エピローグ
年度末の嵐のような日々がようやく過ぎ去り、春のやわらかな陽気が漂う4月中旬。
私と洸くんは、週末と有休を組み合わせ、約束していた2泊3日の旅行へ車を走らせていた。
目的地は、湖のほとりにある静かな温泉旅館だ。
喧騒を離れて至上の休日を過ごせる、というキャッチコピーに惹かれて予約した。
助手席の窓を開けると、ふわりと穏やかな風が吹き込み、目に映る景色は徐々に緑が多くなっていく。
旅行らしい非日常感が増してきて、心がゆるやかにほどけていく心地がした。
「やっと来れたね」
「はい。ホントに3月は長かったです」
「今年は例年以上の忙しさだったからね。その分、営業売上は過去一だったから頑張った甲斐はあるけど。遥香、アシスタントとして、色々サポートしてくれてありがとう」
「少しでも洸くんの力になれたなら、私も嬉しいです!」
「少しどころじゃないよ。仕事でも、プライベートでも、遥香がいてくれたから頑張れた。この旅行の約束も励みになったしね」
洸くんは優しく笑いながら片手でハンドルを握り、もう片方の手で私の指先を探した。
お互いの指が絡まり、手が重なる。
あの夜以来、私達はこんなふうに言葉もなく触れ合い、自然と気持ちを通わせるようになった。
温かな体温からは洸くんの愛情が伝わってくる。
……幸せだなぁ。こんな日がくるなんて、ついこの前まで信じられなかった。11年前の私が知ればビックリするよね。
慌てふためく自分を想像して、思わずくすっと小さな笑いが漏れた。
「どうしたの?」
「ふふっ……なんでもないです」
「そう言われると気になるなぁ」
「ホントに、全然大したことじゃないですよ。ちょっと想像して笑っちゃったというか」
「想像したって何を?」
「恥ずかしいから秘密です!」
「それなら尚更知りたいな。照れてる遥香は可愛いから」
「もう、不意打ちで、そういうこと言わないでください……!」
「その反応も可愛い。もっと遥香を見たいのに、運転中なのが悔やまれるよ」
戯れるような言葉のやりとりによって、車内は笑顔と甘い空気に包まれる。
そうこうしているうちに、目的地の温泉旅館に到着した。
チェックインを済ませると、私達は周辺の散策へ繰り出す。
青空の下きらきらと水面が光る湖や、花々が咲き誇る高原、神聖さ漂う神社などの観光スポットを、手を繋いでゆっくり歩いて見て回った。
開放的な景色に心が洗われ、眺めているだけでリフレッシュになる。
「海もいいですけど、湖も絶景ですね!」
「ははっ、遥香は自然豊かな景色を見る時、いつも目を輝かせてるね」
「だって、すごく綺麗ですから! ここからの眺めも最高です!」
しばらくの散策の後、私達は湖を望むテラスが人気のカフェでひと休みしていた。
冷たい飲み物を注文して喉を潤す。
観光地ではあるものの、平日ということもありそれほど混んでおらず、カフェの中には穏やかな時間が漂っていた。
その時、店内のBGMからソラリスの『夜空のリフレイン』が流れてきた。
曲を聴きながら、「そういえば、この地はソラリスと縁のある場所だったな」と思い出す。
洸くんも音楽に耳を留めたようで、ふと顔を上げた。
「これ……結城くんからライブに誘われたバンドの曲だっけ?」
「はい、そうです」
「遥香を疑ってるわけじゃないんだけど……結城くんとは、その後どうなったの? そういえばちゃんと聞いてなかったなと思って」
少し間を置いて、洸くんは静かにそう切り出した。
声の調子は穏やかで、探るような色はない。
ただ、ほんの少しだけ、言葉を選んだような気配があった。
「ちゃんと話しましたよ。私は洸くん一筋で、洸くんしか見えてないから、って」
「……それで、納得してくれたの?」
「はい。もともと結城くんは、私が不安を溜め込みすぎて、酷い顔をしていたことを心配してくれていたので。何の憂いもないスッキリとした顔で伝えたら、良かったねって言ってくれました。あ、私達の関係は秘密にするって約束もしてくれましたよ」
「そこはあんまり心配してないよ。結城くんは周囲にペラペラ喋るタイプでもないしね」
そう言って微笑んだ洸くんの声には、どこか安堵が滲んでいた。
もしかしたら、不安にさせていたのかな、と今更ながらに申し訳ない気持ちになった。
長い間、手の届かない憧れの人だったせいで、私は洸くんを自分とは違う、完璧な人だと思い込んでいた。
でも、実際はそうじゃない。
洸くんだって、心の奥に不安を燻らせることがあるのを、今の私はもう知っている。
だから洸くんを安心させたい一心で、私はある秘密を打ち明けることにした。
「結城くんとソラリスの話になったのは、『夜空のリフレイン』がキッカケだったんですけど……そもそもこの曲に私が思い入れがあったのは、高校時代、洸くんに片想いしていた時によく聴いていたからなんです」
「そうなの?」
「はい。一方的に見つめる恋だったけど、この曲を聴くと好きな人がいるだけで幸せだなって思えて。洸くんのことを想いながら、何度も何度も聴いちゃってました。……ごめんなさい、重いですよね。引いちゃいました……?」
口にしてから改めて考えると、ストーカーじみて気味悪く思われたかもしれないと心配になった。
そろりと反応を窺うと、なぜか洸くんは伝票を持っていきなり立ち上がった。
「こ、洸くん?」
「旅館に戻ろう。ここじゃ満足にキスもできない」
目をパチクリする私に、「もう観光は十分満喫したよね?」と洸くんが微笑む。
そのまま手を引かれて旅館に舞い戻った私は、夕食の時間になるまでの間、身も心も蕩けるような至福のひと時を過ごした。
こうして、のんびり穏やかで、甘く満ち足りた休暇を楽しんだ——旅館で迎える最後の夜。
夕食を終えた私達は、部屋に備え付けの露天風呂に一緒に浸かっていた。
見晴らしが自慢の露天風呂からは、湖が一望できる。
今の時間帯、湖は闇に沈んでいたけれど、そのぶん夜空には満天の星が瞬いていた。
「あっという間でしたね」
「本当にね。明日には東京に戻って、その翌日からまた仕事かぁ。なんか信じられないな」
「ふふっ、私もです。旅行、すごく楽しかったです。提案してくれて、ありがとうございました」
「俺も楽しかった。遥香と一緒に過ごせて嬉しかったよ」
洸くんは柔らかく目を細め、私の肩にそっと手を回した。
私も寄り添うようにゆっくりと体を預ける。
触れ合う素肌から伝わる体温が心地よく、言葉では言い表せないほどの安心感に包まれた。
「来年も、同じ時期にまたここに来ようか」
「来年も?」
「もちろん……再来年も」
洸くんが口にしたのは、未来への約束だった。
それは以前の私が避けていたもの。
でも今は……
「じゃあ、ずっと予定を空けておかなきゃですね」
私は微笑みを浮かべて、頷いた。
この先も、きっといろんなことがあるだろう。
また不安に呑み込まれそうになることだってあるかもしれない。
それでも、もう終わりを恐れて心にブレーキをかけたりはしない。
大好きな人と向き合い、言葉を交わし、心を通わせ——一緒にこの恋を“最後の恋”にする努力をしていくって決めたから。
「遥香、愛してるよ」
「うん、私も洸くんのこと、昔も今もこれからも……ずっとずっと大好きです」
視線が甘く重なり、そっと目を閉じる。
輝く春の星空の下、私達はすべてが溶け合うような優しいキスを交わした——。
〜END〜




