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#17. 終わりを覚悟した夜

終電間際の時間、街はもう冷えきっていて、吐く息が白い。


私は洸くんの家の前に立ち、そびえ立つマンションを見上げた。


 ……話したいことって、きっと別れ話だよね……。


忙しくて会えない間に、洸くんは水原先輩とやり直す決心をしたのだろう。


仕事の合間を縫って、2人は会っていたのかもしれない。


アウトレットで遭遇した時の水原先輩の去り際を思うと、自然とそう感じてしまう。


あの誘うような魅惑的な笑みが、今も脳裏に焼きついて離れない。


 ……ついに来ちゃったんだ。終わりを告げられる時が……。


最初から覚悟していたことだ。


深入りしすぎないよう心にブレーキをかけ、備えてきた。


だけど、いざその時を前にすると足が動かなくなる。


私はなんとか気持ちを奮い立たせ、エントランスを進み中へ入った。


洸くんの家の前でインターフォンを押そうとすると、指が小刻みに震える。


 ……頑張れ、私! ちゃんと話を聞こう……!


一度ギュッと手を握りしめ、私は覚悟を決めてボタンを押す。


ドアはすぐに開き、今さっき帰宅したばかりという様相の洸くんが玄関に立っていた。


「……来てくれて、ありがとう」


そう言って、洸くんは少し疲れの滲む顔で柔らかく微笑んだ。


部屋に入ると、いつもの香りと静けさに迎えられる。


けれど、今日はその場に張り詰めた緊張感が満ちている気がした。


お互いソファに腰掛けると、しばしの沈黙が流れ、さらに空気が重苦しくなる。


時計の針の音がやけに大きく響いた。


私は膝の上に置いた手を握りしめ、ごくりと息を呑む。


そのタイミングで洸くんが沈黙を破ってゆっくりと口を開いた。


「……会社に寄った時、偶然見たんだ。遥香が……結城くんに抱きしめられてるところ」


「え……」


「いつの間にそんな関係になってたの? まぁ前もライブに誘われたりして仲は良さそうだったしね」


予期していた話と違って、思わず言葉が喉に詰まる。


 ……別れ話、じゃない? それに洸くんが見てた? あの場面を?


自分でもまだ上手く処理しきれない出来事を訊ねられ、私はさらに混乱を深くした。


「……もしかして、結城くんに心変わりした?」


感情を抑えたような低い声で重ねて問われ、ともかく何か返さなきゃと焦燥感に駆られる。


私の気持ちだけは洸くんに誤解されたくない。


慌てて顔を上げ、私は思いつくまま言葉を繰り出した。


「違うんです。あれは……私が勝手に落ち込んでて。慰められてただけというか」


「慰められてただけ?」 


「はい。本当に、何も、なかったんです! 心変わりなんてしてません……!」


「じゃあ聞かせて。落ち込んでたって何に?」


「それは……」


私が口籠ると、洸くんはふっと視線を下ろし、小さく息を吐いた。


「顔を見れば分かるよ。遥香は嘘を吐いてないって。だから俺も信じたいって思ってる。でも——」


そう言って一度言葉を切った洸くんは、どこか弱々しさを滲ませた表情で私を見つめた。


そして心の内を吐露するように口を開く。


「……俺、ずっと感じてたんだ。遥香がどこか距離を取ろうとしてるのを。深入りするのを拒むし、一緒にいても、心のどこかで“離れる準備”をしてるみたいに感じてた。付き合ってるのに、まるで一方的に俺が遥香に片想いしてる気分だった」


「そんなこと——……」


「違うなら教えて欲しい。……俺のこと、本気じゃなかった? 別れたいって思ってる?」


洸くんからの思いがけない言葉に、胸が詰まった。


真剣な眼差しで見つめられ、喉が震える。


 ……私、洸くんにそんなふうに思わせてたんだ……。


不安に怯え、別れに備えていた私の態度が、大好きな人を不安にさせていた事実を今初めて知り、ひどく胸が痛んだ。


目の奥が熱くなり、自然と言葉が溢れ出す。


「違うんです……! むしろ逆で、本気だからこそ、私は洸くんにはふさわしくないって思ってて……!」


私の台詞に洸くんが不可解そうに眉を寄せるのが視界に映った。


このままじゃ何も伝わらない。


高校時代を知られたくない一心でずっと隠してきたけれど、もうそんなこと言っていられない。


大好きな人を苦しませることに比べたら些細なことだ。


あれほど頑なに隠してきたのに、この瞬間、自然とそう思った。


私は一度深く息を吸う。


そして意を決して口を開いた。


「……私、ずっと洸くんに隠していたことがあるんです」


「隠してたこと?」


「……高校の時、“広瀬先輩”のことが好きでした。私の初恋で、憧れの人で、ずっと一方的に片想いしてたんです」


突然の私の告白に、空気が静止した。


「え……?」


戸惑ったように洸くんの瞳が揺れる。


ここで止まればもう言えなくなると本能的に感じた私は、そのまま言葉を続けた。


「洸くんは覚えてないと思います。学年も違ったし、話したのは1回だけですから。でもずっと見てました。だから洸くんがキャラメル好きなことだって……実は前から知ってたんです。……こんな話、引いちゃいますよね」


話しながら私は自虐的な笑みを浮かべ、洸くんから少し視線を逸らす。


「……なんで、隠してたの?」


洸くんは驚きに満ちた目で私を見つめ、そしてポツリと訊ねた。


ここまできたら、もう隠すことなんてない。


ギュッと手を握りしめて、私は素直に口を割る。


「高校時代の私は、地味で冴えなくて。そんな過去を洸くんには知られたくなかったんです。だって、洸くんには長年付き合ってたすごく綺麗な彼女がいたことも知っていたから」


「遥香……」


「……アウトレットで水原先輩に会った時、知らないフリしたけど、本当は知ってました。元カノさんだってこと。昔と変わらず美人で、洸くんと並ぶとお似合いで。しかも水原先輩は洸くんにまだ気持ちが残ってるみたいで」


震える声で思いを打ち明ける中、私はここで一拍言葉を置いた。


一瞬、赤裸々に伝えすぎだろうかという心配が頭をよぎる。


でもこの際だから、丸裸になる勢いで心の奥底を曝け出すことにした。


「あんな素敵な人と付き合ってた洸くんが私なんかで満足するのかな、一時的な気の迷いじゃないかな……って交際当初からずっと不安に思ってました。いつか洸くんはきっと目を覚ます、そして終わりが来るって覚悟もしてて。……だから、深入りしすぎないようにって必死で心にブレーキをかけてたんです……」



言葉が途切れると、その場に静かな沈黙が落ちた。


我に返った私は、一方的に話しすぎた気がしてきて、急にお尻がもぞもぞしてくる。


落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせていると、洸くんが黙ってソファから立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。


そして隣に座ったかと思うと、私を包み込むようにそっと抱き寄せた。


温かな体温に包まれ、無意識のうちに強張っていた体がほぐれていく。


洸くんは私を抱きしめたまま深く息を吐いて、小さく笑う。


「遥香、話してくれてありがとう」


鼓膜を震わせるのは、耳に心地良い優しい声だ。


聞いているだけで心までふわりと緩む。


それから洸くんはゆっくりとした声で続けた。


「俺からもちゃんと説明させて。瞳のこと、遥香が気にしてるみたいだから」


私は小さく頷く。


今までちゃんと訊ねられずモヤモヤしてたから、洸くんの口から教えてもらえるならぜひ聞かせて欲しい。


「確かに、長く付き合ってた。でも今は、本当に何とも思ってないよ。そもそも別れたのも価値観の違いだしね。途中から惰性で続いていた状態だったし、最終的にはお互い未練もなくスッパリ別れたから」


「そう、なんですか? でも水原先輩は未練がありそうでしたけど……」


「いや、それはないよ。別れた後、瞳には何人も恋人がいたみたいだし。これは共通の知人に聞いた話だけど……30歳目前になって周囲が続々と結婚して焦ってるらしいんだよね。そんな時に偶然俺と再会して、変な錯覚を起こしたんじゃない?」


洸くんの話によれば、水原先輩とは年末年始休暇で帰省した際に偶然再会したそうだ。


その時にも軽い口調で「今度飲みに行こう」と誘われたけど、ハッキリ断ったらしい。


私に言わなかったのは、わざわざ話す必要はないと思ったからで、やましい気持ちがあったからではないという。


「でも、洸くんが恋愛から一線引いてたのは……水原先輩のことを引きずってたからじゃないんですか……?」


「それも誤解してる。引きずってたんじゃなくて、恋愛が面倒になったんだ。……瞳の前にも長く付き合った子がいたんだけど、どちらとも結局終わって。その時、積み上げた時間がゼロになることに徒労感を覚えたんだ。恋愛って、いずれ終わるんだと思うと始める気にならなくなって」


「……だから、恋愛から遠ざかってたんですか?」


「そう、遥香に出会うまでは、ね」


洸くんは私の頬に手を添え、視線を合わせると、柔らかく微笑んだ。


甘さを宿した瞳にまっすぐ見つめられ、胸が高鳴る。


「告白した時にも伝えた通り、遥香と一緒に仕事をするうちに、どうしようもなく惹かれた。付き合うようになってからも、それは変わらなくて。遥香が俺から距離を取ろうとしてるのは感じてたけど、それでもなんとか振り向かせようって必死だったよ」


「洸くん……」


「俺の過去のように、恋愛はいずれ終わるのかもしれない。でも遥香と一緒にいるようになって、終わらせたくないって初めて強く感じたんだ」


洸くんの想いがまっすぐ胸に届いて、私の心を震わせる。


みるみるうちに涙が溢れ、つぅっと頬を伝った。


その涙をそっと指で拭いながら、洸くんはさらに言葉を続ける。


「だから終わらせないために、ちゃんと努力がしたいと思ってる。——これが“最後の恋”になるように」


堪らず私は洸くんの胸に顔を埋め、ギュッと抱きついた。


心の奥底から込み上げてくる温かな気持ちが、次から次へと涙になって溢れ出す。


「私も……“初恋”を“最後の恋”にしたいです。洸くんのことが大好きだから。こんなふうに人を好きになるのは、後にも先にも間違いなく洸くんだけです」


「……初めて遥香の口から、好きって聞けた」


洸くんは喜びを滲ませた声で小さくつぶやくと、私の背中に回した腕に力を込める。


そして熱を刻みつけるような深い口づけを唇へ落とした。


「愛してるよ、遥香」


その声が耳元で響き、胸の奥がじんと熱くなる。


溢れた想いが頬を伝い、笑顔と涙が混ざり合った。


◇◇◇



カーテンの隙間から差し込む朝の光が、頬をやさしく撫でた。


私は重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。


ふと隣の気配に気づき、視線を向けると、洸くんが気持ち良さそうに眠っていた。


片腕を私の腰の下に回したまま、静かに寝息を立てている。


 ……寝たの、3時過ぎだったもんね。


今日も朝から仕事なのに、夜更かししてしまった。


そっと体を起こし、乱れた髪を手櫛で軽く直す。


洗面所で鏡を見ると、ほんの少しだけ目の下にクマができていた。


でも、それが気にならないくらい、不思議と表情は明るい。


その時、背後で布団がかさりと動く音がした。


振り返ると、洸くんがまだ半分夢の中みたいな顔で笑っていた。


「おはよう。……もう起きるの?」


「おはようございます。はい、そろそろ準備始めないと、出社時間に間に合わなくなりますよ」


「……あと5分だけ」


そう言って洸くんは腕を伸ばし、私の手首をゆるく掴む。 


ベッドの中に引き摺り込まれ、あっさりと腕の中に囲われてしまった。


「……寝不足なのに、なんだかスッキリした顔してますね?」


「昨日、ちゃんと遥香と話せたからね」


「……私も、ずっと抑え込んでいた胸の中の不安が消えました」


「良かった。これでやっと両想いになれた気がするよ。——もう絶対離さないから」


寝起きの掠れた声でそう言って、洸くんは冗談めかして私をぎゅーっときつく抱きしめる。


息が苦しくなるほどの抱擁に、私は頬を少し赤らめ、くすくすと小さく笑った。


昨日まで黒く塗り潰されていたのが嘘のように、今の私の心は爽やかに晴れ渡っていた。


 ……勇気を振り絞って、心の内を全部曝け出して良かった。



あと2時間もしたら、また年度末の慌ただしさに忙殺される。


寝不足の今、きっと体力的にはしんどいだろう。


でも、それをものともしないくらい心は軽く、気力に満ち溢れている。


今ならいつも以上のスピードで仕事を捌けそうな気がした。


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