9 小箱の中身
小箱を開けるには、思ったより時間がかかった。
錠前は潰れていた。焼けたのか、上から石を積まれた時に歪んだのか、素人目には分からない。無理にこじ開ければ中の紙まで傷むと父が言い、技師の一人が細い工具を持ってきた。
記録官が机代わりの板を用意し、警備隊長が立会人の名を読み上げる。
私、ヴィヴィアン・ヴェイル。旧ハートウェル邸跡地および周辺区画の現所有者。
エイドリアン・ヴェイル。調査用魔導機械の所有者。
町医師。警備隊長。記録官。
それから、ウォード家の者としてアーネスト・ウォードとヘンリー・ウォード。
「なぜ我々まで」
アーネストが低く言った。
「ご不満でしたら、お帰りになっても構いません」
私は彼に微笑む。
「ただし、ここで見つかったものについて後から異議を唱えるなら、今ご覧になっていた方がよろしいかと」
アーネストは一声うなるが、帰らなかった。帰れないのだろう。
ヘンリーは兄の横に立っていた。何度も何度も何かを言いかけて、そのたびに口を閉じる。
彼はまだ、自分の立ち位置を決めかねているのだろう。十五年も、自分は悲劇の側だと思っていたのだ。その足元から別のものが出てきたら、すぐには立ち直れまい。
小箱の錠前が、かちりと鳴った。技師が手を止める。
「開きます」
「記録を」
すかさず警備隊長が言う。記録官がペンを構えた。
技師は蓋へ手をかけ、ゆっくり持ち上げる。中には、油紙に包まれた束が入っていた。
紙は湿気を吸っていたが、油紙のおかげで形は残っている。小さな帳面が二冊。封蝋の割れた手紙が三通。細い革紐で結ばれた紙束。それから、金属製の小さな筒。
父が先に手袋を替えた。
「紙は私が見る。ヴィヴィアン、読むな」
「なぜ」
「崩れるかもしれない」
「分かりました」
そこは素直に従う。十五年前なら噛みついていたかもしれないが、今は、紙を失う方が痛い。
父は油紙を広げ、帳面を一冊取り出す。表紙に、祖父の字があった。オーガスト・ハートウェル。
祖父は、名前を書く時に最後の線を少し強く引く。その癖は変わらない。
私はその字を見ただけで、喉の奥がつかえた。だが泣かない。まだだ。
「日付は」
警備隊長が訊ねる。父は頁をめくった。
「火災の三日前から始まっている」
「三日前」
「正式な帳簿ではない。覚書だな」
紙を傷めないように、父はゆっくり読む。
「セドリック・ウォードより、追加融資の申し入れ。名目は輸送路整備。実際は別件の穴埋めと見る。断る」
アーネストの口元が動く。一方、ヘンリーは兄を見る。
「父上が、ハートウェル氏に融資を?」
「昔のことだ」
アーネストは早口で言った。
「事業家同士なら、そういう話もあるだろう」
「では、別件の穴埋めとは何ですか?」
「知らん!」
ヘンリーはそれ以上言わなかった。
父は次の頁をめくる。
「アーネスト、例の倉庫を妙に気にしている。ヘンリーを使って中を見せようとした可能性あり。トマスへ注意」
「私を使って?」
ヘンリーの表情が変わる。アーネストは答えない。
この時私は、ヘンリーを見ることはしなかった。見れば、何か言ってしまいそうだったのだ。
あなたは本当に、何も気づかず遊んでいたのか、と。
だが今は、私の問いより祖父の字が大事だ。父はまた読み進める。
「エレノーラ夫人、マリアの筆跡を褒める。以前より、招待状や礼状の控えに関心を示す。理由不明。マリアへ、文箱の管理を任せきりにしないよう伝える」
ロレッタが小さく息を呑む。ヘンリーも今度は聞き逃さなかった。
「母上が?」
「……それも昔のことだ」
アーネストの声には、さっきより焦りが混じっている。
「十五年前の覚書に名前があるだけだ! 何の証拠にもならない」
「ええ、そうですわね」
私は言った。
「《《一つだけでは》》、何の証拠にもなりません。だから《《一つずつ集める》》のです」
父は二冊目の帳面を出す。こちらは祖父のものではなかった。
表紙に名はない。だが、数字がぎっしり並んでいる。
「これは」
記録官が身を乗り出す。父は少しだけ眉を寄せた。
「裏帳簿だ。ウォード家側のものだろう」
「なぜハートウェル家の箱に」
「オーガスト殿が写しを取ったのか、元を手に入れたのか。まだ分からない」
私は帳面の方を見た。祖父は何かを掴んでいたのだ。
だから襲われたのか。あるいは、襲われると分かって隠したのか。いずれにせよ、もう今となっては聞けない。
父は一頁ずつ確認した。
「鉱区名が伏せられている。支出先も暗号だ。だが金額が大きい。セドリックだけではなく、アーネストの印もある」
「偽物だ!」
その時、アーネストが声を上げた。町の者たちが一斉に彼を見る。
警備員が一歩前に出るが、私は片手を上げて止めた。
「アーネスト様、なぜ偽物と?」
「そんなもの、見れば分かる!」
「では、あなたはこれに見覚えがあるのですね」
アーネストは口を閉ざす。
「兄上」
ヘンリーは兄の方を見る。
「黙れ」
「これは何ですか」
「黙れと言っている!」
「なぜですか。私もウォード家の人間です」
「《《だから》》黙れ!」
アーネストの声が、旧邸跡地に響く。
ロレッタがわずかに顎を引いた。彼女は夫を見ていた。ヘンリーが何を言うのか、見ていた。
ヘンリーは拳を握る。だが、その先が出ない。兄に逆らう言葉が、まだ彼の中で形になっていないのだろう。
そして父は次に、三通の手紙を順に広げた。
一通目は、セドリック・ウォードから祖父へ。融資の依頼。文面は丁寧だが、急いでいる。二通目は、祖父からセドリックへの返事の控え。条件が不明瞭なため断る、とある。
そして三通目には、母の字が――
私は思わず一歩、前へ出かける。それを父がこちらを見る。
――動くな。
そう言われた気がした。
父は手紙を机板の上に置き、私にも見えるようにした。
字は少し崩れていた。火事の前の日付。
『お父様。エレノーラ夫人がまた文箱を見たがりました。私の礼状の控えを褒めていましたが、どうにも落ち着きません。クレアの名を書くところを見たがるのも妙です。考えすぎなら良いのですが』
母の字だ。母の声が、紙の上に残っている。
私は指先を動かしかけた。触らない。触ってはいけない。父から教わった通り、手袋をした手を握るだけにした。
「エレノーラ……」
ヘンリーはつぶやく。母親の名を、まるで初めて聞くもののように。
アーネストは今度こそ、言い返さなかった。
父は最後に、金属の筒を取った。小さな筒だ。祖父の机の引き出しに入っていたものと同じ形。古い鉱山地図や測量図を丸めて入れるためのものだ。
蓋は固く、簡単には開かない。父が細い工具で縁の土を落とし、ゆっくり回す。ぎし、と嫌な音がした後、蓋が外れた。
中から出てきたのは、細く丸められた紙だ。父はそれを広げた。
ハートウェル家の西側倉庫と地下貯蔵庫の略図。そして、赤い印。
「これは」
警備隊長が言った。
「地下の位置ですか」
父はうなずいた。
「おそらく、この空洞の図面だ。だが、表の図面にはなかった」
「隠し貯蔵庫ですか」
「オーガスト殿が作ったものか、それ以前からあったものかは分からない。ただ、この図面を持っていたなら、誰かはここを知っていたのだろう」
「誰かとは?」
警備隊長が尋ねる。父は黙って、図面の端を指す。そこに、薄く小さな文字があった。
――アーネストへ写し渡し済み。
私ではなく、ヘンリーが先に声を出した。
「兄上!」
アーネストは後ずさった。たった一歩。
けれど、その一歩で十分だった。町の人々がざわめく。記録官が慌てて文字を書きつける。警備隊長の手が腰の警棒へ近づく。
「違う……」
アーネストが言った。
「違う! これは……」
「写しを渡された覚えは?」
警備隊長が尋ねる。
「……知らない」
「先ほどは偽物とおっしゃいました」
「知らないと言っている!」
その声には微かに悲鳴が混じっていた。
私は穴の横へ目を向ける。布に覆われた骨。鍵束。母の手紙。祖父の覚書。裏帳簿。図面。
十五年前、全部を燃やしたつもり、埋めたつもりだったのだろう。
けれど、小箱は残った。
祖父が隠したのか、奪った者が慌てて一緒に埋めたのか、それはまだ分からない。だが残った。
残ってしまった。
「隊長」
私は言った。
「この場にあるものは、すべて記録と保全をお願いします。ヴェイル鉱業の所有地から出たものですが、十五年前の事件に関わる可能性があります」
「承知しました」
「そして、ウォード家の方々には、後ほど正式にお話を伺ってください」
警備隊長はうなずく。
そしてアーネストは私を睨みつけ、忌々しそうに問いかける。
「ヴィヴィアン嬢、あなたは一体何様のつもりだ」
それは、十五年前からずっと私自身、自分に向けて問いかけていたものだ。
何者? 火事で死んだ子。遠縁へ預けられた娘。体調不良で委任状を書いた令嬢。
鉱山女王、ヴィヴィアン・ヴェイル。
クレア・ハートウェル。
どれも、私だ。だが、今ここで教えてやるには早い。
「私は、この土地の所有者です」
私は答えた。
「そして、あなた方が売った土地を、正当に掘っている者です」
アーネストはまだ何か言おうとするが、警備員が前に出ると、口を閉じた。
ヘンリーはまだ図面を見ていた。その顔は青ざめている。今度は悲劇の主人公の青ざめ方ではない。自分の足元に唐突に穴が開いてしまった様な表情だ。
「兄上」
彼はもう一度言った。
「なぜ、この図面に兄上の名が」
「黙れ」
「十五年前、あなたは何を」
「黙れ!」
「ヘンリー」
不意にロレッタが呼びかける。ヘンリーは振り向いた。
ロレッタは彼を見ていた。怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ、今この場で夫が何を選ぶのかを見る目だった。
「あなたは、義兄上にお聞きになった方がいいと思います」
「ロレッタ」
「今、聞かなければ、この先ずっと聞けないのでは」
彼は唇は震わせつつ、それでも兄へ向き直った。
「兄上。私は、何も知らなかった」
「だから何だ」
アーネストの返事は早かった。そして、ひどかった。
「お前は知らなくてよかった。泣いていればよかったんだ。クローバーが死んだ、可哀想なヘンリーでいれば、それで周りは同情した」
町の者たちは、一斉に黙る。ヘンリーも黙った。ロレッタの両手が、手袋の上から強く重なった。
私は動かなかった。クローバー。その名を、アーネストが口にした。
ヘンリーが私をそう呼んだことを、彼は知っていた。
ウォード家の中で、そう話していたのだろう。死んだ幼馴染。四つ葉を見つける娘。可哀想なヘンリー。ずいぶん都合よく使われたものだ。
「兄上」
ヘンリーの声は、さっきより小さかった。
「あなたは、知っていたのか」
アーネストは答えない。答えないまま、穴の中の骨を見た。その沈黙だけで、十分だった。
警備隊長がアーネストの前へ出た。
「アーネスト・ウォード様。詳しいお話をお聞かせ願います」
「今ここでか」
「町の警備詰所までご同行ください」
「私は何も」
「ご同行ください」
アーネストは父を、私を、そしてヘンリーを見、最後に、町の人々を見た。
助けはどこにもない。
彼は乱暴に帽子をかぶり直した。
「いいだろうさ。だが、こんなものはすぐに誤解だと分かる」
「ええ」
私は言った。
「誤解なら、書類が晴らしてくれるでしょう」
アーネストは私を睨みつけた。だが、そのまま連れて行かれた。
一方、ヘンリーはその場に残った。彼の顔からは、怒りも悲しみも抜けていた。ただ、どこか何かを飲み込めずにいるような頼りない表情をしていた。
「ヴィヴィアン嬢……」
彼は私を呼んだ。
「あなたは、いったい……」
「ヘンリー・ウォード様」
私は遮った。
「あなた、今日はお帰りになった方がよろしいわ」
「だが」
「今のあなたには、聞くべき相手が他にいるでしょう」
ヘンリーは口を閉じる。
父に。母に。兄に。そして、妻に。私ではない。少なくとも、まだ。
ロレッタが一歩前に出た。
「失礼いたします。ヴェイル様」
彼女は私へ丁寧に礼をする。だがそれは、十五年前の火事を知らなかった者のものではない。今、何かを見てしまった人の態度だ。
「夫を連れて戻ります」
「ええ」
「後日、あらためてお話を伺ってもよろしいでしょうか」
ヘンリーが彼女を見る。ロレッタは見返さない。そんな彼女を見て、私はうなずいた。
「いつでも」
ロレッタはもう一度礼をし、ヘンリーの袖を引く。彼は今度は逆らわなかった。
二人が馬車へ向かうのを見送りながら、私は右手をゆっくり開いた。掌の火傷は、今は痛まない。
父が隣に立った。
「名前が出たな」
「ええ」
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
「そうか」
「でも、立っています」
「ああ」
父はそれ以上言わない。それでよかった。
小箱の中身は、記録官によってこれから一つずつ書き留められていく。
祖父の覚書。裏帳簿。母の手紙。地下貯蔵庫の図面。アーネストへ写し渡し済み、の文字。
そして、土の中の人骨。
火事ではない。逃亡でもない。不正を隠すための失踪でもない。
少なくとも、もうその言葉だけでは終わらない。
十五年前は、嘘が先に町に走った。
だが今日、ようやくその足は止まった。




