きました。遺体は見つからなかったが、あの火では助かるはずがないと。そう聞きました」
「そうだったのだろう」
セドリックが言った。
「今日、骨が出ました」
「十五年も前の焼け跡だ。誰のものかなど」
「使用人たちは逃げたと聞きました」
「そういう話だった」
「では、なぜ地下から複数の骨が出るのですか」
なおもセドリックは答えない。代わりにアーネストが横から言う。
「火事で逃げ込んだんだろう。閉じ込められたのかもしれん」
「なら、なぜ埋めたのです」
「知らん」
「なぜ、図面に兄上の名があったのです」
「知らんと言っている!」
今度は本当に怒鳴った。ヘンリーは肩を震わせたが、座らなかった。
ロレッタは夫を見ている。今度も助け舟は出さなかった。彼が自分で立つかどうかを、見ていた。
エレノーラは扇を開いた。ぱちん、と乾いた音がする。
「ヘンリー、あなたは少し落ち着きなさい。あのヴェイルという女は、あなたを乱しているのよ」
「ヴィヴィアン嬢が?」
「そうです。あなたを見る目が普通ではないわ。女はそういうことをするものなの。自分に心を向けさせて、家庭を乱して、それから相手が苦しむのを楽しむ」
ロレッタの口元が、ほんの少し動く。笑いではない。言葉を飲み込んだのだ。
ヘンリーは母を見た。
「母上。委任状の署名のことは」
ぱちん。エレノーラの扇が止まった。
「何のこと」
「クレアの名で出された委任状です。今日、小箱から母君の手紙が出ました。ウォード夫人が私の名を書くところを見たがる、と。クレアの名を」
「古い手紙でしょう」
「母上は、ハートウェル夫人の字をよくご存じでしたね」
「親しくしていたのだから、当然でしょう」
「では、あの委任状の字も」
「ヘンリー」
セドリックの声が低くなった。
「それ以上、母を侮辱するな」
「侮辱ではありません。ただ、訊ねているのです」
「その必要はない」
「私にはあります」
ヘンリーは初めて、父に正面から言い返した。アーネストの眉が寄る。エレノーラは扇の骨を強く握った。セドリックは一度、深く息を吸った。
「お前は、あの娘に今さら未練があるのか」
セドリックは言う。ヘンリーの頬から、色が引いた。
「そういう話では」
「では何だ。死んだ娘の影を追い、今度は鉱山女王に惑わされ、妻まで不安にさせている。十五年前から何も変わっていないではないか」
ロレッタが静かに椅子から立ち上がる。セドリックはそちらを見た。
「座っていなさい」
「失礼いたします」
「食事中だ」
「食事をする気分ではございません」
ロレッタはヘンリーへ視線を向けた。
「あなたも、お聞きになるなら最後までお聞きになった方がよろしいと思います。途中でやめるなら、今日見たものは全部、また誰かの言葉で上書きされます」
妻の言葉に、ヘンリーが何も返せないまま、ロレッタは礼をして、食堂を出て行った。扉が閉まる音は、思ったより小さかった。その小ささが、かえって食堂に残った。
エレノーラは扇で胸元を仰いだ。
「まあ、何という態度でしょう。あの子まで、あの女に」
「母上」
ヘンリーが言った。
「母上は、クレアの母君の真珠をお持ちですか」
今度は、アーネストが顔を上げた。エレノーラの扇が、完全に止まる。
「何を」
「昔、母上の真珠はもっと短かった。今つけておられるものは、十五年前の後から見かけるようになった気がします」
「ヘンリー!」
エレノーラが叫んだ。初めて、彼女の声が上品さを失った。
「母に向かって、何ということを言うのです!」
「違うなら、そう言ってください」
「違います!」
「では、どなたのものですか」
「私のものです!」
「いつから」
エレノーラは口を開く。だが、言葉が出ない。
セドリックが立ち上がった。
「もうよい。今日は終わりだ」
「父上」
「終わりだと言っている」
「私は、何も知らなかった」
「だから何だ」
その言葉は、アーネストのものとよく似ていた。ヘンリーは父を見る。
「私は、何も知らなかったんです」
「それがお前の《《役目》》だった」
セドリックは言い放つ。給仕の若者まで、息を止めていた。
「家にはそれぞれ役目がある。アーネストは継ぐ。私は決める。母は家を保つ。お前は、外から見て傷ついた次男でいればよかった。ハートウェル家との縁を惜しむ、心優しい男でいればよかった。それで、誰が損をしたという?」
ヘンリーの唇がわなわなと動く。
――損。
その言葉は、十五年前の火事とあまりにも釣り合わなかった。
「クレアは」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「クレアは、損得ではありません」
セドリックは息子を見る。苛立ちだけではない。かといって哀れみでもない。使い道を誤った道具を見るような、冷めた目だった。
「だからお前には言わなかった。それだけだ」
ヘンリーは糸が切れたように座り込む。椅子が軋んだ。
両手で顔を覆ってしまいたい、と思った。だがしない、今は。そうしたら、まだ悲劇の形になるような気がした。だから手は、膝の上に落ちたままだった。
エレノーラは真珠を握っている。アーネストは父を見ている。
セドリックはもう料理を下げさせるよう、給仕へ顎で示した。
給仕たちが動き始める。冷めた肉料理、手つかずのスープ、固くなったパン。皿が一枚ずつ下げられていく。
誰も食べていない夕食だった。
◇
その夜、ウォード家の灯りは遅くまで消えなかった。
セドリックの書斎にはアーネストが呼ばれた。扉は閉められたが、声は時々廊下へ漏れた。警備隊長への働きかけ、記録官の買収、町医師の口止め、古い書類の処分。そういう言葉の切れ端が、廊下の暗がりにこぼれる。
エレノーラの部屋では、侍女が真珠を外すのに手間取った。留め金が絡まっている訳ではない。エレノーラの指が離れなかったのだ。
ヘンリーは自室へ戻らなかった。長い廊下の突き当たり、昔の客間の前で立ち止まり、そこに掛けられた古い風景画を見ていた。
十五年前、クレア・ハートウェルが一度だけこの家へ泊まった時、使うはずだった部屋だ。結局、その泊まりは直前で流れた。理由は、母マリアの体調が悪いから、だった。だが、それすら本当だったのか、ヘンリーには、もう分からなかった。
ロレッタは、自分の部屋で机に向かっていた。便箋を一枚出し、しばらく考え、結局何も書かなかった。代わりに、今日見たものを小さな帳面に書きつけた。
鍵束。人骨。小箱。アーネストの図面。義父の言葉。義母の真珠。……夫の沈黙。
最後の一行だけ、少し時間をかけた。
――ヴィヴィアン・ヴェイルは、夫を奪いに来た女ではない。
そこまで書いて、ロレッタはペンを置いた。
部屋の外で、誰かが急ぎ足で通り過ぎる。男の足音。使用人ではない。
ウォード家は、この土地では大きな屋敷だった。燭台も銀器も客間もある。肖像画も、応接室の上等な絨毯も、冬の舞踏会に使う広間もある。
だがその夜、廊下を歩く者は皆、足元を確かめるようにしていた。
十五年前の土は、もう屋敷の外だけにあるものではない。




