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#07. トラブル発生の展示会

残業した日の帰り道に、心の奥から溢れてくる想いを無理やり蓋をした対処が功を奏し、あれから私は何事もなかったように毎日を過ごしている。


広瀬主任もあの日以来、私を動揺させたような言動を見せることはなかった。


翌日にオフィスで顔を合わせた時には、昨日の出来事は「夢だったのかな」と私自身の記憶を思わず疑ってしまうほど通常運転。


「昨日は資料作成ありがとう」と御礼を述べられただけで、それ以外は残業について触れることはなく。


広瀬主任はいつも通りの柔らかな優しい笑みに、いつも通りの言葉や態度だった。


だから、自然と従来通りの日常が舞い戻ってきて、私はまた仕事に没頭する日々に入り込んでいった。


ちなみに追加資料を急遽作成して対応した大手スーパーの案件は大成功。


競合他社から当社への切り替えが決定し、課内でも大騒ぎの大型受注となった。


広瀬主任は営業として大きな実績を得て、エースの名に恥じない仕事ぶりから社内での評価はますますうなぎのぼり。


そのおこぼれで、追加資料の作成を手伝っただけにもかかわらず、私までアシスタントとして井澤課長からお褒めの言葉を頂いてしまった。


まだちょっとだけしか貢献できていないけれど、営業一課の一員として認められた気がして嬉しかったし、少し自信をつけることができた。


そうこうしているうちに、日々は慌ただしく過ぎていき……


気づけば、風に乗って金木犀の甘い香りが漂い始める季節を迎えていた。


私が異動してきてから約3ヶ月。


10月になり、いよいよ今日は大規模な展示会の日である。


「会場入りして準備しているとなんだかドキドキしてきますね! 特に今年はうちのチームがメイン担当だから気合いが入っちゃいます!」


「その気持ち分かるなぁ。オレも今日は特別な日用のスーツで気合い入れてきたし! 商談成功させまくって、広瀬主任からエースの座を奪う気マンマンだし!」


「心意気は超カッコいいですけど……久我さん、その目標設定はハードル高すぎじゃないですかぁ?」


「分かってるっての! 高梨はオレに冷たくない!? まぁともかくそれくらい頑張るって意味!」


展示会のために借りているホテルの宴会場で、私は久我くんや高梨さんと話しながら着々と準備を進める。


今日はドラッグストア向けの当社主催の展示会で、年末商戦に向けた秋冬商材、そして新商品を紹介する場だ。


お招きした取引先バイヤーを相手に資料やサンプルを見せて説明し、営業担当が商談をする。


営業アシスタントの私は、そのサポートが仕事だ。


開始時間が迫る中、黙々と資料を準備したり、商品を陳列したりしていると、広瀬主任がやや慌てたような足取りでこちらへやって来た。


今日も今日とて、思わず見惚れてしまうほど素晴らしく華麗にスーツを着こなした広瀬主任。


でもその整った顔には、珍しく焦りが滲んでいる。


その様子に一抹の不安を覚えながら「どうしたんだろう?」と見上げると、広瀬主任は私達に向かって問いかけた。


「——今日お披露目する新商品サンプルだけど、控え室の他にどこに置いてある?」


「えっ、新商品サンプルの在庫はすべて控え室にあるはずですよ? こっちの会場には陳列用の本商品とサンプルの一部だけですけど?」


「やっぱり。……まずいな」


質問に対して不思議そうな表情をした高梨さんが率直に答えると、途端に広瀬主任は顔をこわばらせ、ポツリと小さくつぶやいた。


「なにかあったんですか……?」


尋常じゃない気配を感じ、私は恐る恐る疑問を口にする。


すると、広瀬主任は悩ましげに眉を寄せ、吐息交じりに言葉を繰り出した。


「……実は控え室にある新商品サンプルの数が明らかに少ないんだよ。あの数ではたぶん途中で足りなくなる」


「そんな、新商品は今回の目玉ですし、足りないとなると影響が大きいですよね……?」


「実物を試してもらう機会を失うわけだから……商談には確実に影響する」


各々が事態の深刻さに気づき、顔を青くする。


そんな中でも一際顔色を悪くしているのが高梨さんだ。


「あ、え、うそ……。商品部に新商品サンプルの発注手配したの、わたしです……。そんな、どうしよう……!?」


今にも泣き出しそうな顔をして、焦りと混乱からガタガタと震え始めた。


その場に沈黙が訪れる中、私はさっと腕時計に視線を落とした。


現在の時刻は午前9時半。


この時間ならもう商品部の社員も出社しているだろうし、連絡がつくはず。


状況を説明して、急遽追加でサンプルの発注を相談することも可能だ。


商品部は手配をするだけで、サンプル自体は確か工場で作られているはずだから、そちらまで取りに行けばいい。


展示会スタートまでは残り30分だけど、途中まで持つくらいの数はあるわけだし、なんとかなるだろう。


 ……うん、大丈夫。たぶん、これでいけるはず!


私は素早く頭の中で段取りをシミュレーションすると、ぱっと顔を上げて、真剣な目で広瀬主任を見た。


「広瀬主任、私、今から商品部に追加の発注を相談した上で、サンプルを工場まで取りに行ってきます。外出の許可をいただけますか?」


「えっ、遥香さん!? それならわたしが行きますよ! わたしのミスなんですから……!」


「ううん、高梨さんは展示会会場にいてくれた方がいいと思うの。昨年の状況を知っていて私より的確に対応できるはずだから。商品部との調整や工場への訪問なら私も総務の時に何度も経験してるしね。……適材適所を考えるとこの配役が一番いいと思うんですけど、どうでしょうか?」


動転する高梨さんに説明しながら、最後は判断を委ねるように私は広瀬主任に視線を向けた。


「——分かった。足りない分のサンプルの手配は南雲さんに任せる。お願いできる?」


「はい……! では、さっそく行ってきます!」


広瀬主任に頼られるとなれば、俄然やる気が出る。


私は控え室に戻ってまず商品部へ連絡を入れた後、荷物を手に外へ駆け出した。



◇◇◇



展示会会場を飛び出してから約4時間後。


午後1時半を過ぎた頃に、私は新商品サンプルの入った段ボールとともに再び控え室に戻ってきていた。


朝ここを出てから、まずは商品部のいる本社へ立ち寄り、発注に必要な書類関係の処理をして、その後に工場へと向かった。


工場では、急な追加発注に伴い、新商品サンプルの在庫が足りていなかったため、私も飛び入り参加して制作にも尽力した。


制作といっても商材を作るのではない。


お試し用のパウチと商品説明が書かれたリーフレットをセッティングしていく作業である。


必要数のサンプルを作り終えると、それを段ボールに詰め、急いでタクシーに飛び乗った。


こうして本社と工場の2ヶ所を巡り、ようやくこの会場へと戻ってきたわけである。


もともと控え室にあった新商品サンプルを確認すれば、かなり数は減っていたものの、まだかろうじて残っていた。


つまり、完全に在庫が切れてしまうまでに補充ができたのだ。


 ……ふぅ、良かった。間に合った!


これでひと安心。


もう途中で足りなくなる恐れはないだろう。


ミッションクリアである。


私は控え室で少しだけ休憩を取り、お手洗いで崩れかけたメイクを直すと、再び気合いを入れて展示会会場の方へ移動した。


会場内に足を踏み入れば、ザワザワとした騒めきが耳に飛び込んでくる。


取引先バイヤーの方や自社の社員の話し声でその場はとても賑わっていた。


私はもともと配置されていた担当ポジションへと向かう。


そこでは広瀬主任がバイヤーさんとテーブルで和やかに商談を進めていて、その周辺には久我くんや高梨さんも来場者対応を行っていた。


広瀬主任は私の姿に気がつくと、商談中なのにあからさまに口元を綻ばせ、視線で「おかえり」と伝えたきた。


高梨さんに至っては、来客対応を終えるやいなや、私の方へ小走りで駆け寄ってきて、大きな瞳をウルウルさせる。


そして何度も「ありがとうございました!」と御礼を言われた。


高梨さんには異動当初から私もお世話になっているしお互い様だ。


少しでも恩を返せたのなら本望である。


なにより私達のチームがメイン担当を務める展示会に支障が出るのを防げて良かったと思う。


 ……まだまだ営業アシスタントとしての経験は浅いけど、少しは役に立てたかな? よし、午後も頑張ろ!


その後、展示会終了時刻の午後5時まで、私は来客対応や営業担当のサポートに奔走した。


「やーっと片付け終わりましたね! あとはこの段ボールを本社へ発送する手続きをすればオッケー、っと!」


「あ、高梨さん。それなんだけど、そこにある伝票に記入して段ボールに貼っておけば、あとはホテルの方が発送しておいてくれるみたいだよ」


「そうなんですか! 助かりますね! じゃあそれはわたしがやっておくので、遥香さんは少し休憩してきてください。急遽工場まで行くことになってきっと疲れてますよね? もう残りはこれだけですから、わたしにお任せください!」


来場者が全員帰った後、会場からの撤収作業に励んでいた私は、高梨さんからの有難い申し出を受け入れることにした。


正直なところ、もうクタクタだった。


普段デスクワークだから、外出や立ち仕事に慣れておらず体力がついていかない。


覚束ない足取りで、ふらふらと控え室に戻ると、珍しく広瀬主任もぐったりとした様子で椅子の背にもたれかかっていた。


「……広瀬主任、大丈夫ですか?」


「ああ、うん。ちょっと疲れたかな。そういう南雲さんの方こそ大丈夫? ふらふらに見えるけど」


「気持ちは元気なんですけど、体力がついていかないみたいで。……あ、ご報告ですが、片付けはもう完了しまして、今は高梨さんが荷物の発送対応をしてくれています。それが終われば完全撤収できます」


「そう、ありがとう」



返答しながら、広瀬主任はいつも通りの笑顔を浮かべる。


だけど、そこには隠しきれない疲れが滲んでいた。


新商品サンプルの在庫がないと発覚した時の焦りを帯びた表情といい、今のぐったりと疲れた様子といい、今日はなんだか広瀬主任の珍しい姿が目白押しだ。


スマートで隙のない完璧な姿しか普段目にしないから、ものすごく新鮮だ。


 ……広瀬先輩でもやっぱり焦ったり、疲れたりするんだ。考えてみれば、ごく当たり前のことなんだけど、こんな姿見たことなかったから、なんか意外に思っちゃうなぁ。


決して嫌だとか、幻滅した、とかではない。


むしろ人間味を感じて親近感が湧く。


手の届かない雲の上の人が、まるで急に地上まで降りてきたみたいな感じだ。


そんな錯覚に陥ったからだろうか。


私は無意識のうちに普段なら絶対しない行動に出ていた。


鞄をガサガサと探って、中から取り出した物を自分から広瀬主任に手渡したのである。


「あの、これ良かったらどうぞ」


「キャラメル……?」


「外出した際にコンビニでついでに買ったんですけど……以前プリンや缶コーヒーをいただいた御礼です。疲れた時に効きますよ?」


広瀬主任は私に御礼を告げ、箱からキャラメルをひと粒取り出すと口へ含む。


牛乳やバターが織りなす濃厚でまろやかな甘さが口の中いっぱいに広がったのだろう。


幸せそうに唇の端がふっと緩んだ。


「疲れてる時のキャラメルは最高だね。癒される。……実は俺、キャラメル好きなんだ」


打ち明けるように付け加えられた最後の一言。


そうなんですね!と驚くところなんだろうけれど……


 ……はい、ごめんなさい。広瀬先輩がキャラメル好きなこと、実は知ってます。


なにしろ高校の時、広瀬主任のことを一方的にいつも目で追いかけていたのだ。


よくキャラメルを食べていたのを目撃していたし、周囲の友人にキャラメルが好きと話していたのも耳にしている。


その影響を受けて、つい私もキャラメルを購入してしまうようになった。


当時の私は、好きな人の好きな物をマネして買って、同じ体験をすることで満足していたのだ。


それ以降キャラメルを買うことが癖になり、大人になった今でもふとした時に選んでしまいがちなのだった。


 ……ストーカー一歩手前だよね。でもあの頃は淡い初恋だったから許して……! 恥ずかしすぎて、口が裂けても絶対こんな事実は言えないけど。



誰に言い訳しているのか不明だけど、私は心の中でキャラメルを所持している事情を必死に言い繕った。



「キャラメルありがとう。美味しかった。……あと、今日は朝から本当に色々ありがとう。南雲さんにはいつも助けられてばかりだなぁ」


「とんでもないです。こちらこそ、いつも広瀬主任にはお世話になってばかりですから……! 私のしたことなんて、本当にほんの些細なことですし」


「いやいや、全然些細じゃないから」


「でも広瀬主任のように大型受注を決めるみたいなスゴイことではなく、誰にでもできることですから。いずれにしても、お役に立てたなら良かったです!」


広瀬主任から褒めてもらえるのは心の底から嬉しい。


高校生の頃の、あの地味で冴えない自分から変われた気がするから。


私は喜びを滲ませて素直ににこりと微笑んだ。


するとなぜかグッと言葉を呑み込んだ広瀬主任から、真剣な瞳で真っ直ぐに見つめられた。


その瞳に熱がこもっている気がして私は目を瞬く。


「南雲さ——……」


続けて広瀬主任が口を開こうとしたその時。



「遥香さん、お待たせしましたー! 発送準備も終わったので帰りましょう! あれ? 主任もまだいたんですか?」


無邪気な明るい声が割って入り、私達はそのまま帰り支度をしてホテルを後にすることになった。


結局、広瀬主任が言おうとした言葉は聞けずじまいだった。


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