12 真珠が首から外れる
ロレッタが最初にしたのは、ヴィヴィアンへ手紙を書くことではなかった。
自室へ戻ると、机の引き出しから小さな帳面を出し、昨夜と同じ頁を開く。そして昨日見たものの下に、一行だけ書いた。
――義母の真珠、留め金内側にM・H。
これを誰かに渡せば、もう知らなかった場所へは戻れない。
義母の首にあった真珠は、ただの古い宝石ではない。殺されたかもしれない女の持ち物だ。少なくとも、その可能性が高い。
しかも義母は、それを美しいと言った。自分によく似合うと言った。
ロレッタは帳面を閉じた。机の上には、実家から持ってきた便箋がある。夫の家の紋ではない。ロレッタの生家のものだ。
彼女は一枚取り、短く書いた。
『昨夜、確認いたしました。真珠三連、留め金内側にM・Hの刻印あり。義母は現在も所持。今朝以降、隠す可能性があります』
宛名は書かない。封も、ウォード家の蝋は使わない。
ロレッタは侍女を呼んだ。嫁いでくる時に実家から連れてきた娘で、ウォード家の古い使用人ではない。
「これを、昨日のホテルへ。ヴェイル様付きのハンナ様へ直接渡して」
「……奥様?」
「誰にも見せないで」
「旦那様にも?」
「旦那様にも」
侍女は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに手紙を受け取った。
「承知しました」
「それから、戻る時は裏門からではなく、正面から帰って。隠れたと思われる方が面倒になるわ」
「はい」
侍女が出て行くと、ロレッタは窓の外を見た。
朝の庭は、何事もなかったように整然としている。植木の刈り込みも、砂利道も、噴水も。十五年前に奪われた金で整備されたのかもしれないものが、今日も静かに朝日を受けている。
……その中で、自分は何年暮らしてきたのだろう?
数えようとして、やめた。
数えるのは後でいい。まずは、自分の目で見たものを書く。見たものを渡す。それから考えよう。
◇
同じ頃、エレノーラは真珠を宝石箱から出していた。
昨夜外したはずの真珠を、今朝また手に取る。侍女は髪結いの準備をしながら、鏡越しにその様子を見ていた。
「奥様、今日はそちらを?」
「いいえ」
エレノーラはすぐに答えた。
「今日はつけないわ」
ならなぜ出したのか。侍女は聞かなかった。聞くような者は、この家には長く残れない。
エレノーラは真珠を布に包む。包み方がいつもより雑で、一粒、布の端から覗いた。彼女はそれに気づき、包み直す。今度はきつく。
「これを、奥の小箱へ」
「宝石棚ではなく?」
「奥の小箱と言ったでしょう」
「失礼いたしました」
侍女は受け取ろうとする。だがエレノーラは手を離さなかった。
「いいえ、私がやるわ」
そう言って立ち上がる。
いつもなら、こういうことは彼女は侍女に任せる。宝石棚の鍵も、小箱の出し入れも、すべて人にさせる。その方が奥方らしいと信じている。
そのエレノーラが、自分の手で真珠を持って寝室奥の衣装部屋へ入った。
扉が閉まる。少しして、引き出しを開ける音。箱を動かす音。何かが落ち、すぐ拾われる音。
侍女はその音を聞きながら、黙って髪結い道具を並べ続けた。
◇
午後、町医師から正式な使いが来た。
――十五年前のハートウェル家行方不明者に関する検分のため、当時ハートウェル家から流出した可能性のある装身具について確認したい。旧交ある家々へ同様の照会をしている。もし該当する品があれば、任意で確認に応じてほしい。
任意。その言葉に、エレノーラは少し落ち着いた。
「任意なら、断ればよろしいでしょう」
彼女は応接室で手紙を読み、セドリックへ渡した。
セドリックは椅子に深く座り、鼻の上に眼鏡をかけていた。昨夜は遅くまで書斎でアーネストと話していたせいで、目の下に影がある。
「断り方が問題だ」
「持っていないと言えば」
「昨日まで首につけていただろう」
「誰が覚えていると言うの」
「ヘンリーが見ている。ロレッタも」
エレノーラの指が扇を探す。だが今日は扇を持っていない。代わりに膝の上のハンカチをつかむ。
「あの子は、何も言わないわ」
「どちらのことだ」
「ヘンリーも、ロレッタさんも」
「ヘンリーはともかく、ロレッタは分からん」
「嫁ですよ」
「嫁だからだ」
セドリックは手紙を机へ置いた。
「昨日から、あの娘の目が変わった」
「あなたまで、あの女の味方をするのですか」
「馬鹿を言うな。味方か敵かの話ではない。口を開くかどうかの話だ」
エレノーラはハンカチを握りしめた。
「なら、真珠はここにはないと言えばいいわ」
「どこにある」
「知らないわ」
「お前が知らないと言って通るか」
「では、盗まれたことに」
「今朝まであったものが、都合よく盗まれるのか」
セドリックの声が低くなる。エレノーラは黙った。
「奥の小箱か」
夫に言われ、彼女の肩が小さく跳ねた。その反応で十分だった。
「出せ」
「嫌です」
「エレノーラ」
「嫌です!」
声が割れた。廊下の外にいた侍女が息を止める。
セドリックは立ち上がった。
「出せと言っている!」
「あれは私のものです!」
「そう言い張るなら、なおさら堂々と見せればいい」
「嫌! あの女に渡るくらいなら」
「渡すとは言っていない」
「取られるわ……」
エレノーラは立ち上がり、後ずさった。
「皆、取られる。家も、鉱区も、あの土地も。今度はこれまで取るつもりなのよ」
「元々、誰のものだ」
セドリックが言った。エレノーラは口を閉じる。その問いに答えられないことは、二人とも知っていた。
その時、応接室の扉が叩かれた。
「誰だ」
「ヘンリーです」
セドリックは舌打ちする。
「後にしろ!」
「真珠のことで」
エレノーラはハンカチを落とした。
ヘンリーは返事を待たず、扉を開けた。昔ならできなかったことだ。少なくとも、昨日までなら。
「父上。母上。町医師の使いが来たと聞きました」
「だから何だ」
「確認に応じてください」
「お前に命じられる覚えはない」
「命じているのではありません。お願いしています」
「同じことだ」
ヘンリーは母を見た。
「母上。あの真珠は、ハートウェル夫人のものなのですか」
「違います」
「留め金の内側を見せてください」
「なぜあなたは、この母に向かってそんなことを」
「見せてください」
「嫌よ!」
「なら、違うと言えないではありませんか」
エレノーラの頬が赤くなった。
「……ヘンリー、あなたまで、私を疑うの」
「疑いたくありません」
「なら疑わなければいいでしょう!」
「昨日まで、私はそうしていました」
ヘンリーの声は小さかった。
「疑わず、聞かず、何も知らずにいました。その結果、今こうなっています」
「あなたは悪くないわ」
エレノーラが一歩近づく。
「ヘンリー、あなたは何も悪くないの。あの家のことは、大人たちの話だった。あなたはまだ子供だったわ」
「だから、母上たちは私に何を隠したのですか」
エレノーラの手が止まった。セドリックが間に入る。
「もうよい。ヘンリー、出て行け」
「いいえ」
「出て行けと言っている」
「いいえ」
二度目の否定は、一度目より強かった。
セドリックは息子を見る。ヘンリーは青ざめていた。怖くない訳ではない。だが、引かなかった。
「母上。真珠を見せてください」
「嫌よ」
「では、私が探します」
「何ですって!」
「奥の小箱ですね」
その言葉に、エレノーラは悲鳴を上げる。ヘンリーは応接室を出た。
セドリックが追おうとする。だがその前に、アーネストが廊下の向こうから来た。
「何をしている」
「兄上。母上の真珠を」
「やめろ」
「なぜです」
「今それを出せば、向こうの思う壺だ」
「向こうとは誰ですか」
「ヴェイルだ。あの女だ。あいつらは全部仕組んでいる」
「では、真珠にM・Hの刻印がなければ済む話です」
アーネストは言葉に詰まる。ヘンリーはその隙に母の部屋へ向かった。
エレノーラが追う。
「やめて、ヘンリー!」
その声を聞いて、使用人たちが廊下の端で立ち止まる。
ヘンリーは寝室奥の衣装部屋へ入る。小箱はすぐに見つかった。母が急いで隠したため、棚の奥へ押し込む余裕がなかったのだ。
布包みを開く。真珠が出る。留め金を返す。
――M・H。
小さな二文字。
ヘンリーはそれを見たまま、しばらく動けなかった。
「……違うの」
エレノーラが後ろから言った。
「それは、たまたま」
「たまたま」
「そうよ。古い宝石には、誰かの名が入っていることがあるわ」
「マリア・ハートウェル」
「違うわ」
「母上」
ヘンリーは真珠を布の上へ戻す。
「これは、ハートウェル夫人のものですね」
「違う……」
「では、どなたから?」
「覚えていないわ」
「いつから」
「覚えていないのよ!」
エレノーラは両手で耳を塞ぐ。真珠の粒が、布の上で小さく転がる。高価なドレスの袖が震えていた。
「私は知らない! 私は何もしていない。あの人が決めたのよ! アーネストが運んだの。私はただ、家を守ろうと――」
裏返った声がその場に響く。アーネストは廊下で足を止めた。セドリックも、動かなかった。
そしてヘンリーの視線は、母に向かっていた。
「運んだ」
彼はその一語だけを拾った。
「何を、運んだのですか」
エレノーラの手が耳から落ちる。言ってしまった、とその場にいた誰もがそう思った。
だが沈黙は長くなかった。先に動いたのはセドリックだった。
「その真珠をこっちへ」
「父上!」
「よこすんだ」
「いいえ、町医師へ出します」
「よこせ!」
セドリックは手を伸ばす。ヘンリーは下がった。
その瞬間、ロレッタの侍女が廊下の角から姿を見せた。彼女は少し息を切らしている。ホテルから戻ったばかりなのだろう。
その目が、布の上の真珠を見た。ヘンリーは真珠を手に取った。
「ロレッタはどこだ」
「奥様は、ご自室に」
「呼んでくれ」
「はい」
侍女はすぐに走った。セドリックが低く唸る。
「お前、自分が何をしているか分かっているのか」
「分かりません」
ヘンリーは目を伏せる。
「ですが、今まで分からないままにしていたことは、もう分かっています」
「ヘンリー」
「父上。私は何も知らなかった。それが私の役目だったと、昨日おっしゃいましたね」
「だから何だ」
「その役目は、もう終わりです」
セドリックの顔が強ばった。
ロレッタが廊下の向こうからやって来る。歩幅は小さいが、急いでいた。そしてヘンリーの手の中の真珠を見た。
「見つかったのですね」
「君は知っていたのか」
「昨夜、見ました」
「なぜ私に言わなかった」
「言ったところで、あなたは今のように動けましたか?」
押し黙るヘンリーに、ロレッタは布を差し出した。
「包んでください。素手で持たない方がよろしいかと」
その言い方に、ヘンリーは一瞬ヴィヴィアンを思い出す。
ロレッタは夫ではなく、真珠を見ていた。ヘンリーは言われた通り、真珠を布に包んだ。
「町医師へ持って行きます」
ロレッタが言った。
「私も行く」
「ヘンリー!」
エレノーラがすがるように呼ぶ。ヘンリーは母を見た。
母は泣いていた。だが、その涙に今すぐ駆け寄ることが、正しいのかどうか分からなかった。
十五年前、クレアは泣いただろうか。火事の中で。母の腕の中で。
こんな時に、そんなことを、今さらのように思った。
「母上。後で、聞きます」
「……嫌よ」
「聞きます」
ヘンリーは真珠を持ち、ロレッタと共に廊下を歩き出した。
セドリックは止めなかった。アーネストも止めなかった。
止めれば、使用人たちの前で真珠を奪い返すことになる。もうそれができる段階ではなかった。
ヘンリーとロレッタは並んで歩く。二人の間は、一人分ほどあいていたが、それでも、同じ方向へ進んでいた。
玄関で、ロレッタは御者に町医師の家へと告げる。馬車に乗る前に、ヘンリーは一度屋敷を振り返った。
白い壁。緑の屋根。広い窓。十五年間、彼が当たり前に帰ってきた家。
その中で、母は盗品を首にかけていた。父はそれを知っていた。兄は図面を知っていた。
そして自分は、知らなくてよかった。
馬車の扉が閉まる。
ロレッタは向かいの席に座り、膝の上で手を重ねた。
「ロレッタ」
「はい」
「君は、私を軽蔑しているか」
「今は、判断を保留しています」
「厳しいな」
「便利な慰めを申し上げる場面ではありませんので」
ヘンリーは、少しだけ笑いかけようとした。だが笑えなかった。
手元の布包みが重い。真珠など、軽いもののはずなのに。
◇
町医師の家に着いた時、先に知らせを受けたのか、ハンナが待っていた。
その後ろに、ヴィヴィアンはいない。ヘンリーは少しほっとし、それから、そのことを恥じた。
ハンナは丁寧に礼をした。
「ヘンリー・ウォード様、ロレッタ夫人。お預かりいたします」
「ヴィヴィアン嬢は」
「現場におります」
「そうですか」
ヘンリーは布包みを差し出した。ハンナは直接受け取らず、箱を出した。内側に柔らかい布が敷いてある。
「こちらへ」
真珠を置く。ハンナは留め金の内側を見た。M・H。見ても、眉一つ動かさなかった。
「たしかに、お預かりしました。町医師と記録官立ち会いのもとで確認いたします」
「お願いします」
ハンナは彼女に対し、ほんの少しだけ、頷いた。
それだけだったが、ロレッタは、自分が戻れないところへ一歩進んだことを、その頷きで理解した。
真珠は箱に収められた。
マリア・ハートウェルの名は、十五年ぶりに首から外れ、記録の上へ戻ることになった。




